天保十年、二月。
 京の町は底冷えする寒さに震えていた。そしてその部屋の中は、暖が取られているにも関わらず冷え冷えとした空気に覆われていた。
 一人の赤子の誕生が待たれていたのだ。その部屋には布団の中にその母親となるべき女、そして少し離れたところに老婆。その老婆は沢渡であった。
 生まれてくる赤子の名はすでに決められていた。四宮として唐宮と名づけられるのだ。
「生まれるか、お前たち」
 沢渡がふいに言った。そしてパン、と一つ手を打つ。まるで澄んだ空気に包まれた京の町中に響いたようであった。そして、すでに女は母親になっていた。
「何故、わざわざそれを背負おうとするのじゃ」
 沢渡は苦しげな口調で呟いた。赤子は泣きもせず、沢渡を見つめている。沢渡は一度首を振って赤子を洗い清め、真白い産着を着せた。
「だが生まれてきたものを殺すことは出来ぬ。それはわしには選べぬ。絶対にそれだけはさせぬ」
 沢渡が赤子を抱えたまま向かったのは、その部屋よりまだ奥の部屋であった。そこにいたのは、二人の男。父親に当たる仁孝と二条忠雅であった。
「おお、おばば、待ちかねたぞ。無事に生まれたのだな。親王か、内親王か」
「上、唐宮様は死産じゃ。そのように母君様には申しておいた。上も、そう心得ていただきたい」
 忠雅が、
「おばば殿、それはどういうことだ」
 と声を荒立てた。沢渡は二人の側にすすっと進んで赤子を二人に見せた。二人とも声を失くす。赤子と思えぬほどのその美しさに。そして、そのすぐ後に全く異なった表情を浮かべるのだ。
「双子か?」
 仁孝が唸るように言った。忠雅が僅かに首を振って、
「お上、お一人は……」
 諦めねばなりますまい、声には出さなかったが、その言葉は通じた。
「上、二条殿、唐宮様はわしが連れていく。双子は忌み子、だからと言って、お一人を殺させることはせぬ。それだけはわしは許せぬ」
 沢渡が二人から離れて言った。
「初鹿野の名前が生まれてから、その名を初めて汚そう。上、御前に初鹿野はもう現れませぬ。もはや、初鹿野の存在する意味もなくなるであろうからな。そして、安心してもよいぞ。決して、唐宮様は表には出ぬから」
 沢渡はそう言って、仁孝に軽く頭を下げて部屋を出た。慌てて忠雅がそれを追う。
「おばば殿」
「二条殿、お主の心配はもっともなことじゃ。だが、わしは約束は守るぞ」
「おはば殿、その双子、育てるのだな」
 沢渡は振り向いて忠雅を見つめた。
「そのために、わしは御前を下がるのじゃ」
 無言で見つめる忠雅をそこに残したまま、沢渡は立ち去った。
 そして、二条家に京極公為が呼ばれたのは、同じ夜であった。
「京極殿、公房殿をわしにくれぬかな」
 開口一番に忠雅は言った。は? という顔で公為は忠雅を見る。
「わしには一人しか息子がおらぬし、京極殿には二人いる。わしの息子は愚息だが、京極殿のところは二人とも聡明だ。どうじゃな」
 どうじゃな、と言われたところで、公為は断ることが出来なかった。二条家と京極家とは親戚とはいえ遠い。そして今の地位は、あまりにもかけ離れていた。二条家の頼みを京極家としては断ることは出来ないのだ。
 そして、公房は二条家に行った。二十二年経って、再び親子として会った二人であった。だがすでに、親子としていた十三年間よりも、離れていた年月のほうが長かったのである。



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