文久元年、三月。
 京の二条家。そこに駄科は入っていった。そして当主、忠雅に会いにいった。
「二条様、父に宮たちのことをお話しになっておられなかったのですね」
 忠雅は駄科をジロリと見た。
「気に入らぬか、駄科。話したければ、お前から話してもよいぞ。別にわしは構わない」
 忠雅はそう言ってカッカッカッと笑った。駄科は忠雅を見つめる。そして首を振った。
「まあ、それはどうでもよろしいことです。私には関係のないことですから。ところで二条様、お聞きしたいことがございます。姫宮様は京にはおられないのですか」
 忠雅が睨む。
「何を言いだす? 他にどこに行かれると言うのだ、駄科。滅多なことを口にするものではないぞ」
 駄科は頭を下げた。
「申し訳ありません」
「下がってよいぞ」
 駄科はもう一度頭を下げると、忠雅の前を辞した。
(だが、姫宮様は御所にはおられなかった。いったい、どちらに行かれたのだろうか。それともいなくなられたのか)
 駄科は自分の部屋に戻りながら考えていた。親子が宮たちに会って四年が経っていた。親子が十四代家茂に降嫁するのは、確実な未来なのだ。そのことと、親子の姿が見えないことと関係がないと言えないのだろうか。
「駄科」
 と後ろから呼ばれた。駄科は僅かに顔をしかめて振り向いた。もちろん、相手のほうを見た時には、すでにその表情を消していたけれど。
「はい、忠教様」
 駄科を呼び止めたのは、忠雅の息子、忠教であった。顔色が悪いのは病弱なため、それ以上に表情が悪いのは忠教の性格の悪さを現していた。駄科はこの男が嫌いであった。
「京極殿に会いにいったようだな」
「はい、二条様からお許しが出ましたので」
 駄科は目を伏せて忠教を見ないようにしていた。顔を見るのも嫌なのだ。
「そうか」
 忠教は駄科をすがめて見る。
「また、どこかに出ていくのだな、お前は」
「二条様に言われましたら、私はどこへでも行きますが」
「わしは病弱故、この屋敷から出ることが叶わん。いいな、お前は」
 全く抑揚のない口調で忠教は言う。駄科は心の中で溜め息をつく。忠教は興味があるから聞いているわけではないのだ。
(全く……)
 と駄科は僅かに首を振る。この男からよくもまあ忠宗のような方が生まれたのだろうか、と駄科は思った。忠宗は忠教の一人息子で九歳であった。忠教の息子とは思えないほど利発であった。それが忠雅にとっては嬉しく、忠教にとっては憎しみとなって存在していた。僅かに似ていると感じられるのは、忠宗が少し病弱なことだろうか。
「忠教様」
 と駄科は自分を呼んでいる声をホッとして聞いていた。
「二条様から呼ばれていますので、失礼します」
 深々と頭を下げて駄科は忠教の前を辞した。その背に忠教の言葉が被る。
「駄科も父上も、わしが早く死ねばよいと思っておろう。だが、わしとて簡単に死にはしない。わしが何をするか楽しみにしておいてくれ」
 駄科のギョッとして振り返った目に、忠教のニタッと笑う表情が映った。そのまま忠教は自分の部屋に戻るべく背を向けた。駄科はゾクッと背を震わせて呼ばれたほうへ向かった。
(まさか、ご自分のお子に対して何をなさると言うのだ。いくら忠教様でもそんなことはなさらないだろう)
 駄科はそう思ったが、確信を持って、ではなかった。駄科はその考えを振り払うように頭を振った。駄科はこの日のうちに二条家を去った。だからその後の二条家の出来事を知ることがなかった。それはそれに関わった人以外には全く伝わらなかったのだ。
 駄科は再び忠雅の前にいた。
「駄科、江戸へ行ってくれ。この書状を老中本多正重様に渡して欲しい」
 駄科は忠雅から書状を受け取りながら、
「老中本多正重様ですね」
 と言った。
「すぐに発てるな」
「お急ぎでしたら、今すぐ出立いたします」
 忠雅は頷いた。駄科がすっと立ち上がる。
「駄科」
 と忠雅が呼び止めた。駄科が立ち上がったまま、忠雅を見つめる。だが忠雅はすぐには何も言わなかった。
「あの……」
 駄科が不審気に口を開いた。
「駄科、いや、公房殿、忘れずにいて欲しいことがある。我ら、公家には何の力もないということを。それを忘れずに……。何の力もないのだ、我々には。何も出来ないのだ」
 忠雅はそう言いつつ目を伏せる。駄科は忠雅がどうして今、そんなことを言ったのか、その理由を知りたかったが、それを知ることは出来なかった。忠雅は手を振って、駄科は忠雅の前を辞し、そしてそのまま京を発った。
「と言って、手をこまねくだけでいいのか…」
 忠雅は一人になって呟いた。



←戻る続く→