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江戸。
その屋敷の戸を叩いたのは一人の老婆。それは沢渡であった。門番が戸を開けると、沢渡はそのまま入ろうとする。慌てて門番は沢渡の前に立ち塞がった。
「勝手に入るんじゃない」
沢渡は門番の額を人指し指でつついた。
「そんな口をきくものではない」
門番はいきなり涙をはらはらと落として、
「母上がはやくに亡くなられるから……」
と肩を落とした。沢渡は門番の肩をポンポンと叩いて、さっさと奥へと入っていった。沢渡の姿が庭の木々の間に消えると、門番はキョトンとした表情になって、首を傾げながら戸を閉めた。
沢渡は案内を乞うことなく、その屋敷の奥へと歩を進めていた。自分の屋敷でもないのに、迷う表情さえ見せない。沢渡は離れのすぐ前に立ち止まった。
「若隠居殿、春獄殿」
沢渡が離れに向かって言う。すぐに障子が開いた。
「これは……おばば殿ではないか」
「若隠居殿もお元気そうでなによりじゃ」
沢渡は部屋に入りながら言った。
「おばば殿、その呼び方は気に食わぬな。本当のことだから否定は出来ないが。せめて、春獄と呼んで欲しい」
沢渡は面白そうに笑って、
「判った、春獄殿」
と言った。
それはこの屋敷の主人、春獄こと松平慶永、越前藩前当主である。
「おばば殿、久々ついでに沢渡姫にお会いしたいな」
春獄はそう言って沢渡を見た。沢渡はふむ、と呟くと、
「そうじゃな。隣の部屋を借りるぞ」
と言って隣部屋に入っていった。春獄は居住まいを正して、僅かに頬を上気させた。その顔に少年のような表情が現れる。
スウッと襖が開いた。そこに現れたのは一人の少女。年の頃は十二、三歳、それが沢渡姫であった。
「姫、お久しぶりでございます」
春獄は沢渡姫を眩しげに見つめていた。
「この前お会いしたのは、もうずいぶん前になりますね。家督を継がれてから、あまり年が経っておりませんでしたから」
「姫は全くお変わりになりません。私だけが年を取りました」
沢渡姫は首を振った。
「それは違います。春獄殿が年を取られたのではなく、私が年を取らないだけですわ。いえ、私だけが年を重ねる周期が遅いだけ……」
沢渡姫の哀しそうな表情に、春獄は慌てて話題を変えた。
「姫、私のところへいらしたのは、何かご用があったのですね」
沢渡姫は頷いた。少し首を傾げた姿は、愛らしい少女だ。
「そのお話は、沢渡のほうからすることになりますわ。もう、よろしいですか」
春獄は沢渡姫の姿をもっと見ていたかったが、それは言わなかった。それは言ってはいけないのだ。
「それでは、姫、ごきげんよう」
沢渡姫はにっこり笑って、隣部屋に消えた。しばらくして出てきたのは、沢渡であった。そして、沢渡と沢渡姫は、同一人物なのだ。彼女は初鹿野であった。
初鹿野について少しだけ語ろう。初鹿野一族は長生族であった。普通の人と同じように生きているのだが、そのサイクルが長いのだ。そして彼らには、普通の人にはない知識と力もあった。だが、それを知る者はほとんどいない。何故なら、彼ら自身がそれを伝えることを拒んだから。人間たちの中で生きることを選ばなかったから。ほんの少しの例外を別にして。だから、初鹿野のことをそれと知っている者は、僅かなのだ。
「おばば殿、目の前で見ても信じられないな。未だにおばば殿と姫が別におるようだ」
沢渡はニッと笑った。
「春獄殿、姫はそなたを気に入っておるぞ。初鹿野と知って、姫を受け入れているのは、今ではそなたしかおらぬからな」
春獄がまた少し顔を赤らめた。
「初鹿野は今ではわしの他にはおらぬ。恐らくな。少なくとも、わしは他に知ってはおらぬから」
「おばば殿……」
