HOME河川上流中流の土砂流下と堆積の規則性を考える

安倍川河口から続く静岡の砂礫浜海岸(その2) >安倍川河口から続く静岡の砂礫浜海岸(その3)

河川上流中流の土砂流下と堆積の規則性を考える

安倍川河口から続く静岡の砂礫浜海岸(その3)

静岡の前浜の現状とその回復

(この章の概要)・(静岡の前浜の現状)
(静岡の前浜が失われた原因)
(静岡の前浜の回復)・(この章のまとめ)

2014年12月31日、一部訂正、変更、削除
2014年9月18日、一部訂正、「概要」と「まとめ」を追加
2013年11月24日、掲載

2014年12月の一部訂正、変更、削除について
 「離岸堤」に関して思い違いがありましたので、それらを訂正、変更、削除しました。
訂正前には「離岸堤がある場所では砂礫はほとんど移動しない」としていましたが、これを「離岸堤がある場所の砂礫の移動は僅かです」に訂正しました。
 「大浜海岸より東側では海岸がほとんど回復していない」としていましたが、これを「大浜海岸より東側では僅かづつ回復している」に訂正しました。
 上述の事柄について、直接その記述をしている箇所と関連する文章を訂正しました。
 また、校正漏れによる明らかな間違いと、その他の解りにくい文章も幾つか訂正しました。 解り難い文章については、大幅に変更訂正し削除した個所もあります。
 上述の事柄に関連しない論旨の訂正はありません。

 これらは、多くの「離岸堤」が設置されている大浜海岸以東の海岸が、年月を経るごとに少しづつ回復していることを示す資料を「静岡土木事務所」で拝見したこと、 並びに、それらの海岸でその状況を実際に確認したことに依ります。その他の修正は、読み返す過程で気が付いた明らかな間違いと分かり難さの訂正です。
 従前の記述をお読みになった皆様には、ご迷惑をお掛けすることになりました。誠に申し訳ありません。

この章の概要
静岡の前浜の現状
 安倍川河口から三保の松原に至る静岡の前浜の現状を分析しています。
 幸いにして、静岡の土木事務所が長年に亘って調査し記録してきた前浜の陸地と海底の地形図が存在しています。 この地形図を元に現状の前浜がどのような状況であるのかを明らかにします。
 また、この章に至るまで記述して来た私の考え方が、前浜の海底地形図の状況に適合しているかについても検証しています。

静岡の前浜が失われた原因
 静岡の前浜が浸食されているのは、安倍川から前浜への土砂の受け渡しがうまくいかないからであると考えています。 その詳細を、安倍川河口で発生している実際の状況を分析する事によって明らかにしています。
 さらに、河口からの土砂の受け渡しがうまくいかない根本的な原因についても詳細に考察しています。
 過去数百年或いはそれ以上長い年月に亘って問題なく存在していた、各地の砂浜や砂礫浜が近年になって損なわれているのは、近年になって発生した共通の原因が有るからです。

静岡の前浜の回復
 原因が明らかになれば、その回復方法の考案も容易です。
 この節では、個別的な安倍川の場合の回復方法と、より普遍的な回復方法の両方共に考えています。 静岡の前浜について、前浜を回復させる現実的な方法をいくつか提案しています。
 浜辺が浸食されているのは、ただ静岡の前浜だけの問題ではありません。全国の同様の問題には共通した原因が有ります。 ですから、静岡の問題に限らず全国の問題を解決するためのヒントも記述しました。



静岡の前浜の現状
中島海岸
 2011年秋、台風の通過が中島海岸にもたらした大きな波は、ほとんど堤防近くにまで届く波だっと思います。 その結果、砂礫浜から多くの砂礫が流失したと考えています。 
 そう判断したのは、2012年8月25日前後に生じた大きな波による砂礫浜への砂礫の堆積と、それ以前の砂礫浜の状況を比較したからです。

 7月16日の後に砂礫浜が前進した状態や、8月25日前後に砂礫浜に砂礫が積み上げられた状態は、 中島海岸が本来の姿に僅かながら近付いた状態であると考えています。
 静岡の前浜では、供給される砂礫量が減少しているから砂礫浜が浸食されています。供給される砂礫が減少する前には、 7月16日前後に見られたような砂礫の移動が普通に発生していたのだと考えられます。 

 7月16日前後の砂礫の移動は、砂礫浜が浸食されている状態の中でようやくにして生じている砂礫浜の回復現象です。 7月16日前後に見られた砂礫の移動が続けば、或いは砂礫量がもっと多くなれば、中島海岸の砂礫浜の拡大も続きます。 それが、やがては前浜全体の回復につながるはずです。
 しかし、残念な事に、砂礫の供給量は多くはありません。そして供給が長く続くこともありません。 

 ずっと以前に前浜海岸が浸食されるようになった以後でも、 中島海岸では7月16日前後に見られたような砂礫の移動が幾度も繰り返されていたのだと思われます。
 或いは7月16日の時よりも大量の砂礫が移動していた事もあったのかも知れません。 ですから、中島海岸では砂礫海岸らしさが少し残されています。

 しかし、第一消波ブロックから先には消波ブロック群が連続して幾つも設置されているので、砂礫がそれから先に移動することは容易ではありません。 その結果は中島海岸より東側の大浜海岸の景色にも現れていると思います。
 大浜海岸は中島海岸より浸食されているので、堤防から波打ち際まで膨らみのない直線的な斜面が渚まで続いています。 中島海岸のように砂礫が浜の上に積み上げられる事が無いのです。
 さらに、大浜海岸から先に多くの砂礫が届くことはありません。砂礫浜の回復は容易ではありません。

中島海岸の消波ブロック
 「砂礫浜を考える(静岡の前浜の場合)その1、その2」では消波ブロックが砂礫浜の回復を妨げている事を説明しています。 その時に想定していた砂礫の移動現象は、現実には異なっていた事が明らかになりました。 しかし、消波ブロックが砂礫の移動を妨げている事自体は、現在でも間違いがありません。それは今回の観察の結果からも明らかだと言えます。 

 消波ブロックは波が陸地に打ち上げるのを妨げますから、砂礫浜の浸食を少し防いでいると思います。 しかし同時に、消波ブロックの正面から砂礫浜に新たな砂礫を打ち上げるのを妨げています。
 そして、肝心かなめの砂礫の移動をも妨げています。従って、消波ブロックを設置した海岸では、少しずつ砂礫や砂が浸食されていくことが多いのです。

 ですから、中島海岸の第一消波ブロックの東側で僅かとは言え砂礫浜が回復した事は驚きでした。 消波ブロックがあったにも関わらずその先を迂回して移動して来る砂礫があったので、ささやかでも砂礫浜を回復させる事が出来たのです。
 この場所は、砂礫の供給源である安倍川左岸の岸辺に近い場所であり、そこまでには砂礫の移動を妨げる消波ブロック列が一つしかないから、 それを通り過ぎて砂礫が移動して来たのです。しかし、それ以上に遠くまで砂礫が届く事は容易ではありません。 

 そして、中島海岸も、それより東側の海岸も、そのまま回復を続ける可能性は多くありません。砂礫の移動が長期間続く事は無いのです。 移動して来る砂礫の量も限られています。やがて、僅かばかり回復した砂礫浜も元の浸食される砂礫浜の状態に戻っていくことでしょう。

砂礫浜の拡大が続かなかった訳その1
 7月16日前後に第一消波ブロック付近で砂礫浜が拡大をしましたが、拡大現象がその後にも続く事はありませんでした。なぜでしょうか。
 簡単に言えば、移動して来た砂礫の量が少なかったからだと言えるのですが、もう少し詳細に考えてみます。

 7月16日前後に第一消波ブロック付近では、確かに砂礫は西から東へと移動していました。でも、そこで私が確認できたのは 砂礫が移動している事であって、それがその場所での砂礫の増加であったかどうかは必ずしも明確ではありませんでした。
 砂礫浜の拡大に続くその後の砂礫の移動では、増加した砂礫が西から東へと移動して行ったのに過ぎないから、 その後に砂礫浜の拡大現象が継続しなかったと考える事も出来ます

 しかしこの考え方には、いまひとつすっきりしない所があります。
 第一に、私が岸辺での砂礫の移動を観察したのは、移動が発生したと思われる数日間のうちの2日間でした。 特にその2日目には砂礫の激しい移動を観察する事が出来たのですが、その数日後に観察した渚の斜面の位置にはほとんど変化がありませんでした。
 激しい砂礫の移動の後でも渚の斜面の位置はほとんど変化を観察出来なかったのです。 つまり、砂礫の激しい移動の後であったならば、砂礫浜の前進か後退かいずれかの現象が見られたとしても不思議は無いと思うのです。

 第ニに、たった1日で砂礫浜を10mほども前進させてしまった、7月16日前夜の砂礫の移動はどれほどのものだったでしょう。 それは、私が2日目に観察した砂礫の移動よりも激しかったのでしょうか。 観察出来ていないのでなんとも言えないのですが、それらの状況はちょっと考えにくいのです。

 但し、これらの現象の観察と計測は極めて大雑把なものでしたから、 もっと精密な観察と測定が出来ていれば違った見方が出来たのかも知れないとも考えています。

ステップを支える海底
 砂礫浜の存在には、ステップ(浅い海底に出来た棚状の小地形)が不可欠である事は既に説明しました。
 海底の傾斜が急激である砂礫浜では、陸地の砂礫は海底深くに落ち込んで行き易いのです。岸近くの浅い海底にステップが出来るから、 陸地の砂礫も海底深くに落ち込む事が少なく、同時に砂礫浜に打ち上げられ易くなっています。 さらにそのステップは、岸辺を伝って移動して来る砂礫が浅い海底に落ち込むことで形成されています。

 しかし、そのステップもやはり急激な傾斜の海底によって支えられているのです。 海底に出来たステップが「ひさし」のように沖に向かって延びるはずもありません。 ステップが大きくなるためには、そのステップを支える事の出来る海底が必要なのだと考えています。

 第一消波ブロック付近まで移動して来た砂礫のうちの一部は、岸に打ち上げられて砂礫浜を海に向かって前進させました。 打ち上げられなかった砂礫の多くはステップとして海底の浅い所に堆積していました。
 そしてそれらの砂礫が、8月25日前後に大きな波によって砂礫浜のより陸地側に打ち上げられたのではないでしょうか。

 しかし、そのステップは規模が小さなものだったと考えられます。 なぜなら、その付近の海底の傾斜が急激であったから、規模の大きなステップを支える事が出来なかったと考えられるのです。
 ですから、7月16日前後に移動して来た砂礫のうちでもかなりの量がステップに支えられる事もなく、 より深い海底に落ち込んで行ったのではないでしょうか。

砂礫浜の拡大が続かなかった訳その2
 第一消波ブロック付近での砂礫浜の拡大現象が続かなかったのは、岸近くの海底が深すぎたためだと考えています。
 第一消波ブロック付近では、岸辺からの海底が急激に落ち込んでいるので小さなステップしか出来ないのです。 その小さなステップがあったので砂礫浜が少し拡大しましたが、それ以上には拡大する事が出来なかったと考えられるのです。

 例えば、海水の動きが少ない深い海底にある砂礫の斜面と、波によって海水が動く事の多い浅い海底の砂礫の斜面では、 その斜面の傾斜が異なっているのではないでしょうか。浅い海底では急激な斜面を保つ事が難しく、 深い海底では浅い海底より急激な斜面が可能なのだと思います。陸地近くの海底の傾斜と、より深い場所の海底の傾斜が異なっていても不思議はないのです。

 中島海岸の海底の場合も同じなのだと考えられるのです。岸辺を砂礫が移動して来て海底の浅い場所にステップを形成したとしても、 ステップより深い場所の傾斜が急激であったならば、ステップは大きく成長する事が出来ないのです。

 同様に、砂礫浜の先端斜面が海に向かって前進したとしても、 ステップが小規模であったならば、先端斜面が大きく成長する事が出来ないと考えられるのです。

 つまり、砂礫浜の先端斜面が海に向かって前進する距離は、その場所に出来るステップの大きさによって制限されていると考える事が出来るのです。
 砂礫浜の斜面が海に向かって大きく成長するためには大きなステップが必要なのであり、大きなステップが出来るためには、 それを支える事の出来る海底が必要であると考えられます。

 これらの事情は、河口を横断する砂州の状況と同じかも知れないと考えています。それが生じてからある程度の期間を経過した河口の砂州であれば、 その幅が一定の広さ以上に広がることはありません。つまり、海に向かって成長することが無く、陸地に向かってその幅を拡大することもないのです。
 河口の砂州の場合では、河口前面の海底に堆積した砂礫が陸地へ打ち上げられてしまえば、それらに続けて陸地へ打ち上げられる砂礫は何処にも無いのです。 砂礫の打ち上げが終了してしまえば、陸地から海底への傾斜も急激なものになってしまいます。

 第一消波ブロック付近の岸近くの海底が深すぎるから、砂礫浜はそれ以上には拡大出来ないのです。
 砂礫浜がより拡大するためには、岸近くで浅い海底がもっと必要だと言う事になります。 ですから、第一消波ブロック付近の海底には、もっと大量の砂礫が必要なのだと言えます。

 ステップの存在について、その実際を確認している訳ではありません。文献からその存在を知る事が出来ました。 そして、砂礫浜で生じている様々な現象を観察する事によって、その存在を理論的に確信しているに過ぎません。
 とは言うものの、潮の満ち引きの事などを考えると、ステップは海底の深さ0mから最も深い場所で4m位の所に存在するのではないかと考えています。 ですから、ステップを支える海底は水深4m位より深い海底である事になります。

