そこは、人里離れたどれだけ山奥なのだろうか。靄が薄くかかり、少しばかり視界を悪くしていた。ガサッと草をかき分けて現れたのは一人の男。がっしりとした体格は着物の上からもよく判った。年の頃は三十過ぎぐらいか。だが、総髪に束ねた黒髪は、白いものがかなり混じっていた。駄科と彼は呼ばれていた。駄科はキョロキョロと辺りを見渡した。そして、
「宮、どこにいる」
 と叫んだ。それに対する答は、近くの木の枝が揺らいだだけだった。駄科はそちらを見る。見たと同時に、駄科の目の前にふわっと何かが舞い降りた。木賊色の一重を着流して長い黒髪は髷を結いもせず、後ろで一つ緋色の紐で括っていた。少年、と言うより少女と言ったほうが、その姿には似合っていた。だが、その鋭い目が少年であることを確かな感覚として相手に見せる。ただ、見慣れているはずの駄科でさえ、ハッとするような美貌であることは現実のことであった。
「何か、用か、兄者」
 鋭い目元を少し綻ばせて少年は言った。駄科はハッと現実に戻される。見とれていたなどと、そんなことあるはずはない、と言い聞かせて。
「宮、山を下りよう。一緒に京の都に行こう」
 駄科は少年を宮と呼んで、少年は駄科を兄者と呼んでいた。宮は近くの木にもたれ掛かった。
「京の都か……。別に興味はないな。でも、唐が行きたいと言うのなら、私も行こう」
 駄科は首を振る。
「唐は連れていかない。お前だけを連れていく」
 宮は首を傾げた。
「私だけ? ならば、行く気はない」
 宮は素っ気なく言った。
「宮、唐が行かないとどこにも行かないのか。お前はこの狭い世界の中だけで生きていくつもりなのか」
 宮は駄科をジッと見る。その表情は呆れたような、というのがふさわしい。
「兄者、いまさら何を言ってる? 別にこの世界が狭いとは思わない。私は唐と二人だけの世界で充分だ。この山に二人だけだったとしても、何も問題はない。兄者もおばばも山を下りたければ下りればいいんだ」
 そう言って宮はもたれていた背を木から離した。
「宮、お前がどう思っていようが、私はお前を連れていく。腕ずくでも連れていくぞ」
 宮が駄科を振り返って、ニッと笑った。
「腕ずく? 冗談にしてはつまらな過ぎるな、それは」
 駄科はその美貌に浮かぶ好戦的な目つきに、ほんの少し背筋を寒くした。
「冗談ではない」
 宮は目元の表情を少し変えた。
「兄者、確かに私に武術の手解きをしてくれたのは兄者だ。だが、すでにどちらの腕が上か、互いに判っていると思っていたけどな」
 それは憐れみの目つきだ。駄科はそれに気づいたが気づかない振りをした。
「判っている。だが、私はお前と刺し違えてでも連れていくぞ」
 駄科は帯の後ろに挟んでいる小太刀を抜いた。宮はその前でただ立っていた。何も腰につけていず、ただ手をだらりと垂らして立っているだけであった。
「行くぞ」
 駄科が宮に向かう。宮はそのままの姿で再びニッと笑った。駄科は飛び上がり、木の枝を蹴ってそのまま急降下する。宮はそのほうを見ようともせずただ立っていた。その姿に駄科はゾクリと背を震わせる。ヒュッと空気の鳴る音がして、ドサッと何かが落ちた。そしてそこに膝をついたのは駄科で、宮はいつの間にか髪を束ねていた緋色の紐を左手に持っていた。
「兄者、私からのはなむけだ。弟子の上達振りをその身で受けて満足だろう」
 宮は歩き去りながらそう言って、慣れた手つきで髪を束ねていた。駄科はその姿を見ることは出来なかった。グラリと倒れる駄科の側には、小太刀を握ったままの彼の右手が転がっていた。
「宮を連れていくことは……やはり、私では無理か」
 駄科の口元から言葉が零れる。右肩から流れだす血が、青々とした草を赤く染めていた。このままここで死ぬのだろうか、と意識が朦朧となりつつ駄科は思った。
「駄科」
 といきなり声が降ってきた。駄科が首だけをそちらに向ける。駄科の目に映ったのは、宮の姿であった。
「小屋まで来るがいい。その傷、おばばに治させよう」
 そう言ってさっさと立ち去ろうとした背に、
「宮……が、そんな口をきくとは思わなかった」
 と投げかけた。
「駄科、失血でぼけたのか。私は唐だ」
 そう言って彼は駄科を一瞥すると立ち去った。
「ああ、そうか」
 駄科は呟いて鉛のように重くなった体をようよう起こした。左手に斬り落とされた右手を持ってふらつきながらも辿り着いたのは、一軒の小屋の前。戸口に倒れ込むようにぶつかった駄科を、小屋の中から出てきて支えたのは、一人の老婆であった。沢渡という名であった。そしてそれとは思えぬほど簡単に駄科を抱えると、沢渡は小屋の中に消えた。


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