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河川上流中流の土砂流下と堆積の規則性を考える


第11章 土石流の跡を考える

(はじめに・この章の概要・
「H川」に残る土石流の跡・「S川」に残る土石流の跡)

2014年9月24日一部変更、
「概要」と「まとめ」を追加・・・・
2012年1月18日掲載・・・・・

はじめに
 河川の上流部や中流部の渓相(景色)がどのようにして出来て来るのか、幾つかの状況について考えてきました。
 そうしているうちに、渓流の形成には土石流や土砂崩れや落石が大きな影響を与えている事にも気が付いてきました。 この章では、それらが渓流にどのような影響を与えているかについて考察します。

 とは言うものの、私はアマチュアの研究者ですから、それらの様々な様相を詳細に観察できる状況にはありません。 釣り人として、アマチュアとして調べることの出来る範囲において観察、考察しているに過ぎません。
 したがって、ここで観察、考察するのは渓流に残された土石流の跡についてに限ります。 土石流の跡を観察して考察すれば、他の土砂崩れや落石についてもある程度考察出来るものと考えています。

 もうひとつ但し書きの必要があります。私が対象とするのは、河川、渓流におけるそれらとその影響についてです。 土石流や土砂崩れや落石そのものについてではありません。 常に水が流れている場所におけるそれとそれらの影響を考えていきます。

 ここでは主に二か所の渓流に残された土石流の跡を中心として観察し考えています。
 土石流の跡は渓流ではそれほど珍しいものではありませんが、そのつもりで渓流を見なければ気が付かない地形でもあります。 ですから、それらが分かるような写真を幾つか紹介しながら考えを進めます。

土石流とは
 先ず土石流について簡単に説明します。
 土石流は、大量の土砂と水とが同時に流下移動する現象で沢や谷間や河川において発生します。 通常の水の流れでは移動しないような大きな岩や石がこれにより移動することも珍しくありません。 多くは降雨時の土砂崩れや急激な増水によって発生します。
 これは、私が考えている定義で、辞書や文献を参照したものではありません。 ですから、辞書や専門書による定義とは異なっているかもしれません。

 その最大の特徴は、特別大きな石や岩をはじめとするほとんどの土砂や立木や流木などが、水と一緒に混じり合って同時に移動することです。 ですから、土石流の後に残された土砂の堆積では、石や岩、土や砂、立ち木や流木など全てが混じり合っています。
 もうひとつの特徴として、移動する土砂の量に比べて流下する水量がそれほど多くないこともあげられます。

 河川が増水すれば大量の土砂が流下移動していきます。しかし、河川の通常の増水によって大量の水が流れたとしても、 土石流の時ほどには土砂を移動させることが出来ません。
 大規模な増水時よりも少ない水量であったとしても、土石流の場合には、大規模な増水時より大量の土砂を移動させます。
 また、土石流の場合には、大きな増水の時でも移動しなかったような大岩さえも移動させてしまいます。 当然のことながら、河川敷きにある木々なども土砂と一緒になって流されて移動していきます。

 河川の水の流れと土砂の移動を考えた場合、土石流はその通常のありさまを外れた特別の現象と言えます。

この章の概要
「H川」に残る土石流の跡
 小規模な渓流「H川」に残された土石流の跡を観察しました。
 「H川」は小規模な流れですがその傾斜は大きく、上流にある崩壊斜面から産出された大量の土砂が水と共に流れ下りました。
 渓流に残された土石流の跡を考察することにより、どのようにして渓流が形成されていくのかを考察しています。

「S川」に残る土石流の跡
   規模の大きな支流「S川」に残された土石流の跡を観察しました。
 前出の「H川」に比べると大きな流れです。上流にダムがあるために平水時の水量は渓流の規模に比して極めて少ないと言えます。
 「H川」に比べると穏やかな傾斜の流れですが、時として水量がとても多くなる「S川」には過去に発生した複数回の土石流の跡が残されていました。

 「S川」に残された土石流の跡には「H川」のそれとは大きく異なった様相がありました。 その様相を詳細に検討することにより、これまでほとんど知られてはいなかったと思われる類型の土石流について考察しています。

「H川」に残る土石流の跡(その1)
 ここに掲載する写真は、15〜20年前に発生した「H川」の土石流の跡を2009年に撮影したものです。
 今から15〜20年前、たまたまこの場所に来た時に見た光景は土石流発生直後の有り様でした。

 この場所に来たのには訳がありました。私は平均的渓流釣り師の1人として、いつでも新しい釣り場を探しています。 雑誌を見たり友人に聞いたりして、良い釣り場、新しい釣り場、釣り人はいないけれど魚が多くいる釣り場がどこかに無いかと常に探しています。
 その方法の一つに地図を見て探す方法があります。普段の釣りへの行き帰りの途中でちょっと寄り道をして、 地図で見当をつけた川を偵察するのです。よく観察して、良さそうなら実際の釣りの計画を立てます。

 15〜20年前この場所に立ち寄ったのもそんな時でした。 今から思うと、それは土石流直後の光景だったと思います。 足元から上流の堰堤まで谷間全体が土砂に埋まっていました。
 土石流は上流に見える堰堤のさらに上流から発生したものと考えられ、上流の堰堤を乗り越えた土砂は間近の堰堤にまで充分に届いていました。 ですから、その間近の堰堤より下流にも土石流はある程度広がっていたと思われました。

 水は全く流れていませんでした。上流の堰堤の所から全ての水が伏流して間近の堰堤の所でようやく僅かに流れ出していたに過ぎません。 所々石や岩が突き出していた堆積土砂は、流れの方向に傾斜してほぼ平らで、表面を土、砂、小石、小さな岩などが覆っていました。
 その時は、土石流のことを後年あれこれ考えることになるとは思いもよりませんでした。思いがけない光景に驚いて、早々に退散しました。

 その時、確かに写真を2枚写したはずなのですが、残念なことに、どこにも見当たりません。 その前より写真を写して釣行記録の替わりにしていましたから、確かに写した記憶があるのですが、見当たりませんでした。
 もちろんフイルム写真の時代のことです。管理が悪かったのです。写真があれば、それがいつだったか分かったはずですし、 現在との違いをもう少し詳しく説明出来たと思います。

 この土石流の後、この上流には砂防堰堤が幾つも建設されました。 ですから、今後は土石流がここまで押し寄せて来る可能性は少なくなることが予想されます。しかし、それが無くなるとは言い切れません。
 この土石流の発生源と思われる崩壊地は、上流に見える砂防堰堤のさらに上流にあります。 それは、規模が大きく、2万5千分の1の地形図にもはっきりと表されています。 そこには草木の生えていない崩壊斜面が広がっていますから、大雨が降ればやはり土石流が発生して下流にまで押し寄せて来る可能性があります。

 ここで、写真を見て頂く前に予めおことわりしておきたい事があります。 出来れば流れの向こう側(右岸)を良く見て頂きたいと思います。 と言うのも、左岸にある林道は土石流の後から建設されたものであり、流れのこちら側(左岸)は人の手が入っている可能性があるのです。
 もうひとつ、河川敷きにある幾つかの鋼鉄製の柱は水位と土砂の量の測定のために河川事務所によって設置されている物だと思います。 無粋な光景ですが、土砂や水の流下に与える影響はほとんど無視しても良い位のものだと思います。

「H川」に残る土石流の跡の写真

左:左岸、林道のゲートの付近からの眺め
右:左の写真より少し上流からの眺め

左: 左岸にある林道のゲートの付近からの眺め
 15〜20年前の土石流直後には、この場所から上流の堰堤を見ることが出来ました。 現在では河川敷に木々が繁茂して、堰堤を直接見ることが出来ません。
 この付近の河川敷きの幅は100メートル位です。この付近から上流の堰堤までの距離はおおよそ700メートル位です。 土石流は約1.5Km上流の崩壊斜面から発生したと思います。
 但し、崩壊斜面は広いので、土石流が実際に発生した発端地点はもっと上流だったと考えられます。 崩壊斜面がある程度狭くなり扇の要になっている場所が約1.5Km位の上流にあると言うことです。
 この川の最上流の流れはこれらの写真を写した所から約5Km位の場所だと思います。 崩壊地はその源流ではなく、途中で流れ込む支流にあります。