静岡の前浜の海底の状況を示す資料
 静岡の前浜の海底の状況を図表にした資料があります。
 私が見る事が出来た資料は、1986年から2010年までを2年ごとに、 海底の水深と海岸の高度を地形図的に表示し、その変化量を色分けして表示しています。  表示されている地域は安倍川河口東岸から三保半島の突端の真崎にまで及んでいます。つまり、静岡の前浜のほぼ全域です。 さらには消波ブロック列もその設置ごとに図上に記載されています。

 この資料では、その年次ごとの図表を比べる事によって、前浜の経年変化を知る事が出来ます。 これによって、砂礫浜を歩きまわって観察出来た事以外の多くの事を知る事が出来ました。
 この資料の原図は、静岡の前浜を管轄する静岡土木事務所が作成保存しているものだと思いますが、実に貴重な資料だと言えます。

 この資料は「安倍川からの供給土砂量の増減に応じた静岡清水海岸の地形変化とその再現計算」 (日本地形学連合)と言う小冊子の掲載頁から知る事が出来ました。 この小冊子は、私が静岡の砂礫浜の問題に取り組んでいる事を知った、専門家のある方が好意で贈って下さったものです。

 なお、静岡の前浜の浸食は1970年代から始まっていて、資料の最初の年1986年は浸食が進行した後で、 既にかなり多くの場所に消波ブロックが設置されていました。
 その後にも多くの消波ブロックが設置され、また、前浜を取り戻すその他の方法も行われていました。 でも残念な事に、砂礫浜が浸食以前の姿を取り戻すことはなく、今に至っています。

静岡の前浜全体の状況
 この資料からは、静岡の前浜では、その海底の深い部分においてゆっくりと浸食が進行している傾向が見て取れます。 これは、海底の深い場所の水深線の間隔が狭くなって、年々陸地に近付いている事から明らかです。
 しかし、浸食の進行具合やその変化の仕方は年によって場所によって異なっているようです。

 深い海底に比べて、浅い海底と陸地の様子は明らかに異なった状況を示しています。 深い海底がゆっくりと浸食されている一方で、陸地とその近くの海底では、砂礫が堆積し続けてその高度が高くなっている区域があるのです。
 前浜のほぼ中間地点より西側では陸地に砂礫が堆積してその高さが増しています。また、海底のごく浅い部分も少し浅くなりつつあります。
 これに対して、ほぼ中間地点である「蛇塚」付近より東側ではそのような様子は全く見られません。逆に東側では、陸地はその面積を減らし続けています。 また、前浜の東半分では深い海底の浸食も西側と比べてその進行速度が少し早いようです。

 海底が深くなる一方で西半分の陸地に土砂が積み重なる現象は1988年頃から発生しています。
 この現象は、安倍川河口から1〜2Kmほど離れた場所で、陸地と渚付近に土砂が堆積する現象として唐突に始まっています。 その後、この現象は年月を経るごとに東へと広がり、前浜のほぼ中間地点付近にまで及んでいます
 この間、水深6mより浅い海底へもその土砂堆積は少しづつ広がっています。またこの時、海底へ土砂堆積が広がっているにも関わらず、 陸地側の堤防に近い場所ほど土砂堆積が遅れる現象も見られます。その後、陸地への土砂堆積は前浜の西半分全体に広がりました。

人工的な土砂移動
 前浜の西半分への土砂堆積現象は、必ずしも自然の力だけをその原因とするものではないと考えています。
 と言うのも、その初期において、この現象が土砂の供給源であるはずの安倍川河口と結びついているとは思えないのです。 陸地に土砂堆積が始まった河口から1Km付近の土砂堆積は、初めのうちその付近でその面積を広げるばかりで、 安倍川の河口と土砂のつながりが明らかに見られるのは1994年頃からです。 
 さらに、1〜2km付近の砂礫浜の幅と、それよりも安倍川側の砂礫浜の幅が同程度になったのは、ようやく2006年頃です。

 これらの区域の土砂堆積が安倍川河口からの土砂排出とその移動によるものならば、それらは安倍川河口から連続して堆積していたはずです。
 安倍川の河口の場合に限らず、河川や海岸における土砂移動は必ず連続しています。 水の力による土砂の移動が離れ離れや飛び飛びに生じたりすることはあり得ないのです。
 「砂礫浜を考える(静岡の前浜の場合)その1、その2」でも説明したように、その供給源から離れた場所の砂礫浜では、 その浜辺の陸地方向への広さ(幅)はほぼ一定であるのが普通です。
 海岸線の方向が同じである海岸で、特定の場所ばかりに大量の土砂が堆積し続ける事は自然現象ではあり得ないと考えています。 ですから、これらの奇妙な土砂堆積は人間の手による土砂移動の結果であると考えられるのです。 

 奇妙な土砂堆積はサンドバイパスと呼ばれている工事によるものだと考えられます。サンドバイパスとは、河川から土砂を海岸に運び込む工事のことです。 静岡の前浜ではそれらの土砂はもちろん安倍川の河川敷から搬入されています。
 静岡の前浜では至る所でこの工事が行われましたし、現在も行われています。 先に「砂礫浜を考える・・・」を記述するために、前浜の多くの場所を訪れた時でも工事が行われている場所が何個所かありました。 土砂を積んだダンプトラックが行き来する光景も見ました。その工事の跡と思われる場所も多く見る事が出来ました。
 また、その実例は先の「特別大きな波」において中島海岸の状況の説明として、写真と一緒に示しています。 

 もちろん、資料に見られる土砂移動や土砂堆積の全てが人工的なものだと考えているのではありません。
 その初期の主要部分が、人工的なものである可能性を述べているのに過ぎません。 例えば、陸地の土砂が浅い海底に広がった事などはほとんど自然の力だと思います。

安倍川河口から大浜までの海底の状況
 ここで、前浜の最も西側の安倍川河口から大浜海岸までの最近の状況について、資料を元にして考えてみます。
 それは、安倍川から前浜全域に向かって移動する砂礫の最初の入口が安倍川河口から中島海岸及び大浜海岸だからです。 これらの区域の状況が改善されない限り、より東側の砂礫浜の状況が改善することは無いのです。

安倍川河口東岸付近の状況
 これらの区域の中で最も西側は、安倍川河口の東端から第一消波ブロック付近までの区域です。 つまり、7月16日と17日に砂礫の移動する状況が確認出来た場所です。
 これらの資料では0〜0.5Kmの区域として表示されています。 この区域では、水深が浅い場所が沖合にまで広がっていますが、 その浅い区域は西側に片寄って存在しています。

 2010年の図表において、安倍川河口東端では渚のすぐ外側に水深2mの場所があり、その場所から100mの沖まで水深4mの区域が広がっています。 6mの水深はそれより50mの沖合。8mの水深の区域は図表をはみ出しているのでそれより100m以上の沖合でしょう。
 つまり、安倍川河口東端では水深2mから4mまでの区域が特徴的に沖に向かって広がっています。
 但し、これらの浅い区域は安倍川の河口側に著しく偏っているのです。最も沖合まで浅い海底が広がっているのは、 図上では最も西側である安倍川河口東端の沖です。

 浅い海域は、河口の東端から東方向へ僅かな距離でその面積を減らしています。第一消波ブロックと第二ブロックの間くらいの場所では、 水深4mを示す線は渚から20m位の位置にまで陸地に近付いています。この位置は安倍川河口東端より約400m東にあたります。
 第二ブロックよりさらに東側では、4mの水深が、渚である消波ブロックからほぼ20m位の沖にある状態が続いています。 

 水深6mと8mを示す線の間隔は河口東端でこそ広がっていますが、 河口東端から離れるのに従ってその間隔を狭めながら4mの線と同様に陸地に近付き、第二ブロックの沖からは水深4mに平行して東に向かっています。
 これらの場所でも水深2mの位置は渚のすぐ外側です。つまり水深2mの位置は常に水深0mのすぐ外側にあります。

 これらを言い換えると、河口東側の海岸を底辺にして河口東端から直角にその頂点に向かう三角形の形に水深4mの区域が広がっています。 その、直角三角形の頂点からの斜辺は、河口東端より約400mの距離の底辺に向かっているのです。
 これが、図表によって示された、2010年安倍川河口東側の海底の様子です。

 水深4mを示す線が安倍川河口の東端で最も沖合にある事、及びその線が河口より僅かな距離で陸地に近付いている事は、 1986年から1994年までと2006年から2010年までの図表において共通しています。
 それが確認出来ない1996年から2004年まででも、水深4mの線の替わりに6m或いは8mを示す線が同様の様子を示しています。

 つまり、安倍川河口の東側の沖合が最も浅い事が、これらの図表で共通して表示されているのです。 そして、水深4mより浅い区域が継続して広く存在している場所は、前浜全体でこの場所以外には無いのです。
 ですから、安倍川から排出された土砂の一部が河口東側の沖に堆積する状況が、24年間に亘って継続していた事になります。

水深4mの区域の意味
 水深4mより浅い区域が河口東側の沖に継続して広く存在していた事からは、もう一つ重要な事が推測されます。
 1996年から2004年までの間を除けば、水深4mより浅い区域が特徴的に沖に向かって広がっていました。 そして、その浅い区域が沖に向かって大きく広がることはなかったのです。 付け加えると、水深2mより浅い区域は、この場所に限らずすべての場所でごく狭いものです。
 このことから、この年月において、河口東側ではほとんどの場合で4mより浅い場所の土砂が陸地に向かって打ち上げられていたと考えられるのです。

 安倍川の土砂排出は、安倍川が増水した時に限って発生しています。ですから、河口東側の沖への新たな土砂は堆積は断続的です。 そして、それらの場所から岸へ向かって土砂を移動させる波は、頻繁に発生しています。
 にも関わらず、前述の年月において、4mより浅い深さにある土砂が同じような広さで海底に残され続けている事は、 4mより浅い場所にある土砂だけが陸地に打ち上げられ続けている事を示しているのではないでしょうか。
 つまり、4mより深い区域の土砂が打ち上げられているとしたら、4mより浅い区域の面積は狭くなる機会があるはずです。 また、4mより浅い区域の土砂が打ち上げられないとしたら、4mより浅い区域はその面積を広げ続けるはずです。
 2mより浅い区域の土砂は、つまり岸に極めて近い区域の土砂は、 常に発生している普通の波によって岸に打ち上げられているのではないでしょうか。

 では、1996年から2004年までの間の状況はどう考えるべきでしょうか。 この期間では安倍川河口東側の沖に堆積する土砂の量がとても少なかった、或いはほとんど無かったと考えています。
 水深4mより深い場所の土砂が、より深い海底に向かって浸食される事が多かったのだと思います。 また、水深4mより深い場所の土砂を陸地に打ち上げる大きな波も時には発生していたのだとも考えられます。 
 河口東側の沖に堆積する土砂の量がとても少なかったので、新たな土砂がそれらの場所を埋める事が少なかったのだと考えられるのです。

 実際、1996年から2004年にかけて、水深6mと4mの線は陸地に向かって急速に近付き続けました。 2004年には、水深6mの線の陸地からの距離が、安倍川河口すぐ東側より東側にあるそれとほぼ同じ距離になっています。

 これらの状況を考えれば、安倍川河口東側では、ほとんどの場合で水深4mより浅い場所の土砂だけが陸地に打ち上げられ続けている事になります。 水深4mから6mまでの土砂が打ち上げられる機会は少ないと言えます。

 河口東岸の沖が著しく浸食される状況は2004年まで続きましたが、2006年には急速に改善されました。 安倍川から排出された土砂が河口東側の沖に堆積する状況が戻って来たのです。
 この期間に、なぜこのような状況が生じて再び回復したのか、図表を見た限りにおいては全く見当がつかないのは残念な事です。

大浜海岸の東側の状況
 もう一つ、注目する場所があります。安倍川河口から丁度2Kmにあたる「浜川」の流れ込み付近の海底の様子が他とは大きく異なっているのです。
 この付近は前浜の海岸線がその方向を大きく変える地点で、大浜海岸の東端でもあります。 河口から大浜までの海岸線はほぼ北東に向かっていますが、この付近でより東に向かってその方向を変化させています。 

 資料によると、この付近の海底が1994年頃から谷間状になっていて、その谷が近年に至るほど深くなっているのが見て取れます。 これは、砂礫の移動がこの場所で非常に少なくなっている事を表わしていると思われます。
 つまり、大浜海岸までは砂礫が自然に移動する機会が残っていると考えられるのです。 しかし、それより東へは砂礫が移動する機会がより少なくなっていると考えられます。

資料による海底の様子と現在の海底の様子
 これら安倍川東岸から大浜海岸に至る区域の海底を考えるために資料として用いたのは、主として2010年及びそれに近い近年の図表です。
 それらが示した海底の状況は、既に記述して来た幾つかの事柄、例えば安倍川東岸での砂礫の打ち上げや、ステップや砂礫浜の形成など、 或いは砂礫浜の拡大が続かなかったことの説明などと矛盾していないと思います。むしろ、私の考え方が正しい事を証明しているのだと考えています。

 安倍川東岸から大浜海岸までの区域の現在(2012〜2013年)の海底の様子は、 2010年の図表が示している海底の様子とそれほど違わないだろうと考えています。 なぜなら、2010年の図表に示された海底の状況は、2012年に観察し推測した状況と極めて似通っているのです。

