輿の回りの者たちはいきなり現れた二人に色めき立ったが、成す術もなく瞬く間に地に伏せていた。
「何だ、たわいない」
 宮がボソッと呟いた。その顔に失望がありありと見える。唐の表情もそうだったが、唐はそれを消して輿の戸を開けた。そして、
「宮」
 と宮を呼んだ。宮が唐の隣から輿の中を覗き込む。
「子供に見えるが、これが私たちの親か?」
「そういうわけかな」
 本人たちはいたって真面目に考え込んだ。
「宮様、唐様」
 と声を掛けられて、
「おばば、どういうことだ」
 と同時に振り返りながら言った。沢渡はニコニコとしていたが何も答えずに、二人の間に割って入って、
「姫宮様、お起きになっていらっしゃいますな」
 と声を掛けた。そして輿の中にすっと手を差し入れ、その手が次に出てきた時には、その先に少女の姿があった。宮と唐は無言でそれをジッと見ている。
「おばば様、お久しぶりでございます」
 少女は嬉しそうに笑って言った。そして宮と唐を見上げる。宮は冷やかに、唐はハッとした表情で少女を見つめていた。
「ご紹介いたしましょうな。宮様、唐様、お二人の妹御に当たる親子様じゃ。皆様方の兄宮様は、すでに帝になっておられる。姫宮様、こちらが宮様、唐様、姫宮様の兄宮様じゃ」
 親子は沢渡の手を離れ、二人に近づいた。そしてすぐ側に立ち止まった。
「お兄様……私のお兄様ですね」
 親子は宮と唐の手をそっと握った。そして離すと、
「お会いしたかったのです。ずっと前から。やっとお会い出来ましたわ」
 ポロポロと親子の目から涙が零れて、そのままに親子は二人を見上げていた。
「おばば」
 困惑した表情を浮かべて唐が沢渡のほうを見る。沢渡が、
「唐様、姫宮様は先日、母君様を亡くされたばかりなのじゃ」
 と言った。唐は親子のほうに視線を戻して、そしておずおずと手を伸ばし、そっと彼女の頭を撫でた。親子がこらえきれなくなって、唐に抱きついていく。宮はそれから視線を外し、
「私たちの素性か」
 と冷たく沢渡を見つめた。
「お兄様、私を守ってください」
 親子が涙を拭って唐を見上げた。
「守る?」
「おばば様の予言ですわ。私は四年後に将軍家に降嫁するそうです。それを快く思わない者が出てくるでしょう。そんな者たちから、私を守ってください」
 親子の真摯な表情見つめて、唐は心の奥に今までなかった感情が沸き上がってくるの覚えた。自分と宮とは一心同体、その立場は対等であり、いや、自分自身以外の何者でもなかった。沢渡や駄科に対しては、自分たちを育ててくれた人、という感情しかない。だから、駄科が山を下りる、と言ったところで、それが永遠の別れであっても何の感情も浮かばないのだ。だが、今いきなり沸き上がってきたこの感情は何だろう。それが唐には判らなかった。
「姫宮」
 と唐は言って、だからそのまま抱き締めた。
「お兄様のお手はとても温かい。手の冷たい人は心が温かいと言うけれど、手の温かい人はそれよりもっと心が温かいの。お兄様は優しい方ですわ」
 そう言って親子は微笑んだ。
「さて、姫宮様、そろそろお帰りにならぬとな」
 沢渡が言って、親子は唐から離れた。宮は無言で冷やかな表情のまま少し離れて立っていた。親子が輿に乗る。そして中から戸が閉められた。
「我々も帰ろうかな」
 沢渡はその言葉とともに歩きだした。唐がすぐにそれを追う。宮は輿に一度視線を移して、そして二人の後を追った。
「星が動きだすのは四年後……お兄様は私の星になってくださるのかしら」
 親子が一人になって呟いた。
 一方、沢渡とともに小屋へ戻っている途中の唐は、
「おばば、姫宮に対する予言は確実なのか」
 と問うた。
「姫宮様が四年後に将軍家に降嫁されるのは、確かじゃ。ただし、今の将軍家ではなく、来年十一月に十四代を継がれる家茂様に降嫁されるのじゃ」
「つまりは今の十三代はそれまでに死ぬということか」
 宮がそう言って唐をチラリと見る。唐は宮のほうを見向きもしなかった。
「すべてが動きだすのは四年後。今はただ姫宮様に会って欲しかっただけじゃ」
 沢渡の言葉に唐は、
「そうか。先に帰るぞ」
 と言って走りだした。宮は沢渡を呼び止めた。
「おばば、一つ聞いておきたい」
 沢渡は足を止めた。
「今日、親子が来ることは判っていたことだな。その前に兄者が私に山を下りようと言ったのは、おばばの差し金か?」
 沢渡は宮をジッと見上げてしばらく何も言わなかった。
「親子を私に会わせたくなかったからか?」
 宮の表情はただ冷たい。沢渡は宮を見つめたまま、
「それは違う。だが、駄科に宮様を連れていくようにと言ったのは、確かにわしじゃ。理由は先程言った通りでな」
 と言った。宮はその目つきを僅かに鋭くした。だが何も言わずに走りだした。
(理由は違えど、親子を唐にだけ会わせたかったのは事実だろうな)
 それがどういう理由かは判らないが、と宮は走りながら思った。
 沢渡は瞬く間に木立の中に消えた宮を見送って、ゆっくりと歩きだした。
「さて、星はどのように動きだすのだろうな。とりあえずは、駄科を見送ることとするかな」
 沢渡はフウッと息を落とした。
「すべてわしの札の通りになっていくのだろうかな。宮様は……」
 と沢渡は口を閉ざした。そしてその後は何も言葉にせずに歩を進めた。
 安政四年の春であった。
 宮と唐と呼ばれている双子は十八歳。そしてその妹である親子は十一歳、彼らの長兄は二十六歳になる孝明天皇であった。つまりは親子は四年後に将軍家茂に降嫁する和宮のことであった。
 時代は大きく揺れ動いていた。翌年、安政五年井伊直弼が大老になり、七月に十三代家定が亡くなり、十一月紀伊家より家茂が十四代を継いだ。家茂はこの年、親子と同年の十二歳。そして、家茂と十四代を争った一橋慶喜らに対する井伊の処分が、安政の大獄であった。その井伊も、安政七年三月に桜田門外の変でこの世を去る。その月十八日に万延と元号が変わる。さらに年が明けて、文久元年となる。
 宮と唐が親子に出会って四年が過ぎた。


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