右:左の写真より少し上流からの眺め
 左の写真より少し上流からの眺めです。 左の写真と同じですが、土石流の直後に私が見た光景では、 対岸(右岸)に見える砂の斜面の最上段の高さまで、足元からの土砂が一面に広がっていました。

左:上段右の写真より少し上流の河川中央よりの眺め
右:左の写真から左岸の林道に寄った場所からの眺め

左:上段右の写真より少し上流の河川中央よりの眺め

右:左の写真から左岸の林道に寄った場所からの眺め
 左岸のこの付近は、小さな沢と林道の存在により河川敷の様相は一様ではありません。

左:下流から見える屈曲部付近からの眺め
右:左の写真の少し上流からの眺め

左:下流から見える屈曲部付近からの眺め
 ここまで来ると上流の堰堤が見えます。左岸の砂と砂利の斜面は林道建設によるものと思われます。
 また、ここには下流から続いている堆積土砂の丘の内側にそれより小さな堆積土砂の丘が見られます。 これは、上段の堆積土砂が浸食された後に、その内側に発生した土石流の跡だと考えられます。 この土石流は規模が小さかったので、この付近より少し下流にまでしか届かなかったようです。

右:左の写真の少し上流からの眺め
 この付近では下流に比べて大きな石や岩が多いことが良く分かります。大きな石や岩の影響により水の流れも変化しています。  
 この場所には4年程前にも一度寄ったことがあります。09年にはより詳細な観察をするために来ました。 これらの写真はその時に写したものです。

 この場所の写真を撮影したのは、渓流についての文章を書くようになって、土石流についても記述する必要があると考え始めていたからです。
 土石流の跡と考えられる痕跡は各地の渓流でそれを見ることが出来ますが、明確にその跡であることを示す写真が必要だと考えました。 文章だけではその実態を明確に伝えることが困難だと考えたのです。この場所の光景は丁度その条件に当てはまっています。

 そして、観察のもうひとつの目的は、渓流魚が生息出来る環境になったかどうかを確かめることでした。
 残念なことに、「H川」のこの付近に魚が生息して繁殖を繰り返すようになるまでには、さらに5年から10年待たなければならないようです。

堆積した土砂の崩壊と流下
 これらの写真は、15年〜20年前に発生した土石流の現在の姿です。 水の流れている所が深く掘れているのは、土石流が残した大量の土砂を水の流れが少しずつ浸食したからです。
 実に大量の土砂が浸食されて流下して行きました。 でも、流下していったのは小さな土砂が多いのです。

 始めは、堆積した土砂の平坦な表面をささやかな水が流れました。 やがて、水の流れる場所が次第に定まって、流れの底の砂や小石が流されて少しずつ深くなり小さな溝となります。
 砂や小石がさらに流れ、溝は次第に深くなり、溝の縁の砂や小石も落下して水に流されていきます。 溝はやがて深く大きくなり、小さな谷間の様相を見せます。

 小さな砂や小石が雨や風などにより谷底に落下して行きます。 小さな土砂が落下して移動した後で、それらによる支えが無くなった少し大きな石や岩が落下して谷底に集まります。
 やがてより大きな石や岩も同じように谷底に落ちていきます。

 小さな土砂も大きな土砂も落下しますが、谷底では小さな土砂から下流へ流下して行きます。 そして、大きな石や岩ほど流下する機会が少ないので谷底に溜まっていきます。ですから谷間の底に近くなるほど石や岩が多くなってきます。
 水による浸食は小さな土砂から始まり、やがて、より大きな土砂も少しづつ谷間の底や下流に移動して行きます。

 これほど大きな規模では無くても、似たような景色は多くの谷間で見ることが出来ると思います。 ただ、それらの跡は土や砂や石や岩のあり様を注意深く見なければ気が付かないかもしれません。

土砂崩壊と流下の実際
 これらの写真で先ず見て頂きたいのは、土石流により堆積した後に段丘状に残された土砂が大岩から砂まで様々な大きさであり、 それらが不規則に堆積しているありさまです。これらは、土石流の特徴そのものです。

 但し、この「H川」の土砂堆積では砂の量がとても多いので、堆積土砂の斜面に露出した石や岩はその場所で支えられる事が少なく、 直ちに斜面を転がり落ちています。その結果が写真で見られる斜面の様子です。
 砂の斜面から転がり落ちた様々な大きさの石や岩は砂の斜面の下に堆積しています。斜面に残っている石や岩の量はそれほど多くありません。

 大きな石や岩は上流ほどその量が多い事も観察できます。ここでの土石流は上流部の土砂崩壊が原因だと考えられますから、 土石流は上流ほどその勢いがあり、流れ下るにしたがって勢いを弱め大きな石や岩を移動させる力が減少していった可能性が考えられます。

 土石流により堆積した土砂が谷底に向かって崩壊しました。小さな土砂から崩落し流下したので、谷底に石や岩が集まっている様子が観察出来ます。
 大きな土砂は崩落しても流下することは少ないのです。この小さな谷間で水量が増えたとしても、それが通常の増水である限りは、 谷底や岸辺に見られる大きな石や岩を下流に移動させたりすることは困難だと考えられます。
 また、水の流れる小さな谷の横断面がUの字に近い型をしていることにも注目して下さい。

Uの字型の横断面
 堆積した土砂は雨水や流水の影響を受けて、徐々に崩れて谷底に落ち込み、それらの土砂が少しづつ流下して行きます。 流れる水の量は多くなったり少なくなったり、常に変化しています。
 水の量が多い時ほど土砂の流下量は多くなり、水量が少なければ土砂の流下量は少なくなります。 水量は常に変化していますが、平均的な水量である時間が最も長く、特別水量が多い時間は短いのが普通です。
 谷底の中央ほど水量が多い時間が長く、流下する土砂量も多いのです。ですから谷間の横断面は次第にU字型になっていきます。

 ここで、もし、堆積した土砂に砂や砂利が多かったら、土砂による斜面は緩やかのものとなり、横断面は浅いU字型になるでしょう。 逆に、石や岩が多ければその斜面は険しくなり、横断面は深いU字型になり、石や岩に覆われた川岸が形成されます。

土砂の流出によって出来る谷間
 ここの土石流の跡では見る事が出来ませんが、堆積土砂の崩壊面が垂直に切り立っていることもあります。
 垂直の崩壊面がなぜ出来るのか残念なことによく分かりません。多分、堆積土砂の組成や成分に関連している事柄だと考えています。 垂直に切り立った崩壊面の場合では、垂直の崩壊面が崩れ落ちた直下の岸辺に土砂が堆積して、 その場所で前述のような土砂の崩落と流出が始まります。
 ですから、そこでも垂直崩壊面の下にU字型の横断面が形成されます。

 斜面の崩壊による谷底への石や岩の堆積が多くなれば、水の流れは川底や岸辺の石や岩の影響を受けて少しづつ蛇行を始めます。
 それにより、崩壊斜面も流れの影響を受けて変化のあるものとなり、やがて谷間自体が蛇行するようになります。 この土石流の跡でも、流れの蛇行が既に始まっていることは写真からも明らかです。

 土石流の後に残った堆積土砂が崩壊して下流に移動していく作用は、水の流れによって少しづつ進行して行きます。 水量が多ければその速度は速くなります。
 ですから、流れる水量が多いほど、或いは降る雨が多いほどその作用はより早くなると言えます。 しかし、雨量が多すぎれば再び土石流が発生する可能性があります。そうなれば、上記と同じ行程がまた繰り返されることになります。