 つまり、安倍川河口東側では、水深4mより浅い場所が沖に向かって広がっているので、土砂が陸地に向かって打ち上げられ易い。 第一消波ブロック近くでは、水深4mより浅い場所が狭くなるので砂礫浜は拡大しにくい。 第一消波ブロックより東側では水深4mより浅い場所がほとんど無いので、打ち上げる土砂が極めて少ない。と言えるのです。 



静岡の前浜が浸食されている原因

安倍川の河口から移動して来る砂礫と移動して行く砂礫
 安倍川河口から離れた静岡の前浜には、安倍川の河口から砂礫が移動して来ていました。同時に、その砂礫はさらに東へ向かって移動していました。 移動して来る砂礫と移動して行く砂礫の量の釣り合いが取れていたので静岡の前浜は安定して存在していました。
 これが、静岡の前浜が浸食される以前の姿です。

 しかし、安倍川の河口から移動して来る砂礫の量が減少したので、砂礫はより東へと移動するばかりで、前浜の浸食が始まってしまいました。 そこで、多くの消波ブロックを投入する事により、より東への砂礫の移動を防ぎました。 でも同時に、安倍川の河口から新たに来る砂礫の移動も減らしてしまいました。
 安倍川の河口から移動して来る砂礫の量自体が減少しています。また、砂礫がより東へと移動する可能性も減らされています。 ですから、静岡の前浜は少しずつ浸食され続けています
 これが静岡の前浜の現在の姿です。

 静岡の前浜の浸食の原因は、安倍川の河口から静岡の前浜に移動して来る砂礫の量が減ってしまった事だと、私は考えています。 

前浜に移動して来る砂礫が減少している原因
 なぜ移動して来る砂礫が減ってしまったのでしょう。
 砂礫浜が浸食される前と浸食されてしまった現在とを比べた時に、安倍川から海に流れ出る土砂の量が減ってしまったのでしょうか。 或いは安倍川の水量が減ってしまったのでしょうか。このどちらであったとしても、前浜への砂礫の移動量が減ってしまう事が考えられます。

 前浜の砂礫の浸食は、その発端が、安倍川上流や中流における大量の砂利採取にあったと考えられています。 実際、砂利採取を中止して後は砂礫浜が多少なりとも戻って来たと言われているので、この考えは間違っていないのでしょう。
 しかし、砂利採取が無くなった1968年から現在に至るまで、元の姿の砂礫浜に戻ったとはとても言えない状況です。

 では、安倍川の水量が減っているのが原因だとするのはどうでしょう。 この地方一帯の年間降雨量が著しく減少しているのならこの考えも成り立ちますが、そのような事は無いと思います。
 安倍川の水量に変化が無いならば、海に流れ出る土砂の量も変化が無いと考えられるのです。

 私は、安倍川河口から砂礫浜への砂礫の受け渡しがうまくいっていないのが原因であると考えています。

安倍川河口からの砂礫の移動
 安倍川河口から前浜への砂礫の移動の仕組みは既に説明しました。
 前浜全体の回復が思わしくない状況の中で、時々生じている砂礫の移動が中島海岸に少しばかりの砂礫浜の回復をもたらしている状況も解明出来ました。 
 そこで、安倍川河口からの砂礫の移動をもう一度振り返ってみることから、砂礫の移動の減少を考えてみます。

波打ち際での砂礫の移動
 砂礫を移動させているのは海岸に対して斜めに立ち上がり崩れる波です。この波が発生すれば砂礫は岸を伝って移動します。 新たな砂礫があれば新たな砂礫を、新たな砂礫が無ければ以前からあった砂礫を移動させます。

 この現象は低気圧など気象の仕組みによるものです。この地方や日本全体の気候が大幅に変化しない限りその現象に変化は無いと考えて良いと思います。
 この現象は砂礫を移動させるだけです。 新たな砂礫があっても無くても移動させますから、この現象によって前浜に移動して来る砂礫量が減少しているとは考えられません。

安倍川河口東側の岸辺
 安倍川河口東側の岸辺はありふれた砂礫浜の岸辺に過ぎません。 しかし、河口東側の岸辺に近い沖に堆積した土砂が打ち寄せて来て集積する場所であり、同時に三保海岸にまで届く砂礫の移動の出発地点でもあります。

 砂礫を移動させる波が発生すればここから砂礫が移動して行きます。 それは、沖合から砂礫が押し寄せて来ている時でも、押し寄せて来ない時でも同じです。 多くの砂礫が集積している時は多くの砂礫を移動させます。集積している砂礫の量が少ない時には少ない砂礫しか移動させません。
 この状況を考えた時、この場所で生じている現象が前浜への砂礫の移動を妨げているとは思えません。

河口河口東側の沖から岸辺に打ち寄せる砂礫
 安倍川河口東側の沖には安倍川から排出された土砂の内の一部が堆積します。 ここで波が発生すると海底の土砂は岸に向かって少しずつ移動していきます。 土砂が海底の浅い場所に堆積していれば、小さな波によっても土砂は岸辺に向かいます。 深い場所の土砂は大きな波が発生した時に岸に向かって移動します。

 ここでの波は特別な波ではありません。砂礫を岸辺伝いに移動させる波のような特別の角度は関係ありません。 ここでは、波さえ発生すれば土砂は岸辺に向かって移動するのだと思います。

 安倍川河口東側の沖では、波が発生すれば必ず土砂を安倍川河口東側の岸辺に移動させています。 砂礫を岸伝いに移動させる波に比べれば、この波の発生頻度はとても高いのです。
 ここで発生している現象も、前浜に移動して来る砂礫の減少の直接の原因ではありません。

河口東側の岸辺に近い沖に堆積する土砂
 ここまでの説明で、問題の所在が明らかになったと思います。 安倍川河口東側の岸辺に近い沖に堆積する土砂の量が減少したのが、砂礫浜に移動する砂礫が減少した直接の原因です。

 先に、安倍川の水量には変化が無い、安倍川から流れ出す土砂の量も変化がないと考えている事を説明しました。 にも関わらず、安倍川河口東側の岸辺に近い沖に堆積する土砂の量が減少する事があるのでしょうか。それが、あるのです。

安倍川河口から流れ出る水量と排出される土砂
 安倍川の水量もその排出する土砂の量も年間を通じたその量に変化がないとしても、 安倍川河口東側の岸辺に近い沖に堆積する土砂の量は減少しています。それは、安倍川の水の流れ方が昔と今とでは違っているからです。
 安倍川の流れは、以前に比べてその水量の変化が激しいものになっているのです。 

 流れが急峻な日本の河川では、大陸などの河川に比べて、水量の変化量と時間当たりの変化率が大きい事が知られています。 元々そのような状況にあったにも関わらず、日本中の河川では、水量の変化量と時間当たりの変化率が昔と比べてより大きくなっているのです。
 簡単に言えば、昔に比べて、増水時の水の流れが急激に増加するようになり、急激に減少するようになってしまったのです。

 急激に増水するようになったので、増水時には今までには無かったような水量が流れるようになり、急激に減水するようになったので、 平水時の水量が減少し、雨量が少ない時期には今までには無かったような渇水が見られるようになりました。

 安倍川の流れが、急激な増加と急激な減少を引き起こすようになったので、 安倍川河口東側の岸辺に近い沖に堆積する土砂の量が減少しました。
 増水の際に水量が急激に増加して増水が終了すると急激に減少する場合が増えているので、流れ出す土砂はより多く沖に流れ出し、 河口近くの海底に堆積する土砂の割合が減少しています。それと同時に、河口東側の岸辺に近い沖に堆積する土砂の量も少なくなっているのです。 

 「砂州の出来方」では、増水の規模に関わらず、岸辺近くの海底に堆積した土砂だけが陸地に戻り河口の砂州を形成する事を記述しました。 ですから、規模の大きな増水であるほど、海へと流失した後に陸地へ戻る土砂の割合が減少しているのです。
 安倍川流域に降る雨の量が昔と変わらなくて、河口から海へ排出される土砂の総量が変わらないとしても、陸地へ戻る土砂の量は減少しているのです。

 「移動する砂礫」の中の(風車前の沖に集まる土砂)では、安倍川河口東側の岸辺に近い沖に堆積する土砂のありさまを説明しました。 でも、ここでもう一度、安倍川河口の状況を詳しく考えてみます。

河口の東側海岸の沖に堆積する土砂
 自然状態の河口を持つ河川が増水した時に、河口から海へと排出される土砂は、河口の中央部においてその量が最も多く、 河口の両端ではその量が少ないのです。これは「砂州の出来方」で説明しました。
 ですから、普通に考えれば安倍川河口の東側海岸の沖に大量の土砂が堆積する事はないのです。

 このような状況であっても、河口の東側海岸の沖には河口中央の沖と同じように土砂が堆積します。 しかも、それは(安倍川河口東岸付近の状況)で記述したように、1996年から2004年までを除く12年間に亘って続いていたのです。
 したがって、ここにはそのような状況を成立させる特別な仕組みがあると考えられます。 そして多分、その仕組みは、河口を横断する砂州が出来る河川以外では見る事が少ない仕組みなのだと思います。
 さらに、その仕組みは、静岡の前浜が浸食される以前にもずっと発生していたのに違いないのです。

 河口の東側海岸の沖に土砂が堆積するのには、3つの場合が考えられます。

 1つ、河口に出来た砂州が左岸に向かって成長する途中で、河口の出口が東側の沖を向いている時に、 増水によって排出された土砂が河口の東側海岸の沖に堆積する場合。
 7月13日に決壊した河口砂州の残った左岸側の端から、河口東側海岸の沖に向かって大量の土砂が排出されました。 7月13日以後に発生した状況がこれに該当します。
 また、増水が減水して行く過程で河口砂州が成長した時に、土砂の流下が続いたままの状態であれば、 河口東側海岸の沖に向かって土砂が排出されます。
 河口東側海岸の沖に堆積する土砂の量が最も多くなるのは、これらの場合なのだと考えられます。

 2つ目、河口から真っ直ぐ沖に排出された土砂が、海岸流によって河口の東側海岸の沖に流される場合。 この場合では、河口東側海岸の沖に堆積する土砂の量は多くはないと考えられます。
 海岸流は水の流れですから、土砂堆積量が多い岸辺近くで早く流れる事はありません。 自然河川の流芯ではその流れが早く、浅い岸辺ではその流れが遅いのと同じです。
 ですから、この場合の土砂堆積量が多くあるとは考えにくいのです。 もしかすると、海岸流によって海底を移動する土砂はその大きさが小さな土砂に限られているのかもしれません。

 3つ目、河口から排出された土砂が波によって打ち上げられ、河口を横断する砂州となった後に、移動する砂礫として東側の流れ出しに至り、 海へと流れ出る水流によって再び河口の東側海岸の沖に堆積する場合。この場合は、上記2つよりさらに条件が厳しくなります。

 河口砂州の砂礫を東へ移動させる波は必ず発生しているはずですが、上述の機会がそれほど多いとは考えられません。
 河口の砂州が出来ているときは、安倍川の流れは東方向だけではなく河口の沖へも向かっていることが多いのです。 河口砂州から東へ移動する砂礫は、新たに形成される河口砂州に戻ってしまうことが多いのではないでしょうか。
 ですから、この場合でも、河口の東側海岸の沖に堆積する土砂量が多いとは考え難いのです。

 結局、最初に記述した、安倍川の流れ出しがある程度狭くなって河口東側の沖を向いた時に、 その河口から土砂が排出される場合が、河口東側の沖に最も大量の土砂を堆積すると考えられます。
 つまり、これが特別な仕組みなのだと考えられます。

河口からの水と土砂の流れ出し
 増水の後の安倍川河口の流れ出しは、河口に出来る砂州によってその幅を狭めつつ、河口東岸に向かうのが普通です。 その究極の姿が、河口からの流れ出しが左岸第一消波ブロックにまで届いた6月6日の様子です。

 河口が狭くなってしまう現象も、急激な増水と急激な減水が関係しています。
 増水の後で急激に水量が少なくなってしまうので、新たに延びた砂州が河口を容易に北東側に追いやってしまうのです。 この時に河口から流れ出す水量が多ければ、河口の流れ出しが急激に狭くなる現象も、流れ出しが北東側に急速に移動する現象も発生し難いと考えられます。

 安倍川では、増水でも無く渇水でも無い時の水量が昔と比べて減少しています。つまり、平水時の水量が減少しているのです。 この現象は、特定の時期において端的に表れるようになりました。
 降雨量が少なくなる時期に、つまり冬の時期、安倍川の中流域で水の流れが全く途切れる現象が近年になって頻繁に発生するようになりました。
 標高1900mの山岳地帯から流れ出して50kmにも及ぶ河川の流れが途中で途切れてしまうのです。もちろん、昔はそんなことはなかったのです。 いくら雨量が少ない時期とは言え、普通では考えられない出来事です。

 この現象は、平水時の水量の減少と、それらの中流域の川床の上昇が関係していると考えています。 増水時の水の流れが急激に増加して急激に減少するので、平水時の水量も減少しています。
 流域や河川自体に本来あったはずの保水力が減少しているのです。それによって中流域の土砂を流下させる能力も減少してしまったのです。
 水の流れが途中で途切れた後、下流で再び流れが出現するのは、水流が途切れている区間であっても伏流水が流れている事を示しています。

 この現象は、市街地で汲み上げられる地下水の問題が関係している事も考えられます。 しかし、それだけが原因だとすると、この問題はもっと以前から発生していたとしてもおかしくはないのです。
 水の流れが無くなってしまう現象は近年に至るほど顕在化しています。昔は、そんな異常現象はなかったのです。地下水だけが問題ではありません。 これは明らかに、急激な増水と急激な減水による現象の一部だと考えられます。

