同じ夜。同じ京の一つの屋敷。
 幟子はその屋敷の一室にいた。夜というのに明かりはない。隣部屋には明かりが灯され、透かし欄間から明かりが洩れる。だが、幟子自身は暗がりにいた。目を開け、ジッと畳を見つめている。
「幟子」
 と隣部屋から声がした。年寄りの声ではない。若かった。
「はい」
 と幟子は言った。
「やはり、京にはおらぬのだな」
 先程とは違う声がした。こちらも若い男の声であった。
「はい。私の考えでは、恐らく、江戸に向かわれたことと思います」
 幟子は視線を動かさないまま答えていた。
「江戸か……」
「幟子、いったい何故、江戸に向かったと思うのだ?」
 幟子は顔を上げた。二十代前半か、それよりも若いかもしれない。髪は短く、片膝を立てて座っていた。
「私に確証があって申しているわけではございません。ですが、ご自分で露払いをなさるのでは、と。あのご気性では、そう考えるのが適当だと思ったまでです」
 隣部屋の二人の男が大きく溜め息をついたのを幟子は感じた。
(江戸に行くことになるだろう)
 と幟子は思っていた。きっと二人はそれを望むだろう。それを自分は受け入れるのだ。
「幟子」
 最初に声を掛けたほうの男が言った。こちらのほうが、もう一人より幾分若い感じだ。
「江戸に行ってくれ」
「判りました」
 幟子は即座に答えた。だが、その後の言葉は、幟子にとって愕然とさせるものだった。
「何もしなくてもよい。見つけたら、京に戻るまですべてを見届けるように。だが、何もしなくてもよい。江戸で命を落とす羽目になったとしても、助けなくてもよい」
「な、何故です?」
 幟子の質問には答えることなく、隣部屋の障子が開き、気配が遠去かっていった。幟子は呆然とそこにいた。
 しばらくして隣部屋との襖が開いた。幟子は眩しげに目を細めた。
「幟子」
 そこにいたのは、最初に声を掛けたほうの男、熾仁、幟子の実の兄であった。
「兄上様、どうしてです?」
 熾仁は首を振った。
「私には何も言えない。上が決められたのだ。だから、幟子、お前もそのつもりで、江戸へ行くように」
 幟子は立ち上がって、そして暗がりへと下がった。
「兄上様、私はあの方が好きです。だから、いざと言う時はお守りします。これは譲れません」
 障子が開く音がして、熾仁には幟子が出ていったのが判った。
「それで、いいんだ、幟子」
 一人になって熾仁が呟いた。そして襖を閉め、その部屋は再び暗闇の支配が多くなった。



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