 また、土石流ほどでなくても規模の大きな増水により土砂がいちどきに移動してしまうこともあります。 この場合も土砂が移動したところから、同じような行程が繰り返されることになります。
 ただし、それらの土砂堆積が土石流によるものでなければ、大きな石や岩が一緒に堆積している事はないでしょう。 また、それらの土砂堆積量も少ないのが普通です。

 土石流が発生しなくても、土砂崩れや支流から大量の土砂が流れ込んだ場合など、これらの写真に似た光景を上流部で見ることがあります。
 それらの場合の堆積土砂は、その土砂量が特別多く無い限り、土石流のように流れの方向に連続的に続く事は少なく、 崩壊した土砂の流入源を要とする扇形または扇形が複合した形に堆積することが多いようです。

 また、土砂は必ずしも谷の中央にまで達するとは限らず、山腹の裾や河川敷きの途中までにしか堆積しないことも多くあります。 その場合では土砂を崩壊浸食するのは雨水や沢の水となります。
 雨水や沢の水に接した土砂の崩壊浸食過程も前述の堆積土砂の場合と全く同じです。

それぞれの場所にある堆積土砂の崩壊
 先に、堆積土砂の崩壊浸食過程は雨や流下する水量によって異なる事を説明しました。 同様に、それぞれの堆積場所における土砂の量や土砂の大きさ構成成分も異なっていますから、 堆積土砂や谷間の様子もそれぞれの場所により異なります。

 堆積した土砂の崩壊浸食過程は、上流部の土石流や土砂崩れや支流からの土砂の流入の場合にだけ見られるものではありません。 大きな増水の後の中流部やその他の場所でも同様の過程を見ることが出来ます。

 土石流の跡と同じく、上流から下流へと連続的にほぼ同じ高さで土砂が堆積しているのは、 増水の後に残された堆積土砂の段丘の場合でも見ることが出来ます。
 また、第10章で説明した中流部の増水の後の土砂堆積の場合でも全く同じです。違うのは、中流部の堆積土砂には大きな石や岩が無く、 また、堆積する土砂も、崩壊する斜面もずっと小さなものとなっていることです。

堆積した土砂の上面
 これらの写真でさらにもう一つ注目して頂きたいのは、土石流の残した段丘状の土砂堆積の上面が流れに対して直角方向にほぼ水平であることです。 このこと自体は土石流の特徴を現す事柄ではありませんが、土石流の発生時或いはその後の状況を表していると言えます。

 この水平面は、土石流が発生して大量の土砂が流下した時に、或いはその後に、谷間一面に広がった水がその上面を流れたことを表しています。 現在流れている水量を考えると、その時の水量がどれほど多かったか、想像出来ない位です。

 渓流や河川に土石流があったとしても、その上面が水平になるとは限りません。 TVニュース等を見て知った限りでは、 土石流の跡の多くは、大岩から砂や土、倒木までもが全く不規則にてんでんばらばらに堆積しているのが普通です。
 堆積した土砂の上面が水平になるのは、水の流れが広がり、土砂の上を水が一様に流れた時に限ります。 この現象は、中流部における増水時のありさまと全く同じと言えます。

 この、ほぼ水平に堆積した土砂の流れ方向に対する傾斜は、谷底の水の流れの傾斜とほぼ一致する事が多いようです。 また、その堆積土砂が出来てから間もないほどその傾向が強いと思います。
 この谷間の場合、堆積した土砂の上面と谷底を流れる水との高低差は約6〜7.5メートルとなっています。 これは、この土石流の跡内での上流部でも下流部でもそれほど違いません。

 表面が水平に堆積した土砂の上面と谷底を流れる水との高低差がほぼ似通っているのは多くの渓流で見ることが出来ます。
 但し、高低差が大きく異なっている渓流を見る場合もあります。これは土砂が堆積した時の状況が特別のものであると考えられます。 つまり、増水時における水と土砂の流れ方に対して、平水時のそれが大きく異なっている場合に見ることが出来るようです。

堆積土砂の上の植物
 堆積した土砂の上面すなわち水平な面で植物が大きく生育していることも見逃せません。 それに対して堆積土砂が崩壊を続けている斜面では植物の生育が遅れています。
 崩壊が続いている斜面にも植物が生育を始めるのは斜面の土砂の崩落が少なくなってからです。 つまり、崩壊面の土砂の移動が少なくなってからです。

 最初に植物が生育するのは堆積した土砂の上面で、その後に崩壊面にも植物が生育し始めます。 崩壊面にも植物が生育するようになると、植物は根を張り、土砂の崩壊をさらに少なくします。
 斜面の土砂の崩壊が減少すれば、流路が安定します。 また、斜面からの流入する土砂が減少すれば、U字型の底では、小さな土砂が少なく、 大きめの石や岩が多くなります。
 これは良い渓相が出来て来る過程でもあります。

 この写真の谷間の場合は全体として植物の生育具合がひどく遅いようです。 15年以上も経過したのに、この程度しか植物が生育していないのは少しおかしいと思います。
 通常の堆積した土砂の場合、堆積して2〜3年で植物が生育し始めます。条件によってはもっと早いことも或いは遅いこともあります。

 この谷の場合、野生の鹿による食害が原因である可能性があります。
 この谷はとても鹿が多いのです。この谷の他の河原や林道脇や山林の下草にも鹿による食害と思われる形跡を多く見ることが出来ます。
 ですから、少し生育して来た植物を鹿がすぐに食べてしまうので生育が遅れているものと考えています。

「H川」に残る土石流の跡(その2)

左:ゲートより下流の間近にある堰堤を見る
右:ゲートより少し下った場所付近から上流を眺める

左:ゲートより下流の間近にある堰堤を見る
 ゲートより少し下った場所から下流の間近にある堰堤を見る。撮影地点より堰堤までの距離はおおよそ100メートルです。 河川敷きの幅もおおよそ100メートル位です。

右:ゲートより少し下った場所付近から上流を眺める

下流にある堰堤の上流
 掲載した写真のうち、上2つの写真は間近の下流にある堰堤のすぐ上流側の写真です。
 この写真2枚を先の6枚と比べて見て下さい。間近の堰堤のすぐ上流側の様子は、それより上流とは随分様子が違います。

 先に記述しましたように、15〜20年前にこの土石流の跡を見た時には、間近の堰堤上にも多くの土砂が堆積していました。 もちろん、ここでも土砂は、足元から対岸の堆積の最上面まで広がっていました。 土石流の末端は間近の堰堤にまで続き、さらにその下流にも及んでいた様子でした。

 現在見られる間近の堰堤の上でもそれを証明するような土砂の堆積が残されています。特に右岸においてそれを明らかに見ることが出来ます。

 しかし現在、この付近では上流部と比べて堆積土砂の量が随分少ないと思います。 長い年月の間に、この付近の土砂も下流に流れていったに違いありませんが、大きな石や岩は容易には移動しないものです。 それは、この場所のさらに上流の様子を見れば明らかな事です。

石や岩の持ち出し
 堰堤のすぐ上流はそのさらに上流と比べて、堆積土砂や河川敷の土砂量がとても少なく見えます。 大きな石や岩も、それより小さな石や岩も少ない印象です。
 山裾に残った堆積土砂のあたりや河川敷の所々に大きな石や岩も見えますが、それ以外の土砂は大変少ない状況です。
 ですから、中央付近ではほとんど平坦な河川敷となっています。川底の横断面も浅いU字型になっています。

 この土石流の跡では、上流ほど大きな石や岩が多いことは先に記述したとおりですが、 この堰堤上の様子はそれらの事情を考慮したとしても奇妙だと言えます。
 この写真に見られる堰堤のすぐ上流付近からは、多くの石や岩が持ち出されていると考えられます。 それだけでは無く、建設機械で河原をかき回した可能性もあります。

 大きな石や岩はその他の土砂の流下を堰き止めているのです。それによって水の流れも土砂の流下も制御されて遅くなります。
 大きな石や岩が無くなれば土砂の流出は速くなり、水の流出も早くなります。これらの写真でそのことが確認できると思います。