 平水時の水量が少なくなっているので、河口の流れ出しは以前より狭められ、容易に北東側に近付いてしまうのです。 平水時の水量が多ければ、河口が狭くなる事も、河口が北東に追いやられる事も少なくなると考えられます。
 そうすれば、小規模な増水の際に流れ出した水や土砂の多くが河口東岸の沖に向かうはずです。 普通の規模の増水があった時でも河口の砂州が破壊される機会は少なくなります。

 河口からの流れ出しの場所やその幅の問題においても、急激な増水と急激な減水による影響は大きいのです。

規模の大きな増水の場合の安倍川河口の状況
 通常、安倍川の河口には河口を横断する砂州が存在しています。 そして、河口からの流れ出しは、河口の北東側で小さな口を開けているだけになっています。
 この様な時に規模の大きな増水があれば、急激に増大した水が河口を横断する砂州を一挙に破壊して海に流れ出します。

 規模の大きな増水であったとしてもその水量が緩やかに増加したならば、当初は小さな流れ出しの口を徐々に大きくして、 水や土砂を河口東側の沖に向かって排出するのではないでしょうか。 やがて、水量がさらに大きくなれば、やはり河口の砂州を破壊して海に流れ出して行くでしょう。

 増水の規模が大きければ大きいほど、水量も多くその勢いも強いのです。河口からの水と土砂の流れはより遠くの沖合まで流れ出します。 そして土砂の多くは深い海底にまで沈んでいく事でしょう。
 河口の沖合にある沿岸流(海岸流)も河口からの流れ出しが強ければ、河口からの水流を東へ向ける働きも弱いのです。 それに、沿岸流が河口からの流れ出しを東へ向けたとしても、その場所は岸から遠く離れた沖合です。

 規模が大きな増水であったとしても、それが緩やかに増加し緩やかに減少したなら、流れ出した土砂が岸近くに留まる割合も増えます。 沿岸流が流れ出しを東へ向ける働きも強くなり、その場所も比較的岸に近い場所になります。

 河口の右岸側から砂州が出来始める時期は、それぞれの増水の規模や期間によって異なっていると考えられます。 しかし、一旦砂州が出来始めると、急な減水の場合と緩やかな減水の場合とで土砂の流下に与える影響は異なっています。

 右岸からの砂州が出来始めると、砂州によってその方向を変えた多くの水流と土砂が河口の東へ向かって流れます。
 急な減水の場合では、河口の東へ向かう水流と土砂の流れは短期間で減少します。土砂の流下は短期間で終了してしまいます。 つまり、河口の東側の沖に堆積する土砂の量が多くなる事はありません。
 緩やかに減水した場合では、河口の東へ向かう水流と土砂の流れは緩やかに減少して長い期間続きます。 河口の東側の沖に堆積する土砂の量は多くなる事が考えられます。

普通の増水の場合の安倍川河口の状況
 普通の増水の場合でも、急激な増水と急激な減水の傾向に変わりはありません。 ですから、本来ならばそれほど多くない水量であるはずの増水でも、規模の大きな増水の時と同じように、 河口の砂州を破壊してしまう機会が増えていると思います。
 河口の砂州を破壊するような増水になれば、それによって排出される土砂もやはり沖に向かってしまいます。

 それでも、規模の大きな増水の機会よりも、普通の規模の増水の機会の方が多いと考えられます。 そのような機会に、安倍川の流れ出しが東南を向いていれば、安倍川から排出される土砂の大部分は河口東南から流れ出して、 近くの沖に堆積するのではないでしょうか。

前浜回復の可能性
 河口東側の近くの沖に土砂が堆積する仕組みは、静岡の前浜の浸食が始まる前から続いていたはずです。 河口の右岸側から形成される砂州があるからこの現象が発生しているのです。 だからこそ、海岸の浸食が続いている間でも 前述のようにその現象が24年間に亘って続いていたのです。
 この事から重要な事を推察する事が出来ます。

 前浜海岸の浸食が始まる前であっても、安倍川から排出される土砂の全てが前浜に向かって移動していたのではないのです。 安倍川を流下して海に放出された土砂の一部だけが前浜に向かって移動していたのに過ぎません。

 これらのことは、前浜の回復を考える時に重要な意味を持ちます。
 つまり、安倍川から排出される土砂の全てを前浜に移動させることが出来なくても、前浜の回復は可能なのです。
 言い換えると、安倍川の流れを昔のように戻すことが出来ないままでも、人工的な何らかの方法を用いることによって、 以前のような前浜を回復する事が出来る可能性があると考えられるのです。

丸子川の影響による安倍川河口の状況
 河口の砂州に対する、丸子川の影響は決して少なくないと思います。
 河口を横断する砂州が出来る時期が早くなるのも遅くなるのも、丸子川の水量が影響を与えています。 また、河口を横断する砂州が決壊する時にも、丸子川の水量が影響を与えています。

 安倍川河口の西端を流れる丸子川の水量と、河口に砂州の出来始める時期との関連は無視できません。
 例えば、6月19日に安倍川河口右岸で見ることが出来た岸辺の反転流は、丸子川の流れが強くて速いから発生した現象です。
 7月15〜17日に砂州が出来始める状況の右岸の流れの岸で見たように、右岸に接した流れが強ければ砂州の形成は遅れます。 河口の砂州は、右岸側の丸子川の流れの部分が浅瀬になった後に、いっぺんに東方向へ向かって成長したのです。

 右岸からの砂州が延びる時期が早いほど、安倍川の流れと土砂が河口東側に向かう時期が早まります。 丁度、その時期は、大量の土砂が流下している時期でもあります。

 河口の砂州が長く延びた後であっても、丸子川の影響は少なくないと思います。 7月13日に発生した河口砂州の右岸側の決壊には丸子川の流れの影響が強くあったと思います。 さらに8月19日にも砂州の一部が決壊しました。この時に失われた砂州は短い距離でしたが、その場所も河口西端に近い場所でした。

 河口の砂州の一部でも失われれば、水の流れと土砂はそこから河口正面の沖に向かって流れ出します。
 私が観察した短い期間でも、河口の砂州の西岸近くが決壊する現象が2回も発生しました。 年間を通すとかなりの頻度でこのような現象が発生している可能性があります。

 丸子川で急激な増水と減水の傾向が生じているのは、安倍川の場合と同じです。 丸子川での増水と減水が穏やかなものであったなら、河口を横断する砂州はもっと早く出来始めるのではないでしょうか。
 また、丸子川での増水と減水が穏やかなものであったなら、河口の西端に近い場所の砂州が決壊する機会も少なくなると考えられます。
 もちろん、それらの結果として、河口東岸側の近くの沖に大量の土砂が堆積する可能性が大きくなる事は言うまでもありません。

急激な増水と急激な減水の影響
 安倍川の河口では、急激な増水と急激な減水の機会が昔に比べて増えています。 ですから、増水の際により多くの土砂が海底深くに沈んで行く状況が発生しています。
 また、右岸近くの砂州の一部が決壊する事が多いので、東岸の沖に向かって排出される土砂を減らす状況も一年を通してたびたび発生しています。

 これによって、安倍川河口東岸の近くの沖に堆積する土砂の量が減りました。こんな状況が既に何十年も続いています。 しかも、安倍川の水量が急激に増加して急激に減少する傾向は年ごとに酷くなるばかりです。

 河川の水量の変化の仕方が激しくなって、急激な増水や急激な減水が増えているのは安倍川や丸子川だけに限った話ではありません。
 日本中の河川が同じ傾向を示しています。安倍川よりずっと大きな河川でも、ずっと小さな河川でも、ごく小さな沢から、 農地を流れるささやかな水路まで、日本中の全ての河川が同じ傾向の河川になってしまいました。

 ですから、日本中の海岸から砂浜や砂礫浜が失われたり失われつつあります。それだけではありません。 自然の河川によって形成されていた干潟にも大きな影響を及ぼしています。河川が流れ込んでいる小さな湾や内陸の湖沼においてもそれは同じ事です。
 また、河川における急激な増水と急激な減水の現象は、以前には無かったような状況の洪水や水難事故も各地に引き起こしてもいるのです。

 海岸の砂浜や砂礫浜や干潟や湾や湖沼や河川で生じている様々な問題の多くで、河川の水の流れ方の変化が影響していると私は考えています。
 しかしながら、それら様々な問題を解決しようとする論文や論説において、WEB上において私が調べた限りでは、 河川の水の流れ方の変化に着目した文章は見当たりません。全く残念な事です。

 日本中で砂浜や砂礫浜が失われたり失われつつある現象は、そのほとんどがここ数十年の間に発生した現象です。 少なくとも第二次大戦前や戦後しばらくの間までは、このような現象は発生していなかったと思います。

 過去数百年、或いはもっと昔から、砂浜も砂礫浜も何の問題もなく継続して存在していたのです。 それが 、ここ40〜50年の間に急速に失われたのです。
 しかも、それは特定の海岸に限った現象ではなく、実に多くの海岸で発生しています。さらに、新たに浸食されつつある海岸も増えているのです。

 これらの事実から、日本中の海岸の砂浜や砂礫浜が失われつつあることが、同じ原因によっているのだと考えない訳にはいかないのです。
 また、その原因がここ40〜50年の間に急速に発生して悪化している事も無視することが出来ません。

急激な増水と急激な減水の原因
 何故、日本中の河川で急激な増水と急激な減水が生じるようになったのでしょうか。それは、河川の上流と中流の治水方法が間違えているからです。

 その流域が都市化することによって、河川に急激な増水と急激な減水が生じる事は良く知られていると思います。 でも、ここで私が説明するのはそのことではありません。 上流や中流の河川の構造自体がそれらの問題を引き起こすような構造に変えられてしまったのです。

 河川流域の森林の状況が悪化したので、山や森林の保水力が無くなり、思いがけない増水の機会が増えている事は間違いありません。 また、森林や林が荒れているので山が崩壊し易くなっている事も間違いありません。
 でも、私がここで説明するのは、上流や中流の河川自体に元々備わっていた、石や岩による治水的効果が失われて保水力が無くなっている事です。

 日本では河川の上流や中流に大量の石や岩が存在している事が多いのです。 それらの河川では、大量の石や岩がある事によって、河川自体に自然による治水的効果が生じて自然の保水力を維持していました。

河川上流の治水的効果
 河川の上流で、水底に多くの石や岩が敷き詰められている場所を見ることがあります。 そのような場所では 大きな石や岩が多くあり、流れの様相は変化に富んでいます。
 流れの底だけでなく岸辺にも多くの石や岩があります。また、石や岩が多くあることによって水の流れの段差も多くあります。 場所によってはそれらの石や岩が苔むしていたりする事もあります。 深い流れもあれば 浅い流れもあり、水の流れもその方向を様々に変えて流れていたりします。
 このような流れでは少しぐらいの雨が降ったとしても流れに濁りが生じる事はありません。また、濁りが発生してもその濁りは早くに解消します。

 このような流れでは、水底や岸辺に数多くの石や岩があることによって、それらのさらに底にある大量の土砂の流下を防いでいます。 また、それらの石や岩は重なりあって上流側の土砂を堰き止めてもいるのです。 これらの場所では石や岩は大きいほど大きな役割を果たしています。

 このような場所では、水の流れは場所によって滞ったりその方向を変えたりしています。 浅い場所では早く流れていますが、深くて大量の水がある場所ではゆっくりと流れています。 さらに、流れが深い場所では流れる水量が増加すれば、流れの面積も増加してその場にとどまる水の量を増加させます。
 このような場所では、河川の構造自体に遊水地的効果があります。上流からの水量が増えても下流に流れ出す水量が急激に増える事はありません。 上流からの水量が減少したとしても下流に流れ出す水量は徐々に減少していきます。 これらの構造は石や岩が多くあることによって自然に形成されているものです。

 一方、土石流や洪水の後で見ることが出来る流れは単調です。流れの底には、石や岩よりも砂や小砂利が多い事が普通です。 水底に石や岩があったとしてもその数は少なく、それらが流れの方向を変えることも少ないのです。 そこでは、深い場所も浅い場所も少なく、石や岩による流れの段差も少ないのです。
 ですから、水の流れは一様で、樋の中を流れているようです。

 このような流れでは僅かな降雨があった場合でも、容易に濁りを生じます。上流からの水量が増加すればそのまま下流に流れていきます。 上流からの水量が減少すれば下流に流れる水量も減少するだけです。
 このような場所の河川の構造には遊水地的効果はありません。 雨が降れば河川に集まる水は急速に増加して下流に流れ下ります。雨が止んでしまえば、水の流れは急速に減少します。

 河川上流や中流で自然に生じている遊水地的効果は、それぞれの場所だけを考えればごく僅かなものだと言えます。 しかし、河川の流域全体を考えた時、石や岩が遊水地的効果を生じさせている地域は広大だと言えます。
 河川の流域の広がり方は、丁度、地面から生えた広葉樹のような形をしています。地面が海だとすれば、上に延びる太い幹は河川の本流です。 本流から枝分かれする支流は上流に至るほどその数が増えて、さらには幾重にも枝分かれをしているのです。
 石や岩による遊水地的効果は、支流やそのまた支流やさらに細流に至るまで、至る所で発生する事が出来るのです。 ですから、河川自体で自然に発生している遊水地的効果あるいは治水的効果は決して少なくはないのです。