「春獄殿がそのような顔をすることはない。これは、わしたちが背負わなければならぬ問題なのじゃ。他の誰にも背負えない。春獄殿が背負っているものを、わしが背負えないようにな」
春獄は重く頷いた。
「さて、ここに来た本題に入ろうかな、春獄殿。姫宮様はここにおられるな」
「何を馬鹿なことを……」
と春獄は沢渡を驚いた顔で見つめた。
「おばば殿には判らぬことなどないのだろう。確かに姫宮様はここにおられる」
春獄が肩を竦めて言った。沢渡は、
「おや、かまをかけたのじゃが、当たったか。偶然じゃな」
と笑った。春獄が先程とは度が違うほどの呆れ顔をする。
「おばば殿も人が悪い」
沢渡はまた笑った。
「それでなくては、長生きは出来ぬよ。姫宮様にお会いしたいな」
「会われますか」
そう言って春獄は文机の上の鈴を鳴らした。
「春獄殿、姫宮様と一緒にしばらくわしも世話になるぞ。もしかすると、もう少々増えるかも知れぬが」
「幾人でもよろしいですが……。他にどなたがいらっしゃるのですか?」
沢渡は笑ってその質問には答えなかった。そして、縁側で声がした。
「春獄殿、お呼びですか」
そしてスッと障子が開く。そこに座っていたのは、十五歳になった親子であった。そして沢渡を見つけて、パッと立ち上がった。
「おばば様、おばば様ではありませぬか」
と親子は沢渡に抱きついた。
「これこれ、姫宮様。そのように抱きつかれたら苦しゅうございます」
「お会いしとうございました。四年間、ずっとお会い出来る日を楽しみにしておりました。おばば様、私に会いにきてくださったのでしょう」
親子が涙をポロポロと零しながら言う。その頭を沢渡はそっと撫でた。
「そのように辛いかえ、姫宮様」
「おばば様、私は……」
と親子は涙を拭った。そしてニコッと笑う。そして首を振った。
「辛いとは思いませんわ。ただ、哀しいと思うことがあるだけです。でも、もう涙は流しません。私には守ってくださる人がいるから。おばば様もお兄様も……」
沢渡は親子をジッと見て、
「姫宮様、何故、江戸に来られたのじゃ。好むと好まざるに関わらず、あと数ヶ月後には江戸に来られると言うのに」
と言った。親子はニコニコと笑う。
「だって、京は退屈ですもの」
「姫宮様」
親子は少し肩を竦めた。そしてスッと真剣な表情をする。
「おばば様、私は当代との婚姻を承諾しましたわ。それは私の意思とは関わらず決まってしまったこと。皇女というだけで私は一つの枷を負っています。六歳の時に熾仁様と婚約したことも、それを破棄され今回の婚姻に至るのも。ですが、今ではそれはすべて私の進むべき道となりました。私は、私の出来ることを納得出来るようにやってみたいのです。私は、自分の立場なりに生き甲斐を見つけたいのです。だから、江戸に出てきたのですわ。この婚姻を喜ばない者は、江戸にはいるでしょうから。私は餌としては充分過ぎませんか」
沢渡が親子の頭をポンと軽く叩いた。
「姫宮様、宮家に関わりを持たないと決めたわしじゃが、姫宮様のためにお力になろう」
親子が沢渡を見上げた。
「私の側にずっといていただけるのですね。父上や母上のように先に逝かないのですね。おばば様、親子はそれを望んでいます」
親子の目に再び涙が溢れてきた。沢渡が、
「約束しよう。姫宮様を一生見つめ続けると」
と言って頷いた。
「春獄殿、姫宮様がこの屋敷に来られたのは、わしと姫宮様が、両方ともそなたを信頼しているからじゃ」
黙って二人のやりとりを聞いていた春獄は、ハッとして沢渡のほうを見た。
「だから、そなたには唐宮様のことも話しておかねばならぬな」
「唐宮様?」
「姫宮様の兄上様方じゃ。二十二歳になられた双子じゃ」
と言って沢渡は話し始めた。
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