 ここでは、大きな石や岩を持ち出したその下流に、上端が水平なダム型堰堤があるために、浅いU字型の横断面を持つ谷間になってしまいました。 今後この場所に、再び土石流などの土砂が押し寄せてこない限り、この場所が深いU字型の横断面に戻ることはありません。
 この現象は、その上端が水平であるダム型堰堤の欠陥と言えます。

 上の2枚の写真は、堰堤の上流から大きな石や岩を持ち出した事により、堆積土砂がより多く流下して河川敷きの土砂が減少し、 谷が平坦になった事を明らかにしています。

左:林道の脇に野積みされている大きな石や岩
右:普通乗用車を隣において見ました

左:林道の脇に野積みされている大きな石や岩

右:大きさが分かるように、私の普通乗用車を隣において見ました

持ち出された大きな岩
 上2枚の写真は、河川敷から持ち出された大きな石や岩が、堰堤のある場所より数百メートル下流の林道脇に野積みされている様子です。
 石や岩と一緒に写っているのは私の車ですが、一応3ナンバーの付いた普通乗用車(SUV)です。石や岩の大きさがこれで分かると思います。

 ここに写っている石や岩のすべてが、この写真で見られる堰堤の上から持ち出されたものではないかもしれませんが、 全ての石や岩がこの河川から持ち出されたものであることは間違いありません。
 なお、4年前に見た石や岩の量はもっと多くて、この付近の林道脇に途切れることなく野積みされていました。

「S川」に残る土石流の跡(その1)
 S川は大きな河川の上流にある大きな支流です。
ここに紹介する場所も、やはり釣りの際に見つけた場所で、本流との合流地点より約1Km上流にあります。
 S川の上流には3つのダムがあり、この場所から約4Km上流にも1つのダムがあります。 そのダムから最上流までおおよそ25Kmありますからそこに流れ込む支流も数多くあり、支流と言う表現だけでは正確さを欠くかもしれません。

 そのように大きな支流でありながら上流にあるダムや取水堰堤のため、この場所に流れる水は少なく、普段の水量は多くありません。
 渇水時には上流のダムまでの間にある小さな沢の水が流れるだけで、ほとんど流れが無くなる場所もあります。
 S川では、山裾と山裾との間の谷間がそのまま河川敷となっている場所が多く、この付近ではその河川敷の幅は約60m〜70m程あります。 河川敷の広さに比べて流れる水量が少なく、その釣り合いが取れていない河川であると言えます。

 この場所を取り上げたのは、土石流による堆積土砂がきれいに残されているからです。 さらに、この上流にも興味深い堆積土砂を見ることも出来ます。
 北西方向から流れてきた水は、この場所で大きくV字型に方向を変えて北東に流れていきます。 注目するのはその屈曲部の内側下流の土砂堆積です。

 ここでは、それらについて写真と共に順次紹介して行きます。これらの写真は2010年の夏と秋に撮影したものです。

左:屈曲部の全景
右:屈曲部出口付近より入口方向を見る

左:屈曲部の全景を右岸にある道から写しました
 写真左から流れてきた水は岩壁にぶつかって写真左上方向に流れていきます。
増水の後で水が白っぽく濁っているので見にくいかも知れません。
 写真中央左にある河原の中の繁みに注意して下さい。他の写真でも位置を確かめる目印になります。

右:屈曲部出口付近より入口方向に向けて屈曲部内側を写しました
 写真左の小さな繁みも確認してください。
 河原の中にある繁みの右側で屈曲部内側の堆積土砂が幾つかの段を形成しているのが良く分かると思います。

 右上の写真で堆積した土砂の層を全部で6段と考えます。 最上段は松林とその下草に覆われています。
 2段目は最上段のすぐ下にあり、石や岩が崩れた跡がはっきりと分かります。
 3段目は最も広い土砂堆積で、小さな草が多く生えています。河原中央の繁みはこの3段目が崩れかけている斜面にあります。

 4段目は3段目の断面が僅かに残るその下の土砂堆積です。 3段目の断面は画面左の繁みの下より下流に向かって水平な帯となって見る事が出来ます。
 この4段目はそのほとんどが水流に洗われた期間があったと思われます。そのため、この土砂堆積は浸食が進んでいます。 この4段目までは土石流による土砂堆積と考えられます。

 5段目は4段目の下で砂と砂利で形成された土砂堆積です。
 6段目は流れに最も近い土砂堆積で砂と砂利で形成されています。 5、6段は通常の増水による土砂堆積と考えられます。

   以下にそれぞれの土砂堆積の詳細を説明します。

左:最上段と2段目の断面の写真です
右:違う場所の最上段と2段目の上面です

左:最上段と2段目の断面を写した写真です
 足元のほぼ平らな面は3段目の表面です。
 最上段は、ほぼ 同じ太さの松林と下草に覆われた平坦な土地になっています。また、下草と松の木の所々に大きな石も見る事が出来ます。
 この堆積丘では、石や岩から砂や土まで様々な大きさの土砂が混じり合っています。ですから、土石流の跡であることがはっきりと分かります。 松の木の根本の太さは約15〜20cm位です。多分20年以上前の土石流の跡だと考えられます。

 最上段の垂直な崖面の下に続く小さな斜面は、雨水によって浸食された最上段から落下した砂や小石や石や岩が堆積したものです。 1段目の垂直な断面の所々に大きな石が落ちずに露出しているのも見えます。
 2段目の断面も1段目とほぼ同様の有り様です。これも土石流の跡です。2段目の表面も浸食されているはずですから、 その元々の高さはこの2段目の断面より少し上部にあったと考えられます。
 最上段の水面からの高さは約7.3〜7.5m。2段目の水面からの高さは約6.7〜6.8mです。

右:少し違う場所の最上段と2段目の上面です
 2段目にも小さな松の木が生えています。2段目は面積 が小さいのでやがて消滅してしまうかもしれません。

左:4段目から下流に向けて中央の繁みを写しました
右:3段目の上流部から中央の繁みを写しました

左:段丘4段目から下流に向けて中央の繁みを写した写真です
 この繁みは5〜6本のブナの幼木とその他の木によって構成されています。
 4段目の上部にも草が少し生えていますが、4段目は浸食が進んでいて、砂や砂利よりも石や岩ばかりなのが良く分かります。
 繁みの左奥に見えるのは上流側から見た1段目と2段目の崖面と3段目の上面です。3段目の上面の水面からの高さは4.6〜4.7mです。 4段目上面と思われる付近の高さは、水面から3.8m位です。これらの高さは、水際に近い崖面での計測値です。

右:段丘3段目の上流部から中央の繁みを写した写真です
 3段目の表面は浸食がそれほど進んでいません。表面に見えるのは小さな石と砂ばかりで、小さな草も多く生えています。 これらの草はこの前年より成長してきたものです。

左:屈曲部内側全景写真の画面左部分を拡大しました
右:繁みの下流から上流の対岸を写しました

左:屈曲部内側全景の写真の画面左部分を拡大
上で掲載した屈曲部内側全景の写真の画面左部分を拡大した写真です。
 これによって、3段目と4段目との違いがはっきりと分かると思います。3段目までは草が生えていますが、4段目のほとんどには生えていません。 3段目と4段目との境付近には小さな流木が並んで残されています。繁みの下から下流に向かってうす茶色に見える線がそれです。
3段目も4段目も砂や土が流れた跡に、石や岩がむき出しで残されています。 これも、様々な大きさの土砂が混じって流れた土石流の跡だと分かります。

 流れによって浸食された4段目の表面には砂や小砂利はほとんど残されていません。 元々は1.2.3段目と同じく土、砂、砂利も多く含んだ土砂の層だったはずですが、小さな土砂は浸食されて流下していきました。 ですから大きな石や岩ばかりが残されています。
 4段目より下の段もここからはっきりと分かると思います。 5段6段には大きな石や岩は全くありません。