 ところが、現在、河川の上流や中流で行われている工事は、遊水地的効果を持つ自然の流れを破壊して、 土石流や洪水の跡に見られるような流れを各地に作り出しています。
 しかも、自然状態のそれらが時間の経過と共に遊水地的効果を持つように回復をして行くのに対して、 人工的に作り出された土石流や洪水の後のような流れは、元の姿に回復する事はないのです。
 それどころか、上流や中流の工事が作り出した土石流や洪水の後のような流れは、時間の経過と共にその範囲を拡大して行きます。 これによって、急激な増水と急激な減水の流れは増える一方となります
 現在、河川の上流や中流で行われている工事は、自然による治水的効果を破壊しています。そして、その再生が困難な地域を拡大しているのです。

 上流や中流で、現在のような河川工事が行われる以前でしたら、河川上流や中流に大量にある石や岩が自然の秩序を形成していたので、 降雨によって発生する水の流下量の変化は穏やかなものになっていました。 同様に、土砂の流下も時間を掛けて下っていく穏やかなものになっていたのです。
 石や岩が多くある事が普通である日本の河川の上流や中流ではそれが当たり前の事でした。

 ところが、ここ40〜50年の間、河川の上流や中流で行われている河川工事では、石や岩による自然の保水的効果や治水的効果を全く破壊しています。 しかも、その状況は年々酷くなるばかりです。

安倍川上流中流の河川工事の失敗
 安倍川は、地方都市静岡の中心市街地を縦断して駿河湾に流れ込んでいますが、平野部が狭いので市街地はそれほど大きくはありません。 また、市街地部分では安倍川の川床は高い位置にあります。
 ですから、水の流れ方に対する都市化の影響は、支流の丸子川の場合を除けば、僅かのものだと考えられます。
 安倍川の場合では、急激な増水と急激な減水の原因のほとんどが上流と中流の治水工事によるものと考えられます。

 安倍川の上流と中流の河川工事の失敗は、余りにも多く建設された砂防堰堤と、余りにも多く建設されたコンクリート護岸と、 河川からの大量の石や岩の持ち出しがそれにあたります。

 上流や中流の砂防堰堤とコンクリート護岸は、それを建設した場所にはそれなりの効果をもたらしていますが、 河川全体の水の流下と土砂の流下の観点から見ればほとんどの場合で失敗です。

 それらは余りにも多く建設され過ぎました。個々の構造物が河川に及ぼす影響はそれほど大きなものではないでしょう。 しかしそれらは、小さな支流から本流に至る流域のほとんどの場所に大量に建設されています。 中流や下流の河川全体に及ぼす影響は極めて大きなものとなっています。

砂防堰堤
 砂防堰堤ではその上流に大量の土砂を堆積させています。 しかし、堰堤の上流の河川敷の表面に堆積しているのは多くの場合で砂や砂利や小さな石ばかりです。
 大きな石や岩が流れの中に存在したり流れに接したりしている事は少ないのです。 ですから、大きな石や岩による自然の秩序はほとんど形成されていません。

 砂防堰堤の上流側では、大きな石や岩が無いので、深みも無ければ水がしばらく留まる場所もないのが普通です。 まるで樋の中を水が流れているようです。雨が降れば、降った分だけ流下する水量が増加して流れ下ります。
 降雨量が減少した場合には、大きな石や岩が作る深みがありませんから水量の蓄えがありません。水量は減少するばかりです。

 小さな土砂を大量に堆積させた砂防堰堤の上流側では、元々それらの区域にあったはずの遊水地的効果が全く失われました。 ですから、急激な増水と急激な減水が発生し易くなっています。

 また、それらの砂防堰堤の上流側では、土砂が時間を掛けて穏やかに流下する効果もありません。 流下する水量が増加すれば、一緒に流下する小さな土砂の量もそれに従うばかりです。
 大きな石や岩があり深みが出来ていれば、上流からの土砂は一時的にそこに堆積した後に、小規模な増水のたびに少しずつ下流に流れていきます。 でも、大量の小さな土砂が表面に堆積した砂防堰堤にはそのような機能はありません。

 小さな土砂を大量に堆積させた砂防堰堤は、大きな石や岩を下流側に流下させることはありません。 ですから、大きな石や岩が流れて来なくなった下流側では、規模の大きな増水が有る度に石や岩が流れ下っていくばかりです。 砂防堰堤のすぐ下流側は、やがて、その上流側と同じような流れに変わってしまいます。
 大きな石や岩が少ないので、雨が降れば降った分だけ水が流れるばかりです。大きな石や岩があった時のような遊水地的な効果も失われてしまいます。

 砂防堰堤が建設されて、その上流側に小さな土砂が大量に堆積するようになれば、急激な増水と急激な減水が普通のものになってしまいます。 遊水地的効果が失われ保水力も失われてしまうので、平水時の水量も少なく、渇水時の水量も激減してしまいます。
 砂防堰堤より下流の治水は困難なものとなり、河川は荒れるばかりです。

コンクリート護岸
 コンクリート護岸では護岸に接する場所から、石や岩を流下させてしまいます。
 コンクリート護岸の建設以前に岸辺に存在していた石や岩を、そしてその近くにあった石や岩を流下させてしまうのです。 それは、普通の大きさの石や岩ばかりではなく、大きな石や岩も同じように流下させてしまいます。

 コンクリート護岸の建設後に、護岸にまで至る増水の機会が幾たびかあれば、護岸に接して残されるのは 特別大きな岩だけになってしまいます。 増水によって上流から石や岩が流下して来ればそれらの石や岩がその場所に一時的に留まりますが、やがてそれらの石や岩も流れ下ってしまいます。
 コンクリート護岸付近に残されるのは、特別大きな石や岩のほかには水流が弱くなった時に堆積した小さな石や砂利ばかりです。
 この現象はコンクリート護岸の場合だけではなく、川岸に作られた石垣の場合でも同じです。

 もともと石や岩が多くあった河川の上流や中流から、石や岩が失われてしまうことによる河川の変化は、上述の砂防堰堤の場合と同じです。

 本来の河川では、岸辺に大きな石や岩が残される事によって河川と河川敷の秩序を形成していました。 岸辺に大きめの石や岩が残される事が多いので、流れの中央が深く、岸辺が小高くなる現象を普通に見る事が出来ました。 それによって、石や岩による自然の秩序も自然に形成されていました。

 しかし、コンクリート護岸が設置される事によって、護岸のある場所から石や岩が流下してしまいました。 河川の中央が深くなる現象も少なくなります。石や岩による自然の秩序が形成される事が少なくなってしまいます。
 ですから、大きな石や岩による遊水地的効果が失われて、流下する水が留まる場所が無くなります。 それに従って水も土砂も素早く流下するばかりになります。つまり、急激な増水と急激な減水が発生し易くなっています。

 中流部のコンクリート護岸でも、その周囲の石や岩を流下させてしまいます。 ですから、河川の横断面はU字型から凹字型に変化して、本来持ち合わせていた土砂の流下機能を低下させます。
 河川敷一杯に流れる増水があるたびに、河川敷に土砂が堆積して川床を上昇させています。 川床が平坦化しますから、河川水は樋の中を流れるように流れます。 ここでも、増水時の急激な増水と急激な減水や、平水時の水量の減少が止むことはありません。

 コンクリート護岸によって岸辺近くの石や岩が流下してしまったことは、 安倍川流域の人々やその流域で長年釣りをしている人なら誰でも知っている事です。

石や岩の持ち出し
 石や岩の持ち出しは、自然の河川が持っている治水的効果を奪い去る行為そのものです。

 河川上流の山地では、時折、土砂崩れや土石流が発生して大量の土砂が河川や河川敷にもたらされます。 でも、それらの崩壊した土砂のほとんどは土や砂や小砂利であることが多いのです。 崩壊した土砂の中に混じっている石や岩の量は多くないのが普通です。
 さらに、大きな石や岩であるほどその量が少ないのも普通です。

 上流にある石や岩は、それが大きくなればなるほど、下流に下っていくのに長い時間を必要とします。 規模の大きな増水があったとしても、石や岩はそれが大きければ大きいほど増水の期間に流れ下る距離は僅かなものでしかありません。
 ですから、河川上流に多くある大きな石や岩は、数十年、数百年あるいはそれ以上の長い年月を経ることによって、 ようやくにして、それぞれの場所に数多く蓄積されて来たのです。
 上流や中流に大量にある石や岩は、極めて長い時間の経過だけがもたらす事の出来る貴重な自然の産物であり、国土の重要な財産なのです。 特に、大きな石や岩であるほど貴重であり、それらは容易に河川敷に出現するものではないのです。

 河川の上流や中流から石や岩を持ち出せば、持ち出した分だけ治水が困難になります。 河川から石や岩を持ち出す行為は自然の収奪であり、国民の財産の窃盗であり、全くの犯罪行為です。

 しかし残念な事に、安倍川上流や中流では極めて大量の石や岩が持ち出され続けました。 おおよそ400年前に安倍川の最上流で大規模な土砂崩壊がありました。 ですから、安倍川の上流や中流には極めて大量の石や岩があったはずです。
 他の河川に比べて多くあったはずの石や岩の多くが持ち出されました。それらの犯罪行為はここ数十年の間の短い期間の出来事です

 その結果は、安倍川上流の景色の変化として現れています。安倍川の上流では、昔は普通に見られた石や岩の多い光景の多くが失われました。 以前でしたら大きな石や岩が多くある事によって、砂や小砂利が大量に流れ続ける事はありませんでした。 水の流れは縦横に変化をして白く波立ちまた泡立ち、深くも流れ浅くも流れていました。
 しかし、そのような光景はほとんど失われてしまいました。今では年間を通して常に大量の土や砂が流れ続けています。 上流の光景は上流でありながらまるで中流のようです。そのような状況がほとんど源流部近くの上流にまで広がっています。

 中流からも昔の景色が失われました。40〜50年前の安倍川の景色を覚えている人なら誰でも、 それらの場所からも多くの石や岩が失われた事や、深い流れが失われた事を知っています。

 石や岩の多い河川の上流や中流から石や岩が失われた事によって生じる現象は、上述した砂防堰堤の場合やコンクリート護岸の場合と同じです。

ダム
 安倍川には貯水池を作る大きなダムはありません。でもここで、ダムについても少し言及しておきます。 ダムのある河川では急激な増水と急激な減水が当たり前の出来事になっています。

 ダムの建設によってダム上流の土砂が下流に移動しない事が、下流や海岸に影響を与えている事は言うまでもない事です。 でも、下流の河川全体に与える影響はそれだけではありません。ダムではその放流方法に大きな問題があるのです。

 ダムでは、貯水した水の放流方法が急激な放流であり急激な放流中止である事が普通です。 残念な事に、急激な放流を見世物にしているダムさえあるのです。
 これらの急激な増水と急激な減水が下流の治水に多くの悪い影響を与えている事は言うまでもない事です。

 ダムの放流による急激な増水は、少なくない場合で、土石流を引き起こして石や岩による自然の秩序を容易に破壊してしまいます。 また、ダムの放流停止による急激な減水は、石や岩による自然の秩序の形成を妨げています。
 ダムの放流による急激な増水と急激な減水が、石や岩による自然の秩序を破壊するだけでなく、その形成も妨げているのです。 ダム下流での河川の荒廃が特に酷いのはこれらの理由によります。

 その上流に幾つものダムを建設した大きな河川の中流部や下流部において、 従来以上に巨大な堤防の必要性が声高に主張されているのは全く不思議な事です。
 それは、それらの幾つも建設されたダムや多くの治水工事が治水の役に立っていない、或いは失敗だった事を大声で叫んでいるのと同じ事なのです。 ところが、その事を指摘する人は誰もいないのです。全く不思議な事です。

参考
 これら、河川上流と中流の水と土砂の流れ方の原則や、現在の治水における問題点の詳細については、「河川上流中流の土砂流下と堆積の規則性を考える」の記述を参照して頂ければ幸いです。
 また、「第11章 土石流の跡を考える」では、 ダムの放流によって土石流が発生している状況を記述すると共に、それを示す写真も掲載しています。

 その他の文章は少し分かり難いかもしれません。 と言うのは、私の文章力が拙いからでありますが、いずれの文章も考え考え記述して来たからでもあるのです。
 全てを理解し解明してから記述を始めたものではありません。さらに、それらの記述は今までには無かった新しい考え方でもあるのです。 ですから、考えの足りない所もあり、多くの重複もあれば、不必要な説明も多くあります。
 誠に申し訳ありませんが、それらをご承知の上お読み頂ければありがたく思います。



静岡の前浜の回復
静岡の前浜を取り戻す方法
 静岡の前浜が浸食された直接の原因は、安倍川河口左岸の岸に近い海中に堆積する土砂量が減少した事です。 ですから、前浜を回復する方法は安倍川河口左岸の岸に近い海中に堆積する土砂の量を増やせばよい事になります。

 もちろん、最も優先しなければならないのは、安倍川や丸子川の水の流れ方を元に戻す事です。でも、残念な事にそれは容易ではないのです。 仮に、今すぐに河川の工事方法を全て改めたとしても、安倍川の流れが元に戻るのには時間がかかるのです。

 過去に行われた工事の現場を短期間で変更してしまう事は出来ません。工事方法を新たにしたとしても、河川の状況が変化をするのには時間がかかります。 今までの工事箇所を変更していったとしても、その効果が有る程度明らかになるまでには10年近くはかかるのではないでしょうか。
 数十年間に亘って続けられてきた間違った河川工事によって生じた河川状況が、以前の状態に戻るまでには、 数十年あるいは100年近くの年月が必要なのかもしれません。

