風がザアッと吹き過ぎた。しばらく春の兆しが見えていたのが嘘のように、冬に逆戻りしたようであった。木々の吹き出した芽が、その寒さに震えている。木立の合間に一軒の小屋があった。その中では囲炉裏の火が赤々と燃えていた。
「山を下りる」
 囲炉裏の側には三人の人間がいた。それは沢渡と二十二歳になった宮と唐であった。その言葉を言ったのは唐。宮と同じだけ長かった髪は短くなり、もう後ろで結べない長さになっていた。
「四年経ったからか」
 宮の言葉は糾弾するようであった。
「姫宮は将軍家に降嫁するんだぞ。宮は心配ではないのか」
 唐の目つきは鋭い。
「心配? ただ将軍家に降嫁することがどうして心配することにつながるんだ。それに唐は親子に妹です、と言われて、はい、そうですか、と信じたんだな。いや、別におばばが嘘をついているとは思えないから、それは本当のことだろう。それは別にいいんだ」
 宮は呟くように言った。
「宮が行きたくないのなら、私だけで行く」
 唐の表情が緩んだ。だが、宮には唐が宮に対して冷え冷えとした感情を持っているのが判った。唐は変わった、と宮は思った。それは四年前に一度会っただけの、七歳年下の親子によって。それまで宮は唐であり、唐は宮であり、二人は同じものに同じ感情しか持っていなかった。一心同体は彼らのためにある言葉であった。そう今までは。
「宮様、唐様」
 今まで黙っていた沢渡が口を開いた。二人は沢渡のほうに視線を移した。その表情を二人とも消して。
「お二人とも、炎の中をご覧。ご自分の未来が見えるかな」
「見えない」
「私はおばばではない」
 沢渡が枝で薪を少しつつく。火の粉がパッと上がった。
「そう、未来とは見えてはならぬものだ。わしもあえて見たいとは思わぬ」
「だが、おばばは見ているではないか」
「見たくないのなら、その札、捨てればいい」
「いや、自分の未来は見ようとは思わない。だけど、姫宮の行く末だけは気になる。おばば、教えてはくれぬか」
 それを言ったのは、もちろん唐であった。その表情は真剣で、宮はそれから視線を逸らすことを選んだ。
「姫宮様の未来も話すわけにはいかない。何者であっても自分のものも他人のものも、それは知ってはならぬことなのだ。それにわしが札で見るのは、幾筋もの分かれているうちの、たった一つの道だけじゃ」
「だが、その道の運命になることがほとんどだ。そうだな」
 宮が冷やかに言う。沢渡が首を振った。
「宮様、運命という言葉はお使いになるな。運命とか、宿命とか、そんな言葉で片づけられるほど人は簡単には生きてはおらぬ」
 宮の冷笑が沢渡の頬を打つ。
「だが、それを言っているのは、おばばのほうだ」
 沢渡は沈黙したままだった。唐が、
「おばば、お別れだな」
 と言って立ち上がった。その言葉に助けられたように、沢渡は口を開いた。
「唐様、姫宮様をよろしくな」
 唐は力強く頷いた。一人で出ていこうとする唐の背に、宮の言葉が投げかけられた。
「唐、私も一緒に行く」
 そう言って立ち上がる宮に、驚いて唐が振り返った。
「親子が心配なのではない」
 それだけ言って、宮は沢渡のほうを向いた。それではどういう理由なのか、唐が聞く前に宮が言った。
「おばばは一緒に行かないのか。このままこの山を下りないのか」
 宮の言葉に驚いたのは二人とも。そして口を開いたのは、沢渡であった。
「わしも山は下りる。だが、お二人と一緒にではない。生きておれば、また出会える日もあろうがな。とりあえずは、お別れじゃ。宮様、唐様、達者でな」
「おばばもな」
 唐はそう言って笑って戸を開けた。サアッと陽射しが射し込む。
「唐、後からすぐに追いかけるから、先に行ってくれ」
 宮の言葉に唐は一瞬相手を見つめて頷いた。
「おばば」
 宮は唐が立ち去ってしばらくしてから沢渡のほうに向き直った。
「何故、私たちを育てたんだ?」
 宮の表情は、沢渡からは逆光になって見えない。それでも、沢渡には宮の表情が判っていた。
「それは、どういう意味じゃ?」
 宮がフッと笑う。
「私たちは、いや、私たちの一方は、殺されていた子供だった。殺されなければならない子供だった。それはいったい、私と唐のどちらだったんだろうな」
「宮様!」
「おばば、私たちに私たちの未来を教えないのは、それが悲惨なものだからだろう。そうでなければならないんだ」
「宮様、それは違うぞ。人間は未来を覗いてはならないのじゃ。ただ、それだけの理由じゃ。それに、宮様も唐様も、いや、誰でも、死ななければならない人間などいない。わしに未来が見えることのほうが、間違っているのじゃ」
 宮はまた笑う。
「おばば、その札を捨てないのは、未来を見たいためではないだろう。おばばには札など必要ないのだから。札は単なる儀式のようなもの」
 沢渡がギョッとした表情を浮かべた。
「別に、私は自分の未来を見たいとは思わない。他人の未来も覗きたいと思わない」
 宮は外を見て、少し眩しげに目を細めた。沢渡がハッとしたように宮を見つめていた。どうしてそう見えたのか、それは一瞬のことだった。沢渡は見間違いだと信じたかった。あまりにも宮が儚げに見えたのは。
「ただ、私は……」
 と宮は沢渡のほうを向いて、その後何か言いかけたが、沢渡の耳には届かなかった。沢渡の前から宮が姿を消す。先に行った唐を追っていったのだ。
「宮様、あまり愛し過ぎませぬようにな」
 沢渡が開け放たれた戸から外を見つめて呟いた。
「言っても無駄じゃが、言わずにはおられぬ。何度、同じ運命を見なければならぬのか」
 その言葉が嫌いと言いつつも、沢渡は口に出してしまう。その言葉で片づけられるほど、単純に生きることは出来ないのに。宮に皮肉られたのは沢渡にも判っていることだ。だからこそ、胸に突き刺さる。
「今はない初鹿野の里に戻ることが出来たら……」
 沢渡の顔が一瞬、少女の顔に変わった。その手を囲炉裏の上で振る。瞬時に火が消えて、沢渡の姿は薄闇の中に消えた。
 次の朝には小屋の中にはすでに誰の姿もなかった。
 文久元年、三月のことであった。



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