右:繁みの下流から上流の対岸を写した写真です
 画面右端の中央にわずかに繁みの端が見えます。
 足元である3段目の上面が緩やかな斜面であるのに対して、4段目は石や岩が露出した急激な斜面になっています。 3段目と4段目の境になるこの付近では増水の跡を示す流木が幾つか見えます。
 左の写真でははっきりしませんでしたが、4段目の上部にも少し草が生えているのも分かります。
 水辺方向を見れば、石や岩だらけの4段目と砂や小砂利の5段目6段目の違いがはっきりと分かります。

左:5段目6段目を写した写真です
右:6段目の砂の層の写真です

左:上の拡大した写真に見える5段目6段目を写した写真です
 5段目は石や岩ばかりの4段目の下の砂の層から小砂利の所までです。
 5段目は通常の増水による土砂堆積です。この時の増水が4段目のほとんどにまで及び、4段目に流木を残していったのだと考えられます。 ですから、その増水が4段目を浸食して、その下に砂と小砂利の層を残していったことになります。
 或いは、4段目の上部にまでその水位が上がった増水の後で、新たに5段目にあたる堆積土砂を残した増水があったかも知れません。
 この増水によって流れたのはほとんど砂と小砂利でした。4段目の土砂の層の表面にあった砂や小砂利を流し去りました。 ですから、この層は上流から流れて来た砂と小砂利によって形成されています。

 6段目は5段目の下の層です。
 6段目を作った時の増水によって流れたのはほとんど砂ばかりでした。 でも、この増水は5段目の途中までの水位がありましたから、5段目の層の下部の表面の砂を浸食して流し去りました。
 6段目の砂の層の上にある小砂利の層は6段目を作った増水による5段目の浸食の跡です。 この増水の及ばなかった5段目の上部の層の中には小砂利が多く含まれているはずです。
 5段目と6段目の砂と小砂利の層には増水から減水に至る水位の変遷を表す模様が見られます。

右:6段目の砂の層は現在の水の流れによる層です
 6段目の砂の層は現在の水の流れによる層です。5段目の層にまで及んだその増水は、砂を移動させることが出来る程度の増水でした。
 この増水の後に水位は徐々に下がり現在の水位にまで減少しました。その間、流れの中の砂は下流に移動し続けていましたから、 流芯に近いほど砂の量は少なくなっています。
 現在の水際に見られるのは大きめの砂や小さな砂利です。 6段目はごく普通の増水でした。水際の跡に流木を見ることはありません。

左:屈曲部全景の左側を拡大した写真の場所を秋に写しました
右:繁みの下流で流木のあった場所を秋になってから写した写真です

左:屈曲部全景の左側を拡大した写真の場所を秋に写しました
 夏に見た時の5段目6段目の土砂堆積は見つかりません。 規模の大きな増水が5段目6段目の砂や小砂利の土砂堆積を浸食して下流に流し去りました。

 5段目があった場所に多く見られる石や岩は、砂や小砂利が下流に移動したことにより、砂や小砂利の下から出て来たものと、 上流や高い位置から移動して来たものとが考えられます。ここに見られる石や岩は比較的大きめなものが多いようです。

 4段目も夏に見た時より浸食されています。やはり砂や小砂利が流れ去りました。比較的小さめな石や岩も流れ去ったようです。

 砂や小砂利が流れ去った後にはこの付近に達する増水がなかったので、 新たに区別出来るような土砂堆積の層が形成されることは無かったと考えられます。

 簡単に言って、夏よりも河川の土砂は浸食されたのです。足元の水辺の土砂も夏に見たものより大きなものがほとんどです。 水量が少なく見えるのは中州状態の場所から写真を写した事によります。

右:繁みの下流で流木のあった場所を秋になってから写した写真です
 左の写真と同じ時に写しました。 草は成長をして花も咲きましたが、その後に枯れてしまいました。

 流木は、夏に見た時の場所とほぼ同じ場所にありますが、その量が増えました。 流木は水平に帯のように並んで、その時の最大水位の跡を示してます。
 これより高い位置には流木が見つかりませんから、通常の増水における最近の最大水位は流木が集合しているこの付近だと判断して良いと思います。

 4段目の浸食は夏に見た時よりもずっと進んでいます。生えていた草の一部も浸食されて流されたようです。 砂や小砂利は夏に見た時よりずっと多く流れ去りました。
 4段目では、夏に見た時にあった場所から下流や下側に移動した石や岩が多くあると考えられます。特に、小さな石や岩ではそれが顕著のようです。

 水辺に近い場所の内側には砂の堆積が少し見られます。夏の時に比べて石や岩ばかりの場所が広がりました。

 夏に見た増水の水位の跡と、秋になってから見た増水の水位の跡は、ほぼ同じ位置にありますから、 その増水の時の最大水位はほとんど同じだったと考えられます。 また、流木の量が増えた事を考えると、最大水位であった期間は後の場合の方が長かったと思われます。

 夏の場合と秋の場合で、ほとんど同じ水位に達する増水がありました。ですから、この場所ではその時に、 ほとんど同じような量の水が流れていたはずです。
 しかし、それぞれの場合で流れていた土砂の量は異なっていたと考えています。

 夏の場合では大量の砂や小砂利が流れていました。ですから、その減水の際に大量の砂や小砂利がこの場所に堆積しました。 それが5段目の土砂堆積です。
 そして、その後の小規模な増水が6段目の土砂堆積を作りました。

 秋の場合では、砂や小砂利が流れていましたがその量は多くはありませんでした。 ですから、砂や小砂利が上流から流れて来ることが少なく、この場所に堆積していたそれらは下流に流されるばかりだったと考えられます。
 これらの事情が、この場所の土砂堆積の様子の変化を生み出したのだと考えています。

 これら幾つかの写真から、この場所の段丘や土砂堆積がどのようにして出来たのかを考えてみたいと思います。

4段の土砂堆積丘
 この場所には土石流の跡を示す段丘が4段も残されています。
この段丘はその上面が水平ですから、「H川」の場合と同じく、土石流の時、或いはその後に上面を水流が流れたことを示しています。
 4段の段丘のそれぞれの土砂堆積は水と土砂が同時に流れていた時に生じたものですから、それらが形成された時には、 水が流れていた全ての場所においてその高さの量の土砂が移動していました。

 通常、増水や土石流の時の水量から平水の状態に戻るまでには、幾日もの日数を要します。 当然、それらの増水や土石流の規模が大きいほどその日数は多くなります。
 その日数の間に水は序々に減少して、水の流れは大体において河川の中央部に収束していきます。

 この過程で、水が流れなくなった場所には、水が流れていた時に移動していた土砂の堆積が残されていきます。
 引き続き流れている水は大量の土砂を流し続けていますが、流れの力がその水位以上の高さに土砂を積み上げることはありません。 ですから、水位が減少するにつれてその場所に堆積する土砂の量が少なくなります。
 この過程により、土石流や土砂崩れの後や大規模な増水の後の川岸の土砂の堆積は、 水位の減少にともなって岸辺から河川中央に向かった斜面になるのが普通です。

 写真に見られるように上面が水平な土砂堆積が岸辺に残されるのは、 土石流や土砂崩れの後や大規模な増水後の増水などの大量の土砂の移動があった時の直後に水量の急激な減少があった場合に限ります。
 これには、実際に水量が減少した場合と、何らかの理由により流れの位置がその場所から移動した場合が考えられます。 前出の写真に見られる4段の土砂堆積はこのような事情で形成されました。

段丘の下の土砂浸食
 段丘状の土砂堆積は土石流や大規模な増水によってもたらされますが、その後にその姿を変容させていきます。
 土石流や大規模な増水は常にある訳ではありません。通常見られるのはごく普通の増水であり、ほとんどはいわゆる平水の状態の水の流れです。