 安倍川の場合では、何よりも、大きな石や岩を大量に持ち出してしまった事が災いしています。江戸時代の初期に大規模な土砂崩れ「大沢崩れ」が発生した事により、 昔の安倍川の本流には、他の河川よりも大量の石や岩がありました。にも関わらず、現在では大きな石や岩の量が極めて少なくなっています。
 石や岩が少なくなっているのは安倍川の本流に限りません。支流の藁科川や中河内川、その他の小さな支流でも同じ事です。 それらの流れの様相が昔とは大きく異なってしまった事は、様々な河川工事以前の安倍川の様子を覚えている人なら誰でも感じている事です。

 石や岩はそれが大きいほど、河川敷に出現するまでに長い時間を必要としているのです。安倍川流域は土砂崩れが発生し易い地質ですが、 土砂崩れによって出現するのは、ほとんどが小さな土、砂、砂利などで石や岩の量は少ないのが普通です。 さらに、大きな石や岩になるほどその量が少ないのが普通です。
 ですから、支流や本流に昔のように多くの石や岩を取り戻すまでには100年近くあるいはそれ以上の年月が必要なのではないかと考えています。

 これらのことを考えると、河川上流や中流の工事方法を早急に改めると同時に、とりあえずの対策をとる必要を考えない訳にはいきません。 そうしなければ、前浜の砂礫浜はいつまでたっても回復しないばかりか、浸食はより進行してしまいます。

前浜を回復させる為に私が考えている幾つかの方法
(1)安倍川の流れを昔に戻す方法
・ダム型砂防堰堤をスリット型或いはアーチ型に改造する。或いはその高さを低く作り替える。
・上流のコンクリート護岸の内側に大きな石や岩が自然に留まるようにする。これによって上流の流れに石や岩による自然の秩序を取り戻します。
・中流のコンクリート護岸の内側に適度な大きさの石や岩が自然に留まるようにして、増水時の水の流れを堤防から遠避ける。 これによって、河川の横断面をU字型に戻す。
・支流との合流地点などに元からあった遊水機能を取り戻す。
・以前からあったかすみ堤の機能を取り戻してさらに強化する。
・中流や下流に設置した堤防内側の小堤防を取り去る。それによって中流や下流の土砂流下機能を元に戻します。

(2)丸子川から急な増水と急な減水をなくす方法
・上流のダム型砂防堰堤をスリット型或いはアーチ型に改造する。或いはその高さを低く作り替える。
・規模の小さな沢から石や岩が流失しないようにする。
・小規模なスリット型堰堤を多く設置して急激な増水と減水を防ぐ。
・小規模な遊水地を幾つか建設して急激な増水と減水を防ぐ。

(3)とりあえずの効果を生じさせる方法
 河口の砂州が河口東岸に近付き過ぎるのを防ぐ方法です。右岸からの砂州が左岸に近付き過ぎると、 河口を横断する砂州が直接に破壊される機会が多くなります。これを防ぐ必要があります。
・河口の砂州が河口中央より東に延びて左岸に近付いたら、重機を使用してその部分を破壊する。
・上記の方法が効果を生み出す事が明確になったら、重機を使用しなくても同じ効果を長期間保つ事の出来る装置を設置します。
・この装置は簡単な構造です。河口左岸近くで砂州が通常出来る場所に、電柱の基部程度の太さのコンクリート柱を水の流れに沿って列柱状に埋設します。 水流によっても移動しない深さまで埋設した列柱の頂点は砂州が出来る前の川床程度の高さとします。
 この装置を設置する事によって、列柱に沿った場所の土砂は水流によって流下し易くなりますから、その場所には浅瀬が出来なくなります。 したがってその場所には砂州も出来なくなり、河口の砂州が成長しても左岸に近付き過ぎるのを防ぎます

(4)上述(3)に続いて、とりあえずの効果を生じさせる方法
 規模の大きな増水の際に、河口東岸の岸近くの海底に土砂が多く堆積するようにする方法です。
・安倍川河口の土砂が海に流れ込む場所より上流に、流れに対して斜め方向の水制を設置します。 その水制は、コンクリート柱を近接して並べて埋設するものであり、その高さを通常時の土砂堆積の高さとほぼ同じかそれより低くします。
 これによって、川床の水流と土砂の流れを変えて、河口東岸の岸近くの海底に堆積する土砂の量を増大させます。 この方法では、増水時に河川の水の流れを妨げる事が少なく、河口の正面の沖に流れ出す土砂の量を減少させることが可能です。 また、この水制による土砂の流下先は上述(3)の装置に向かうように設置します。

 上述(1)(2)で記述した、上流や中流の石や岩の流下を防ぐ方法については、具体的な方法を私自身でも考案して特許を申請しています。 また、上述(3)(4)の方法も特許申請中です。これらの詳細についてはお問い合わせ下さい。また、その実施を考慮する場合には必ず筆者までご連絡下さい。

前浜はいつ回復するのか
 「砂礫浜を考える(静岡の前浜の場合)その1、その2」を発表した当時には、前浜の回復は案外容易なのではないかと考えていました。 しかし、改めて海岸の様子を観察し、また資料によって海底の様子を知る事が出来た現在では、その考えは改めない訳にはいきません。

 前述の対策の(3)(4)案を採用した場合、大浜海岸までは数年以内に砂礫浜の拡大を見る事が出来るのではないかと考えています。 しかし、その先の海岸を回復するのは容易ではありません。
 大浜海岸から先の海岸線の方向は、安倍川河口東岸で堆積土砂が少なくなった時の方向と同じです。 つまり、大浜から先の海岸はそれまでより砂礫を移動させる能力が少ない事も考えられるのです。 ですから、大浜海岸より東側では砂礫浜の回復の速度が遅くなる可能性があると考えています。
 さらに、それらの海岸では浸食が進行していましたから、海底の砂礫の斜面が急激なものになってもいるのです。 極めて大量の砂礫が必要なのは言うまでもありません。

 砂礫浜の回復が多少なりとも三保の松原にまで及ぶのには、早くても十年近く、もしかするとそれ以上の時間が必要なのではないでしょうか。 そして、三保の松原付近の光景が昔のように戻るのには、さらに数十年以上の年月が必要なのだと考えています。
 それらに必要な時間は、実際に砂礫浜が回復を始めた後であれば数値的にある程度予測する事が可能になるでしょう。 その時に私の予想が外れて、もっと早く回復出来るようであればと願うばかりです。
 対策の(3)(4)案に効果があったとしても、それは一時的な対策に過ぎません。 ですから、対策(1)(2)の方法を早く実施して、一日でも早く恒久的な効果を実現することが強く望まれます。

静岡の前浜以外の浜辺の回復を考える
 静岡の前浜以外でも、浜辺が減少したり消滅したりしている場所が日本各地にあります。 それらの浜辺で発生している状況は、多くの場合で静岡の場合と共通していると考えられます。

 ほとんどの場合で、海岸線において砂や砂礫の移動が妨げられています。 ほとんどの場合で、河川から排出される土砂の多くが岸から離れた深い海の底へ沈んでいくので、浜辺への砂や砂礫の受け渡しが充分には行われていないと考えられます。 つまり、ほとんどの場合で、この二つが浜辺の減少や消滅の直接の原因だと考えられるのです。
 ここで、砂浜や砂礫浜の減少と消滅の原因であるこの二つの問題について、その一般的な状況について考えて見ます。

「砂礫浜」では海岸線に沿った砂礫の移動はほとんど岸辺近くで発生している
 45年ほど前、前浜で投げ釣りをしていた時に、海中に投げ込んだ錘が海岸線に沿って移動することが度々ありました。 そのことは「砂礫浜を考える(静岡の前浜の場合)その1」で記述しています。 今から考えると、この現象は砂礫によって形成されたステップの上で発生していたと考えられるのです。

 現在の静岡の前浜では、岸を離れた海中で砂礫が移動する現象はほとんど確認する事が出来ません。 それは、河口付近の海岸線の観察に行くたびに、釣針の付いていない錘を何度も海中に投げ込むことで確かめることが出来ました。
 2012年7月17日に砂礫の急激な移動を発見する事が出来ましたが、 その時でも立ち上がった波の向こう側に投げ込んだ錘が移動する事はほとんど無かったのです。
 また、浜辺で出会った幾人もの釣り人に岸辺近くでの潮の移動について尋ねましたが、 河口から流れ出す安倍川の流れ以外の場所での潮流の存在について明確な答えはありませんでした。 少なくとも、投げ釣りの錘で確かめられる範囲内では、岸辺を離れた海中の土砂の移動は確認出来ていないのです。

 現在の静岡の前浜では、ほとんど岸と言うべき場所で海岸線に沿って砂礫が移動していても、 全くの海中で移動している砂礫の量はとても少ないと考えられるのです。 砂礫の移動が波によって生じているから、立ち上がる波の向こう側では砂礫が移動する事が無いのです。
 でも、砂礫浜にステップが形成されれば、これらの事情は違ってきます。波は、岸から離れてステップの出来ている場所から立ち上がります。 それによってステップの上でも砂礫が移動すると考えられるのです。
 私が45年ほど前に経験した事は、このような状況を現わしていたのだと考えられます。

「砂浜」でも海岸線に沿った砂の移動は岸辺近くでより多く発生している
 「安倍川河口から続く静岡の砂礫浜海岸(その2)」では、ほとんど岸と言っても良い場所で海岸線に沿って砂礫が移動している事を確認しました。 これは砂礫浜の特徴であるとして記述しましたが、 海岸がほとんど砂によって成り立っている浜辺でもそれらの砂の移動は、砂礫浜の場合と大きくは異なっていないと考えるようになりました。

 既に幾度も説明していますが、砂浜の傾斜は砂礫浜の場合よりずっと穏やかなのが普通です。 ですから、砂浜での波は、岸辺から離れた遠くから幾重にも立ち上がり岸辺に押し寄せて来ます。しかも、それらの波は岸辺に近付くほど大きく成長するのです。
 つまり、砂浜でも、海岸線に沿った砂の移動は、波が立ち上がる沖から始まり、岸に近付くほどその移動量が多くなると考えられるのです。 

 砂礫浜の場合であっても、砂浜の場合であったとしても、海岸線に沿った土砂の移動は岸辺近くで発生していて、岸に近い場所ほどその移動量が多いと考えられます。
 日本中の浜辺で砂浜や砂礫浜が減少したり消滅したりしている原因の一つは、海岸線に沿った岸辺で砂や砂礫が移動している事を無視しているからです。

浜辺にある構造物
 海岸から砂浜や砂礫浜が減少するようになる前から、浜辺には多くの構造物が建設されて来ました。 もちろん、それらの浜辺の面積が減少するようになってからでも、多くの構造物が建設されて来ました。
 残念な事に、それらの多くが海岸線に沿った砂や砂礫の移動を妨げています。

 突堤や岸壁などがそれに該当します。これらの構造物は岸から海に向かって延長しています。 海岸線に沿った土砂の移動を妨げているのは、それらの構造の岸辺と岸辺に近い部分です。
 ですから、これらの構造物であったとしても、岸と岸に近い部分が土砂の移動を妨げない構造であれば問題が無いのです。 この解決は案外容易な事です。現在でもそのような施設を見ることがあります。 

 つまり、それらの構造物の岸と岸辺に近い部分を幾つかの柱で支える構造にする事が考えられます。 そうすれば、岸辺に土砂が堆積する事を妨げる事が無く、それらの土砂が海岸線に沿って移動する事も妨げられないのです。
 ただし、そのような構造では施設としの目的が果たせない場合であれば、この方法は採用出来ません。 また、岸辺から離れて延長された部分が沖からの波を妨げるようであれば、この方法は採用しても意味のない事になります。 

 消波ブロックが砂や砂礫の移動を妨げている事は、既に何度も述べています。 しかし、移動して来る砂や砂礫が望めない場所であれば、消波ブロックが海岸の浸食を防いでいることも確かです。 ですから、浜辺が回復して来た時には、砂や砂礫が移動して来る消波ブロック群の上流側から順番に撤去していけば良い事になります。 

 この事は、過去において消波ブロックを設置した時に多くの間違いがあった事を想起させます。 消波ブロックが砂浜や砂礫浜を回復させると考えられていた時期があったようです。実際にはそのような事はあり得ないのです。
 しかし、そのように考えられていた時期には、消波ブロックはただ設置する事だけが考えられていたのではないでしょうか。 ですから、本来、消波ブロックが必要ではなかった場所にも設置されてしまった場合が多いと考えられます。 それによって、問題がなかった浜辺も減少するようになってしまいました。
 残念な事にそのような海岸は現在でも増加しているように思えてなりません。 

河川から浜辺への砂や砂礫の受け渡し
 河川から浜辺への砂や砂礫の受け渡しの問題を解決するのは、海岸線を移動する土砂の問題よりも困難だと言えます。 それと言うのも、河川から浜辺への砂や砂礫の受け渡しの問題は、それが発生しているそれぞれの河川によってその状況が全く異なっているからです。

小さな流れ込みの場合
 例えば、多くの砂浜や砂礫浜で、海への小さな流れ込みを見ることがあります。それらは地元の人しか名前を知らなかったり、 地元の人でも名前を知らなかったりする小さな流れ込みです。それらの河川では、その流れが海に流れ込むのは大きな増水の時にだけ限られていたりもします。
 そのような河川でも、増水になれば濁りが発生して土砂を海にまで排出します。 そこでは、海へと流れ出す水量自体がそれほど多くないので、河川から流れ出した土砂はその多くが岸辺近くに堆積します。 
 増水が終われば、河川からの水の流れ出しもほとんど無くなるか、或いはごく少なくなりますから、 岸辺近くに堆積した土砂のほとんどは、沖に向かって流される事なく、そのまま海岸線に沿って移動して行く事でしょう。

 このような状況は、2012年7月14日に安倍川河口砂州の西側の一部が決壊した時の状況に似ています 。 この時には、決壊した砂州の距離が短かったので、海へと流れ出た水量も排出された土砂の量もそれほど多くはなかったのでしょう。 決壊した場所に再び出来始めた砂州はその中央で沖に向かって少し突出していました。
 つまり、その時に海に排出された土砂は遠くの沖にまで流れ出す事がなく、多くの土砂は岸辺近くの浅い場所にとどまったので、 そのほとんどが岸辺にまで戻って来たのです。突出した砂州はやがて海岸線に沿って移動して行きましたので、その後、突出は無くなってしまいました。

 増水時にだけ流れが海へと注ぐような小さな河川は、日本中の砂浜や砂礫浜にあります。それらの河川でも急激な増水と急激な減水の状況は発生しています。 しかし、元々の水量が少ないので排出した土砂の多くが岸辺近くにとどまっているのだと考えられます。
 砂浜や砂礫浜を形成するのは大きな河川や中規模の河川ばかりではありません。小規模な河川から排出される土砂の量は多くはありません。 しかし、大きな河川から排出された土砂の全てが岸辺にまで戻るとは限らないのですから、小規模な河川の働きにも大いに注目しなければなりません。

 このような小さな河川では、流水の排出を確保するために沖に向かって突堤を設置したり、水門を設置したりすることも多く見られます。
 それらの構造物は砂浜や砂礫浜の形成を妨げている可能性があります。それらの構造物の設置においては河川水の排出のことだけでなく、 その河口から排出されて浜辺を形成する土砂のことも、海岸線にそって移動する土砂の事も考える必要があります。
 これらの場合では、前述の(3)の方法が有効になる可能性もあるのではないかと考えています。

河口から海へと排出される土砂
 増水時には全ての河川が海へ向かって土砂を排出しています。でも、だからと言って全ての河川の隣に砂浜や砂礫浜が形成される訳ではありません。 その理由は幾つか考えられます。

 先ず、河川から排出される土砂の質のことを考えなければなりません。砂浜や砂礫浜を形成するためには、 河川から排出される土砂が砂より大きな土砂である必要があります。河川から排出される土砂が砂より小さければ、砂浜や砂礫浜は形成されません。
 また、河川から排出される土砂の量も重要な問題だと考えられます。 これらの事情については「砂礫浜を考える(静岡の前浜の場合)その1」でも少し記述しています。

 岸辺近くの沖に堆積された土砂を岸辺に戻す波が発生する状況も重要な問題です。 全ての海岸で波が発生していますが、その発生場所やその大きさや発生時期がそれぞれに異なります。

 外洋に面した場所の波は大きくなり易いのですが、湾奥で発生する波は小さなものです。また、河川から海へと流れ出す水量もその方向も様々です。 ですから、波が発生する場所も様々です。これらの状況はそれぞれの河口の地理的条件によって様々に異なっています。
 例えば、土砂を戻すほどの波が発生していたとしても、その波が流れ出す水の正面で発生するだけで岸辺にまで押し寄せて来ないのならば、 流れに逆らって岸辺にまで土砂を戻す事はないのです。

 また、土砂を戻すことが出来たとしても、戻した土砂を堆積させる場所が無ければ土砂が堆積する事はありません。 波によって土砂が沖から戻る現象と、海岸線に沿って土砂が移動する現象は別個の現象ですから、それぞれの現象が連鎖しているとは限りません。
 ですから、土砂が岸辺に戻って来たとしても、その場所が岸壁だったり、その場所に消波ブロックが有ったりしたら、土砂が堆積する事はありません。 当然、その場所から海岸線に沿って土砂が移動する現象が発生する可能性は少ないのです。

海への流れ込みが常にある河川の場合
 河口から排出された土砂が河口の岸辺や近くの浅い場所に堆積し、それらの土砂を岸辺にまで引き戻す波が発生する状況はそれぞれの河川によって全く異なっています。 それぞれの河川によって水量が異なりその勢いも異なります。また、排出される土砂の量も土砂の質もそれぞれに異なります。
 また、流れ出す海の状況もそれぞれに異なります。浅い海もあれば深い海もあります。大きな波が立つ海もあればほとんど波が立たない海もあります。 海岸流が強い海もあれば流れがほとんど無い海もあります。
 さらに、それらの状況も季節によって或いはその時々の気候条件によって常に変化もしているのです。
 土砂が河口から海へと排出される状況も、海に排出された土砂が河口の岸辺近くにまで戻される状況も、それぞれの河川によって全く異なっています。

 河口から常に水が流れ出ている河川であっても、流れ出す土砂とそれを引き戻す波のあり様が季節ごとに変化している事も多いようです。 それらの季節的変動を無視して、海岸から砂や砂礫が減少したという単純な理由だけで、 直ちに海岸線に消波ブロックを設置された場所も多いのではないかと考えています。 
 それらの海岸では、本来、不必要な消波ブロックを設置することによって、砂や砂礫を奪い去りました。 残念な事に、海岸の状況を観察する事の無い、間違えた判断は現在でも続いているようです。 

 上流にダムがあり、そのダムの影響が直接海岸にまで到達しているようでしたら、 ダムによる放流方法を変更するだけで、海岸の砂浜や砂礫浜を回復する可能性があると考えられます。このような状況も、それぞれの河川によって異なっています。 

河口に砂州が出来る河川の場合
 安倍川の場合ほどには砂州が大きくならなくても、河口を横断する形で砂州が出来る河川は各地にあるようです。

 それらの河川では、水量に比して河口からの土砂の排出量が多いこと、河川の水量の変動幅が大きいことなどが共通していると考えられます。 また、それらの砂州が出来る方向は、沖を流れる海岸流の方向によって決まっているのではないかと考えています。
 いずれにしても、これらの河川の場合では、安倍川の事例の多くが当てはまると考えられます。 ですから、それらの場所に砂浜や砂礫浜を取り戻す方法は安倍川の場合と共通している事が多いと考えられます。

河川の急激な増水と急激な減水 
 日本中の河川の水の流れ方が変化して、昔は無かった急激な増水と急激な減水が常に発生している事は既に記述したとおりです。 その事によって、水の流れと一緒に海へと排出されている土砂は岸から離れた深い沖にまで流されています。

 河川から海へと排出される土砂の量は、排出される水量にほぼ比例していると考えられるのです。
 仮に、期間が短い増水と期間が長い増水があったとして、その増水の総水量が同じだったと仮定した場合。 増水の期間が短い方が水の勢いが強くて排出される土砂はより遠くまで流されると考えられます。 それに対して、増水の期間が長い場合には、水の勢いはそれほど強くはなくて排出される土砂も岸辺近くに多く堆積するのではないでしょうか。

 例えば、庭先で水道の蛇口にホースを繋いで水を出したとします。 この時に、ホースを繋いでただ水を出すだけでは、近くにある砂や土を遠くにまで流し出す事は出来ません。
 水道の蛇口をさらに回してより多くの水を出せば、砂や土を遠くにまで流し出す事が出来ます。 あるいは、ホースの先を指で押さえて水の出口を小さくした場合でも、水は勢い良く遠くまで流れ出て砂や土も遠くまで流し出す事が出来ます。

 日本中の河川が急激な増水と急激な減水の流れに変化してしまいました。 日本中の河川から排出される土砂も、勢いよく流れ出して海底深くに堆積する割合が増えてしまいました。 この事が日本中で多くの砂浜や砂礫浜が減少している事の原因です。

波と土砂を観察することの重要性 
 多くの河川では、河口から排出された土砂の多くが遠くの沖の海底にまで移動しています。ですから、岸辺に戻る土砂が減少しています。 このことは、程度の違いがあったとしても、ほとんどの河川で共通している事です。

 しかし、河口から海へ向かって土砂が排出された時に、排出された土砂の全てが遠い沖にまで流される事はないでしょう。岸辺近くにも土砂が堆積しているはずです。
 排出された土砂の全てが海底深くにまで到達しているのではありません。 浜辺が浸食されるようになった現在であっても、新たな施設によって妨げられていない限り、 岸辺近くに堆積する土砂も、沖から岸辺に戻って来る土砂も存在しているはずです。 さらには、僅かながらでも海岸線を移動しようとしている土砂もあるはずだと考えています。

 なぜなら、それらは、40〜50年前までは普通に発生していた現象です。 河川の流れ方が変わってしまったので、その現象の表れ方が変化してしまったのに過ぎないのです。 河川の流れとそれに伴う土砂の流れがある限り、それらの現象が全て失われてしまうことはないと考えられます。

 海岸に砂浜や砂礫浜を取り戻そうとするなら、それぞれの河川と浜辺における土砂の移動現象の状況を明らかにする必要があります。
 40〜50年前までは普通に発生していた、そして、現在でも残されているはずの現象を見つけ出す必要があります。 それは、河口近くで発生する様々な波の様子や岸辺の土砂を観察する事によって可能になるのではないでしょうか。
 そして、昔からあったそれらの土砂の移動現象を取り戻す方策を考えればよいのだと思います。

 つまり、私がここまでに記述した波や土砂の様子や、写真や動画の波や土砂の様子を参考にして、それぞれの河口や浜辺の増水時や平水時の様子や、 その時々や季節ごとの様子を観察すれば、それぞれの河口や浜辺で土砂がどのように移動をしているのかを推察する事は可能です。 またそれは、それぞれの地域に住んでいる地元の人々であれば、より容易であると考えています。
 それらの観察結果が明らかになった後で、初めて、失われた浜辺の回復は可能になるのではないでしょうか 。

最後に
 2013年11月12日、久しぶりに安倍川河口と西島海岸と大浜海岸を訪れてみました。 2012年の7月に少しだけ海へ向かって伸長した海岸線のその後の様子が気になっていたのです。 

 残念な事に、第一消波ブロック付近の渚は元の位置に戻っていました。 消波ブロックより10mほど前進していた渚は、消波ブロックと同じ位置に後退していたのです。
 河口の直ぐ東側の渚も様変わりしていました。風車の前で真っ直ぐ海へ向かって並べられていた消波ブロックの先端には、波が直接打ち寄せていました。 2012年7月には、直角に並んだ消波ブロックの前には10〜30m位の幅で浜辺が広がっていたのです。  そして、右岸から続く河口の砂州は左岸のすぐそばまで延びていました。 

 第一消波ブロックの東側の様子も2012年7月とは異なっていました。 幾つもある消波ブロック群の間にある渚は、陸地方向に後退していました。 以前には、消波ブロックの間の渚の線は、消波ブロックの先端とほぼ同じ位置にあったのです。 
 それらの幾つもある消波ブロックでは、今までのテトラポットの上にさらに幾つものテトラポットが積み重ねられていました。



左写真 2013年11月12日。全くの逆光で見難いのですが、中央で左右に延びているのが河口を横断する砂州です。この日の砂州も河口の東岸に極めて近い所まで延長していました。

右写真 河口東岸の風車前で海に向かって直角に設置されている消波ブロックの先端は波に洗われています。



左写真 2013年11月12日。安倍川河口東岸の第一消波ブロック。12年の7月には消波ブロックの前にも砂礫浜があったのですが、この日には全く消失していました。

右写真 第一消波ブロックの東側、第二消波ブロック付近。消波ブロック間の渚は岸深くまで進出し、消波ブロックの後ろ側にも波が侵入しています。 また、それぞれの消波ブロックの上には新たなテトラポットが積み上げられています。上に乗せられた新しいテトラポットの縁は波によって削られていません。

 少しだけ良い方向の変化も見る事が出来ました。大浜公園の堤防上からの眺めが少し変化していたのです。 2012年7月には、堤防前の砂礫浜は起伏がないまま直線的に渚まで下っていましたから、砂礫の岸に打ち寄せる波を直接に見ることが出来ました。 今回は、堤防の上から打ち寄せる波を直接に見ることが出来ませんでした。堤防前の砂礫浜に膨らみが出来たので、その丘が視界を妨げていたのです。

 これは、大きな波が発生した時に、砂礫浜の中程にまで土砂が打ち上げられた事を現わしています。つまり、ここでは少しだけ砂礫浜が回復していたのです。 もしかすると、2012年7月に第一消波ブロックの前に伸長して堆積した砂礫が大浜公園前の海底に移動して、それが可能になったのかもしれません。
 そうであるか否かに関わらず、これは、安倍川河口から大浜海岸までには、砂礫が浜辺を作る作用が残っている事の証しだと思います。

 現在、静岡の前浜で行われている海岸の保全方法では、砂礫浜を昔のように回復させることは極めて困難です。 もちろん、富士山と一緒に世界文化遺産に指定された三保の海岸を昔に戻すことも同様です。 三保海岸の浸食は、ほとんど改善されていません。

 海岸線に沿って続く国道150号線沿いの浜辺は、40〜50年前には100m以上の広がりがあったはずです。 現在では、それらの浜辺の多くが失われ、離岸堤と消波ブロックと堤防の連続に変わりました。 しかも、台風が近海を通り過ぎる度に、堤防を乗り越えた大波が国道にまで打ち上げられるようになっています。