 大量の土砂の移動を伴わない通常の増水や平水時においては、水が流れれば水が流れた場所から土砂を流下させていきますから、 やはり岸辺の土砂は流れに向かった傾斜面を形成します。
 水量が少ない時は低い場所の川岸の土砂を、水量が多ければ高い位置の土砂も流下させます。

 上流でも中流でも、ほとんどの河川の岸辺が流れに向かって傾斜しているのは、これらの過程によって土砂が流下していくからです。
 その場合でも小さな土砂から流下して、大きな石や岩は容易に流下しません。石や岩だけがその場所に残される事が多いのです。 ですから、石や岩の多い上流部には石や岩の多い岸辺が形成されます。

 これらの事情は「H川」の写真で見た状況と全く同じです。
 「H川」の場合と異なるのは、「S川」の方が水量が多く、水流による通常時の土砂流下が「H川」 の場合より多い事です。

 「H川」は小さな河川でしたから水量が増加したとしても普通はそれほどには水位が上昇しないでしょう。 ですから、岸辺の土砂の浸食も雨水によるものか、下部の浸食による自然の土砂落下による場合が多かったことでしょう。
 それに対して「S川」では増水によって水位がかなり高くなった事が明らかです。 その結果が4段目や5段目、6段目に見られる斜面の土砂浸食と川床への土砂堆積です。

 また、「S川」のこの場所では増水により水位が高くなる事がありましたが、それが3段目2段目1段目の高さにまで及ぶ事はありませんでした。
 これら上位3段の段丘を浸食したのは雨水や風に限られていました。

段丘の出来た順序
 「H川」の場合との差異を考えると段丘の数も大きな違いです。
 「H川」ではほとんどの場所で1段の土石流跡でした。場所によっては内側にもう一段の段丘らしき土砂堆積もありましたが、 「S川」のこの場所ほどに明確な状態ではありませんでした。

 「S川」のこの場所にははっきりとした4段の土砂堆積が残っています。
 それぞれの土砂堆積は大きな石や岩から砂や土まで様々な大きさの土砂が全く不規則に混じり合っています。 ですから、4回の土石流があった事を示していると言えます。
 これらの段丘を上から順に内側に向かって1、2、3、4、と名付けましたが、その数字が少ないほどその段丘が古いことになります。 それぞれの段丘は1、2、3、4、の順番で出来たのです。
 これはそれぞれの段丘上の植物の生育状態からも明らかです。

 段丘1が出来た後に、それより高さが低い土石流が発生して段丘2が出来ました。同じように3、4も出来ました。
 仮に、2回目や3回目の土石流の高さが1番目より高かった場合には、1番目の土砂堆積は2番目や3番目に吸収されてしまいますから、 段丘1は解消して2回目や3回目の土石流による新たな高い位置の段丘ができることになります。
 これは、ちょっと奇妙な現象なのだと考えています。通常、土砂の堆積は下から始まり上になるほど新しくなるのが普通ですから、 ここではそれが逆になっています。

 さらに奇妙だと思える事があります。
 上記の説明のままだとすると、この場所の4段の段丘を形成した土石流は4回発生して、 それぞれの回数ごとに土砂の量を少なくしてその高さを減じていることになります。
 土石流がそんなにも規則的に発生するものだろうか。これはおかしいと言わざるを得ません。
 実は、少しずつ土砂の量を減ずることなく4段の段丘を形成する事が可能です。 実際、4回の土石流の規模はそれほど違わなかったのではないかと考えています。

浸食と川床
 4段の段丘が新しくなるほど低くなっているのは川床の高さに関連しています。
 1回目の土石流の後、水の流れている場所の土砂の流下がある程度進んでから、つまり川床がある程度低くなってから、 次の土石流が発生したらどうでしょう。
 それが1回目と同じ規模の土石流だったとしても、1回目の土石流より低い高さの土砂堆積を形成する事になるでしょう。

 土石流や大規模な増水は常に発生しているのではありません。土石流の発生と発生の間には通常の水の流れや通常の増水があったはずです。
 丁度、4段目5段目6段目に見られるような土砂の浸食と流下があったはずです。
 ですから、1回目の土石流が発生した後で月日が経過して、河川の土砂が浸食されて流下した後に2段目の土石流が発生したのです。
 3回目、4回目の土石流の跡も同じように形成されたと考えられます。

 仮に、これらの土石流が続けざまに発生したらどうなるでしょう。つまり、川床が低下しない内に次の土石流が発生した場合です。
 それらの土石流は古い土石流の上に積み重なり土砂堆積の高さは次々に高くなっていきます。そして、この場所に見られるように、 土石流の跡がその内側に幾つかの段を形成することはなくなるでしょう。

 これらのことから、1段目の土砂堆積の丘が形成された時には、川床は随分高い位置にあったと考えられます。
 これらの事情は「H川」の場合も同じでした。つまり「H川」の6〜7mの高さの土砂堆積も、 もしかすると1度の土石流で出来たものではないかもしれません。
 「H川」の土砂堆積の下にはそれ以前の土石流による土砂堆積があった可能性があります。

 「S川」のこの場所には河川の自然な浸食と変化の経過がそのまま地形として残されていると言えます。
 しかし、草が生えている2段目や3段目の土砂堆積丘では草木がより成長して、 やがて、かって土石流が流れた跡だとは思われないような林に変化していくことでしょう。
 この場所に限れば、約20年の間に4回程の土石流が発生しましたが、その間にも大量の土砂が流下し続けたので、 河川の川床は7m近く低下した事になります。

 一見何でもないような当たり前の光景に見えますが、実は、これは深刻な問題が提示されている光景であるとも言えるのです。 それについては改めて考えてみます。

土砂堆積の丘が残された訳
 この屈曲部では4段の土砂堆積の丘が残されていますが、 河川に土石流が発生したからと言ってもそれによる土砂堆積がいつまでも残される訳ではありません。
 下流にある本流との合流点から4Km上流のダムまでの間の半分ほどの距離を確認しましたが、4段全て明確に残されているのはここだけでした。
 1段目2段目の跡と思われる土砂堆積が下流部で1箇所確認出来ましたが、この場所ほどには明確ではありませんでした。

 土石流や大規模な増水の跡を示す土砂堆積も通常の増水や雨水によって次第に浸食されていくのです 。
 それは、5段目6段目を示す増水や夏から秋の間に発生した増水が、4段目の土砂堆積の丘を浸食した様子からも推測できると思います。

 ですから、土砂堆積の丘が長い期間残されるためには、ある程度の条件が必要です。
 ここで見られるような土砂堆積の丘は、それが出来た時点では河川敷の全ての場所にあったはずですが、 その土石流が終了に向かう時点から浸食は始まっていたのです。

土砂堆積の丘が長期間残される条件
 土砂堆積の丘が長い期間残される可能性が大きくなる条件を考えてみました。
 流れの屈曲部の内側。
 流れの岸に大きな岩などの流れを妨げる大きな障害物がある場所の下流。
 谷間や河川敷きが急に狭くなる場所の上流。
 同じような幅で流れる河川敷の一部に少し広くなる場所があった場合。
 通常の水の流れが河川敷の片側に片寄り易い場所。例えば、直線的に流れる河川の片側に長い距離の岸壁がある場合など。

 これらの条件の場合に土砂堆積の丘が長い期間残され易いようです。
 特に、流れの屈曲部の内側には土砂堆積の丘が残されている例を多く見る事が出来ます。
 いずれの場合でも、土石流が発生した時の水の流れと、 その後の増水や平水時に流れる水の方向や場所が異なっている事により土砂堆積の丘が残され易いと考えられます。

 写真で示したこの場所は、流れのとても大きな屈曲部にあたり、4段もの土砂堆積の丘が残されました。 以下で紹介する土砂堆積の丘の場合でもそれが残されたのは、ここに挙げた理由のいずれかによるものと考えています。

「S川」に残る土石流の跡(その2)