 現在、静岡の前浜で行われている海岸の保全方法ではその費用が減少することはありません。 消波ブロックも 離岸堤も浸食によって沈下して行きますから、それらのテトラポットは常に追加して積み上げていかねばなりません。
 仮に、国道150号線沿いの浜辺を全てテトラポットで埋め尽くしたとしても、それだけで浸食が止まる事は無いのです。 さらに、テトラポットを積み上げ続ける必要があるのです。
 また、三保の海岸の浸食を現在のままで止めようとするなら、現在以上に大量の土砂を安倍川から運び込まなければなりません。

 現在、静岡の前浜で行われている海岸の保全方法は、海岸浸食の進行を遅くする以上のことは考えられていません。 安倍川河口から移動してくる砂礫の量を増加させる事は全く考慮されていません。 つまり、海岸浸食の原因に対応した方策が採用されていないのです。
 しかも、それらのためには多額の費用を投入し続けなければなりません。

 先に提案した方法では、現在投入されている費用に比べても、その費用は僅かなものに過ぎません。しかも、費用が増大し続けることもありません。 それは、その方法が海岸浸食の原因に対応した方策であるからです。
 上述の砂礫浜回復の方法が一日でも早く実行される事を強く願うものです。



この章のまとめ
静岡の前浜の現状
 中島海岸での砂礫浜の拡大が続かなかった理由として、ステップ自体を支える海底の問題があると考えられます。
 移動して来た砂礫によって、傾斜の急な海底にステップが形成されるとしても、 その海底が既に大きく浸食されていればステップ自体を支える事が出来ないと考えられるのです。 静岡の土木事務所が調査し記録してきた、前浜の地形図によってもその事は明らかにされています。

 その地形図によると、河口東側に隣接する海岸ではその沖まで水深4m未満の海底が広がっています。 しかし、河口東側より僅かに東に至るだけで、4m未満の海底の面積は非常に狭くなっています。
 安倍川河口の東側の沖に堆積している土砂は、安倍川が増水した時に限って排出された土砂の一部が堆積したものです。 それらの土砂の内で、4m未満の海底に堆積したほとんどの土砂が岸辺に打ち上げられています。
 しかし、河口東側海岸の東側では、より東側になるほど岸辺を伝って土砂が移動して来る可能性が少なくなっています。

 つまり、安倍川河口東側では、水深4mより浅い場所が沖に向かって広がっていて、なおかつ時々土砂が堆積するので、 土砂が陸地に向かって打ち上げられ易い。
 河口東側よりも東にある第一消波ブロック近くでは、水深4mより浅い場所が狭くなるので砂礫浜は拡大しにくい。 第一消波ブロックより東側では水深4mより浅い場所がほとんど無いので、打ち上げられる土砂が少ない。と考えられるのです。

 前浜の地形図ではその西半分と東半分では浸食の様子が著しく異なっています。
 その西半分では、安倍川の河口に近いほど海岸が回復する傾向が見られます。しかし、東半分での浸食状況は悪化するばかりです。

 西半分の回復状況には全く問題が無いように見えますが、そうとは言い切れません。 西半分の海岸が回復に向かいつつある初期の経過は不自然に思えるのです。
 安倍川河口から土砂が順次移動して来たなら、それらの海岸の土砂堆積状況は連続しているはずです。 ほとんどの海岸で砂浜や砂礫浜が広がる幅はほぼ一定であるのが普通です。特定の場所で急激に土砂量が増大したりすることはありません 。

 前浜の西半分の回復過程の初期にはそれらの不自然な状況が見て取れます。 過去において、西半分の土砂の堆積量が増加したのは、安倍川の河川敷から土砂を直接運び込む、サンドバイパス工事によるものと考えられます。
 つまり、前浜の西半分の回復には人工的な営為が関わっているということです。 そのことは悪いことではありません。でも、それをあたかも全くの自然現象であるかのように言うのは間違いであると思います。

 先の「砂礫浜を考える(静岡の前浜の場合)その1、その2」記述をするにあたって前浜の多くの場所を訪れました。 その折にも、浜辺に土砂を運びこんでいる状況を各所で見ることが出来ました。また、今回の記述でも、中島海岸に特別大きな波が来襲した際に、 過去に運び込んだ土砂の縁にまで大きな波が到達した事が明らかでした。 前浜の西半分でも東半分でも安倍川の河川敷から大量の土砂が運び込まれているのです。

静岡の前浜が浸食されている原因
 安倍川河口東側沖の浅い海底に堆積する土砂の量が減少したのが、砂礫浜に移動する砂礫が減少した直接の原因だと考えられます。
 そして、安倍川河口東側沖の浅い海底に堆積する土砂の量が減少したのは、安倍川の水の流れ方が昔と今とで異なっているからです。

 安倍川の流れは、以前に比べてその水量の変化が激しいものになっています。昔に比べて、増水時の水の流れが急激に増加するようになり、 増水が終わると水量が急激に減少するようになってしまいました。 また、それに従って平水時の水量も減少しています。
   これらの状況は安倍川だけに限らず日本中の河川で同様に引き起こされている事です。

 増水の際に水量が急激に増加して、増水が終了すると急激に減少する場合が増えているので、流れ出す土砂はより多く沖に流れ出し、 河口近くの浅い海底に堆積した後に海岸に引き戻される土砂の割合が減少しています。
 安倍川流域に降る雨の量が昔と変わらなくて、河口から海へ排出される土砂の総量が変わらないとしても、陸地へ戻る土砂の量は減少しているのです。

 安倍川の河口では、河口に出来る砂州の状態によって海に排出される土砂の状況が様々に異なります。
 河口の砂州が東岸まで延びて、狭い流れ出しから東方向に水流が出ている時には、河口東側の沖に土砂が堆積することはありません。
 このような状況で増水が発生すれば、河口の砂州は一気に破壊されて、増水した安倍川の水はそのほとんどが河口正面の沖に向かって流れ出します。 この時にも河口東側の沖に土砂が堆積することはほとんど期待できません。
 増水が急激になっていますから、岸辺の浸食によって流れ出しがその口を徐々に拡大することは望めません。 上流から流下して来た大量の土砂が深い海底に向かって流れ出して行きます。

 河口に出来た砂州によって安倍川の流れ出しがある程度狭くなり、流れ出しが河口東側の沖を向いた時に、 河口東側の沖の土砂が最も大量に堆積すると考えられます。
 その時に、増水が終了していなければ大量の土砂が土砂が河口東側の沖に向かって排出されます。 また、流れ出しが河口東側の沖を向いている時に、小規模な増水があれば、やはり土砂が河口東側の沖に堆積します。
 つまり、増水時にはその水量が徐々に増加して、また減水過程においてもその減水が徐々に進行すれば、河口東側の沖に 堆積する土砂の量は増加すると考えられます。さらに、平水時の水量が今よりも多くなればこのような状況が発生し易くなると言えます。

 砂浜や砂礫浜が浸食される状況は、そのほとんどがここ数十年の間に発生しています。 過去数百年或いはもっと昔から、砂浜も砂礫浜も何の問題もなく継続して存在していたはずです。 それが、ここ30〜50 年の間に急速に失われるようになったのです。
 しかも、それは特定の海岸に限った現象ではなく、日本中の海岸で発生しています。さらに、新たに浸食されつつある海岸も増えているのです。
 これらの事実から、日本中の海岸の砂浜や砂礫浜が失われつつあることには、共通している原因があると考えない訳にはいきません。 また、その現象が近年になるほど悪化している事も無視することが出来ません。

 何故、日本中の河川で急激な増水と急激な減水が生じるようになったのでしょうか。 それは、河川の上流と中流の治水方法が間違えているからであると考えられます。

 日本の河川の上流部は、その多くが渓流と呼ばれる石や岩が多くある流れです。
 石や岩が多くある上流では石や岩が多くある事によって、自然の遊水地的効果を生じさせています。流れを形成している多くの石や岩の存在自体が、 水の流下を穏やかにして保水効果を生じさせ、土砂の流下現象も穏やかにしていました。

 上流部では、すぐには流下して行かない大きな石や岩が多くあることによって、それらの石や岩の底に多くの土砂を堆積させています。 また、大きな石や岩があることによって深い場所が多く出来るので、水の流れも土砂の流下も穏やかなものなっています。
 上流部ほど流れの傾斜が大きくなるのも、上流部ほど石や岩が多くその大きさも大きくなっていることによります。 上流になるほど水底にある石や岩による段差が大きくなりその数も増えているのです。

 河川上流のそれぞれの場所での遊水地的効果は僅かなものです。しかし、河川の上流部は広葉樹で言えば先端部に近い枝に相当します。 それら全ての場所での治水的効果は決して無視する事が出来ません。

 近年、上流部には数え切れないほど多くの砂防堰堤やコンクリート護岸が建設されて来ました。そして、その数は今も増え続けています。 また、上流部にあった多くの石や岩は持ち出されて都市部において様々な用途に使用されています。

 上流部にある砂防堰堤の多くにおいて、その上流側は小さな石や砂によって埋まっています。 また、上流部から下流側へ石や岩を流下させる事も少なくなっています。
 コンクリート護岸では、その護岸に面した所にある石や岩を容易に流下させてしまいます。その効果は上流部にある岸壁の谷の場合と同じです。
 これら砂防堰堤やコンクリート護岸は、石や岩が多くあることによって生じていた自然の遊水地的作用を無くしてしまいました。 それらは、設置されたそれぞれの場所で期待された効果を生じさせているようですが、 河川全体の水と土砂の流下を考えた時には、ほとんど失敗であると言えます。必要以上に多くの場所に設置したのが間違いでした。

 河川からの石や岩の持ち出しは河川の直接的な破壊行為です。
 上流部では山地の斜面が崩壊して河川にまで及ぶ機会が多くあります。 しかし、それらの土砂崩壊において発生する土砂のほとんどは土や砂や小さな石です。河川に至る石や岩の数はそれほど多くはありません。 石や岩が大きくなれば大きくなるほど河川にまで達する機会は少ないのが普通です。

 上流に多くある石や岩は、数百年或いはそれ以上に長い年月を要してようやくにして堆積させることが出来た自然の財産です。 近年の治水工事は、ここ数十年の間にそれらの貴重な財産を盗み出していたのです。河川が荒廃しない訳がありません。

 ダムは、水の最大流下量を減ずることによって大きな治水効果を得ていますが、同時に上流部からの石や岩の流下を妨げています。 またそれだけでなく、急激な放流とその急激な中止によって、石や岩による自然の秩序を破壊し、その再生をも妨げています。
 ダムの運用が失敗している事は言うまでもありません。

静岡の前浜を取り戻す方法
 前浜を回復する根本的な方法は、安倍川河口左岸の岸に近い海中に堆積する土砂の量を増やす事です。 そのためには前の節で説明したように河川上流の治水方法を改める以外にはありません。
 堰堤の形を変更する或いは高さを減ずる、コンクリート護岸の内側に石や岩を止まらせる工事を行う、 かすみ堤や河川の合流地点の遊水機能を取り戻す等、幾つもの方法が考えられます。
 しかし、新たに工事を始めたとしても、すぐに河川の状況が改善する事は無いのです。 ましてや、失われた多くの石や岩を取り戻すまでには百年以上の月日が必要でしょう。

 ですから、本来の方法だけでなく現実的な方法の採用も考えるべきです。
 安倍川河口を横断する砂州の成長を途中で止めるために、河口の半分まで延びたその先端を重機によって破壊する方法が考えられます。 河口から東南に排出される水の流れ出しの幅を広げることにより、河口を横断する砂州の全体的な破壊を防ぎ、 河口東南に排出される土砂量の増大を図ります。
 この方法によってその効果が確認出来たらそれを恒久的にする方法を採用すべきでしょう。 それには、土砂が河口東側により多く流れるような構造物を河口に設置する方法が考えられます。

 たとえ提案の方法を採用したとしても、三保の海岸にまでその効果が及ぶのには数十年の月日が必要だと考えられます。
 なぜならば、前浜を回復するためにはステップとステップを支える海底が必要であり、そのためには膨大な土砂が必要だからです。 前出の地形図はそのことも明らかにしています。

 私が解明したのは安倍川河口とそれに続く静岡の砂礫浜の問題に過ぎません。
 しかし、同じような考え方をすれば日本各地の砂礫浜や砂浜の問題も解決出来ると考えています。

 海底の浅い場所でのみ波が立ち上がることを考えると、砂浜でも海岸の岸辺近くでより多くの砂が移動していると考えられます。 海岸の岸辺にある構造物の多くが砂や砂礫の移動を妨げています。
 海へ流れ込んでいる、名前を知られていないような小さな河川から排出されている土砂の重要性も認識すべきでしょう。

 そして、各地の浜辺に砂礫や砂をもたらしていた、河川の河口やその付近の状況をもっと熱心に観察するべきでしょう。 過去数百年以上に亘って浜辺を維持して来た仕組みを、それらの河川や河口は、現在でもどこかに保持しているはずだと考えられるのです。
 それを明らかにすることによって初めて、それぞれの浜辺の回復が可能になると考えています。

参考資料
「安倍川からの供給土砂量の増減に応じた静岡清水海岸の地形変化とその再現計算」
―石川仁憲・宇多高明・大橋則和・岩本仁志・三波俊郎・宮原志帆・芹澤真澄―
*****日本地形学連合*****  

HOME河川上流中流の土砂流下と堆積の規則性を考える

安倍川河口から続く静岡の砂礫浜海岸(その2) >安倍川河口から続く静岡の砂礫浜海岸(その3)