 次に見て頂くのは、先の写真より少し上流の光景です。

左:屈曲部より少し上流、右岸から見た対岸の土砂堆積の光景です
右:左の写真を写した場所から下流方向を写しました

左:屈曲部より少し上流、右岸から見た対岸の土砂堆積の光景です
 先の屈曲部より少し上流右岸から見た対岸の土砂堆積の光景です。この段丘は長さが約100m、その高さは約3.4〜3.5mあります。

右:左の写真を写した場所から下流方向を写しました
 左の写真を写した場所から下流方向を写しました。写真右奥に見えるのが、先の写真で見た屈曲部外側の岸壁です。

左:長く続く土砂堆積丘の崖面とその下の斜面
右:長く続く土砂堆積の上面

左:長く続く土砂堆積丘の崖面とその下の斜面です
 垂直の断面の下に垂直の崖面から落ちた石や岩が堆積しています。 下流で見た土砂堆積の3段目と4段目にあたる土砂堆積だと考えています。
 下流の場合と同じく、4段目の上部と考えられる付近には砂や土はほとんど残っていません。

右:長く続く土砂堆積の上面です
 長く続く土砂堆積の上面です。ここでは砂は多く見る事が出来ません。小砂利や石や岩がほとんどです。
 下流の3段目と同じ程度に植物が成長しています。それらは、下流の3段目と同じく前年から本年にかけて成長したものです。 この付近の段丘の幅は20〜23m位です。

左:長い土砂堆積の丘の上流端とその対岸の土砂堆積
右:左岸長い土砂堆積の上流端から、右岸の土砂堆積を見る

左:長い土砂堆積丘の上流端とその対岸の土砂堆積を右岸より見る
 左岸にある長い土砂堆積の丘の上流端は、水の流れの屈曲部に接し、その高さは低くなっています。 左岸の長い土砂堆積の土砂と、対岸に堆積した土砂の違いに注目して下さい。

右:左岸長い土砂堆積の上流端から、対岸の土砂堆積を見る
 左岸長い土砂堆積の上流端から、右岸の土砂堆積を見る。 右岸の土砂堆積の上部中央で砂に埋もれて横たわっているのは大きな流木です。

左:右岸にある砂ばかりの土砂堆積丘の正面
右:砂ばかりの土砂堆積丘の上流

左:右岸にある砂ばかりの土砂堆積丘の正面
 この土砂堆積もやはり土石流によるものと考えられます。 最上段は下流の屈曲部で見た3段目にあたり、その下が4段目にあたる土石流の跡と、その後の増水の跡と考えられます。
 大きな流木の下に、3段目から崩れ落ちた石や岩から成る斜面が見えます。 3段目にあたる最上段は水面から約5.6〜5.7mあります。4段目にあたる砂の層は水面から約2.9〜3.0mです。

 ここでの土砂堆積はその多くが砂ですから、堆積した土砂中から石や岩が斜面に顔を出すと、 それを支え切れなくなった砂がすぐに崩れて石や岩を産出するのだと思います。 これは、直ぐ下流や屈曲部の段丘の場合とは異なった有り様だと言えます。丁度「H川」の段丘での有り様と似ています。

 石や岩ばかりの層の下にある砂の層が4段目にあたります。4段目は砂の層が切り立った斜面になっている所までだと思います。 4段目は、ここでもそのほとんどが水の流れに曝されと考えられます。この層の上面には流れの跡と思われる水平な砂の模様が見られます。

 4段目の砂の層を切り立たせているのは5段目にあたる増水の跡だと考えられます。 切り立った砂の層の下部に少しばかり立ち上がっている小砂利の層までが5段目の増水の跡です。

 6段目にあたる増水の跡は、5段目の砂と砂利の表面の左側に見えるごく僅かな段差がそれだと思います。 下流の屈曲部で見た状況と同じように、6段目の増水の最大水位は5段目の土砂堆積を浸食しました。 この時の増水とそれに引き続く減水が現在の水位に連続しています。

 なお、この2枚の写真の前段の右側写真に見られる段丘下流部の水に面して堆積した石や岩は、 4段目から露出したり 、流れたりした石や岩がその場に堆積したものだと考えられます。

右:砂ばかりの土砂堆積丘の上流
 左の写真を写した場所のやや上流部から上流を写しました。
右岸は 石や岩による河原になっています。左岸の岸辺の岩の上には一部が崩れた急な斜面があります。

左:砂ばかりの土砂堆積丘の最上段とその側面
右:砂ばかりの土砂堆積丘に埋まっている巨大な流木

左:砂ばかりの土砂堆積丘の最上段とその側面
 最上段の斜面を上流側から写しました。最上段はほぼ平らで草が生えています。この写真は10年秋のものです。 上段にある白い物は、目印に持参したダンボール箱で、タテ24×ヨコ18×フカサ6cmの大きさです。 見えているのはその側面で高さが24cm、幅は6cmです。茶色いのは、開いているそのフタです。

右:砂ばかりの土砂堆積丘の最上段に埋まっている巨大な流木です
 大きな流木の周囲にはそれより小さな流木もあります。いずれも砂の中から出てきたばかりに見えます。 巨大な流木の下には砂から出てきた石や岩も見えます。この写真も10年秋のものです。

 この「S川」での最大の問題点は、この砂が極めて多い土砂堆積丘でした。
 この土砂堆積は何故こんなにも砂が多いのか。本当に土石流による土砂堆積なのだろうか。それが問題でした。
 土石流による土砂堆積の丘を、前述の屈曲部以外でも何ヶ所かで観察しました。 しかし、こんなにも砂が多い土砂堆積は見つける事は出来ませんでした。

 この場所ではその土砂の構成に砂が多いものの、その他の状況は土石流によって形成された特徴を間違いなく示しています。
 その層に流木が多く含まれている事。その層に大きな石や岩が含まれている事。 土砂堆積丘への浸食の状況が下流の屈曲部のそれとほぼ同じだと思われる事。それらの有り様は明らかに土石流の跡であることを示しています。
 しかし、「S川」のその他の場所の土石流の跡とはあまりにも様子が異なっています。なぜ、この場所にだけ、砂がとても多い土砂堆積丘が存在するのか。 それが問題でした。

 この奇妙な土砂堆積丘を見つけてから、3年目の2010年の秋に、この問題はようやく解決しました。
 その時、砂の多い土砂堆積丘の上に立って上流を眺めて、上流左岸の様子が前年までとは異なっている事に気が付きました。 その時写したのが下の2枚の写真です。

左:砂ばかりの土砂堆積丘より上流左岸にある土砂崩れの跡を写しました
右:左の写真の土砂崩れを正面より写しました

左:砂ばかりの土砂堆積丘より、上流左岸にある土砂崩れの跡を写しました
 この写真は10年秋のものです。 砂ばかりの土砂堆積丘の最上段より、上流左岸にある土砂崩れの跡を写しました。
 2009年の春までは、土砂が流れた3筋の跡の範囲全てで土砂がむき出しの崩壊面となっていました。 植物は、生えかけた僅かな草と小さな木しか見えませんでした。ですから、ここに見える植物のほとんどは 、2009年から2010年に掛けて成長したものです。

 2009年から2010年に掛けて成長したのはこの崖面の植物ばかりではありません。 先に見た、屈曲部の土砂堆積の3段目や長い土砂堆積の上段でもこの間に植物が急速に成長しました。
 さらにはこの「S川」ばかりか、この地方の多くの河川敷や小さな崩壊斜面でもこの期間に植物が急速に成長しました。

右:上流左岸にある土砂崩れを正面より写しました
 上流左岸にある土砂崩れを正面より写しました。前年より急速に植物に覆われた崩壊斜面の跡です。
 ここで注目して頂きたいのは、崩壊面の最下部、水に面した部分です。崩壊面が直接流れに接していますが、 そこにあるのは土や砂では無く石や岩ばかりです。

 流れに面した急斜面の水辺では、多くの場合で、このように大きな石や岩が積み重ねられます。
 崩壊して斜面から落ちた土砂は、そのほとんどが斜面の最終地点である岸辺に留まります。岸辺より先には強い傾斜は無いのです。 岸辺に留まった土砂の中の小さな石や岩は水流によって下流に流されるので、比較的大きな石や岩が岸辺に取り残されます。
 よく見ると、水面に近い石や岩は水流に磨かれていますが、その上にある石や岩にはコケなどが成長しています。

砂ばかりの土砂堆積丘
 2010年の秋に砂ばかりの土砂堆積丘の上に立って、気が付いた事は以下の事でした。
 2009年までは土砂崩壊面だった斜面が急速に植物に覆われていました。 よく見ると、その斜面の下から私の立つ砂の丘までの流れの岸辺にも水底にも大量の砂が堆積していました。 それら大量の砂は崩壊した斜面から「S川」へ崩れ落ちたのに違いありません。

 このことから、砂ばかりの土砂堆積丘を形成した土石流が発生した時にも、崩壊斜面より下流の河川敷とその川底には石や岩の他に、 それ以上に大量の砂が存在していたと推測出来ます。
 その時発生した土石流は、その河川敷と川底にある大量の砂を巻き上げ下流へ移動させ、土砂堆積の丘として堆積させていたのです。
 それが、現在も残されている砂ばかりの土砂堆積丘だと考えられます。

 そう考えると、砂ばかりの土砂堆積丘の中にひときわ巨大な流木が存在しているのも容易に説明出来ます。
 崩壊した斜面から倒れた木が砂と一緒に河川敷あるいは川底に横たわっていたのに違いありません。 砂と一緒に巨木も土石流に巻き込まれて移動してこの場所に堆積したのです。

これは、これまで私が知っていた土石流とは異なります。
 「H川」で見た土石流では上流に大量の土砂が発生して、それが大量の水と共に流れ下りました。 例えば、大量の土砂をブルトーザーで下流に押し出したような土石流です。
 それに対して、この場の土石流は、 例えば、トラクターや耕運機のロータがその場の土を掘り起こして少し下流に移動させているようなものだと考えられます。

 この土石流の場合では、土石流が発生を始めた場所やそれが流れ下る場所にも、特別に大量の土砂は必要ないと考えられます。 いちどきに流れ出した大量の水が、川底の土砂を堀起こしながら下流に移動していくのです。
 上流からの土砂の流入が無くても、いちどきに流れる大量の水があれば土石流が発生すると考えられます。 そう考えない限り、砂ばかりの土砂堆積の丘の成因は説明出来ません。

 このような土石流が一般的に知られているかどうか知りません。もしかすると河川の専門家は承知しているかもしれません。
 でも、少なくとも、私には思いがけない発見でした。突拍子も無いような考え方と思われるかも知れません。 でも、ほかに合理的な説明のしようは無いのです。
 一般的に「鉄砲水」と呼ばれる現象が知られています。この土石流はそれによるものと考えられます。

鉄砲水による土石流
 この土石流では、急激な増水の先端部が海岸に押し寄せる波のように立ち上がり、 河川敷の全ての土砂を巻き上げながら流れていくのだと想像されます。
 波のように立ちあがった先端部は土砂を巻き上げながら次から次へと下流へと移動していきます。 先端部が通過した後ろでは、巻き上げられた大量の土砂が水と共に下流に流れて行き、それほど遠くない場所に堆積していくのでは無いでしょうか。

 この土石流では、必ずしも大量のまとまった土砂は必要ないと考えられます。 河川敷にある程度以上の土砂堆積があればそれが土石流になって下流に下ります。  この土石流の場合では、増水が流れ下る場所場所によりその土石流の土砂の構成成分が異なって来るのだと思います。 砂ばかりの土砂堆積の丘もその結果だと考えられます。

 いつか見たTVのニュース画像では、増水により川底から波のように膨れ上がった水と、それに続く大量の濁った水の流れが写し出されていました。
 どこの河川の映像だったのか全く覚えていませんが 、「S川」に残された土砂堆積の丘も同じような状況で形成されたのだと考えています。

 「鉄砲水」は急激な増水を表す表現だと思います。水の流れが急速に増えてそれと共に土砂も下流に流れる。 私がこれまで考えていた「鉄砲水」はそれでした。
 それは、水量が急速に増えるとは言え、 一般的な増水と同じように水量の増加に応じて土砂の流下量が増えるものだと考えていました。

 「鉄砲水」が土石流を引き起こす場合がある事は、以前より私も知っていました。
 斜面が崩壊して流れを堰き止め、それが一気に崩れて水と共に大量の土砂が下流に流れ下る。 これが私の知っていた「鉄砲水」による土石流の発生です。
 そこでの土石流は「H川」で見た土石流の場合とほとんど同じはずです。上流からブルトーザーで土砂を下流に押し出すような土石流です。

 しかしこの「S川」では、特別に土砂の流入の無い場所であるにも関わらず、「鉄砲水」が土石流を引き起こしていました。 もちろんこの土石流も大きな石や岩や巨大な流木までも移動させていたのです。
 「S川」の砂ばかりの土砂堆積の場合で言えば、崩壊斜面の土砂が土石流を発生させたのではありません。 たまたまその場所に崩壊斜面があり、その河川敷に大量の砂が堆積していたのに過ぎません。
 つまり、土砂の新たな侵入が無い場所に、急激な増水が押し寄せて来て、土石流を生じさせているのです。

 このような土石流の場合でも、増水の水量や河川敷に堆積している土砂の量などの違いにより、 常に土石流が発生するとは限らないことも考えられます。
 しかしそれよりも、全く土石流が想定されないような場所であったとしても、 急激な増水が発生すれば土石流を引き起こす可能性を持っていることをより重要に考える必要があると思います。

 これらの事を考えて、もう一度「S川」に残る土砂堆積の丘を詳細に見ると、鉄砲水による土石流の発生が、 偶然発生した特定の場所に限ったものではない事が分かります。
 つまり、「S川」の土石流は全て同じようにして発生していたと考えられるのです。

左:前出の屈曲部より約150m下流の土砂堆積丘です
右:左の写真の場所を角度を変えて写しました

左:前出の屈曲部より約150m下流の土砂堆積丘です
 2010年秋の写真です。遠くに屈曲部の対岸の岩壁が見えます。流木とその上の砂の堆積土砂に注目して下さい。
 砂の層は上流部の3段目の土砂堆積に連続しています。流木の位置も屈曲部で見た流木の様子と同様です。
 ここでの3段目はその多くが砂になっています。3段目の砂の層の端はその層から出てきた石や岩だと考えられますが、 上流と比べて明らかに小さいのです。
 4段目があったと思われる付近の石や岩も上流と比べてやはり小さい事が明らかです。

右:左の写真の場所を角度を変えて写しました
 同じく2010年秋の写真です。左の写真の場所を角度を変えて写しました。
 少し大きめの石や岩が砂の中から出てきています。
この2枚の写真を写した時には鉄砲水による土石流の事を詳細には把握出来ていませんでした。 ですから、この砂の層をどう考えるのか分かりませんでした。
 前出の屈曲部は淵の頭にあたります。それに対してこの2枚の写真の場所は淵尻です。
 屈曲部にある土砂堆積丘の石と岩が比較的大きく、この場所の石や岩が小さく、なおかつ砂が多いのは、 淵頭の石や岩が大きく淵尻の土砂が小さいと言う当たり前の事を反映しているのに過ぎないと思います。

左:砂ばかりの土砂堆積の丘の上から下流を写しました
右:左岸の長い土砂堆積の丘の上の写真です

左:砂ばかりの土砂堆積の丘の上から下流を写しました
 2010年秋の写真です。砂ばかりの土砂堆積の丘の上から下流を写しました。
 左岸の長い土砂堆積の上流端部では、流れの後に残された石や岩が比較的小さい事が明らかです。 左岸の岸壁近くに砂が多くまた、増水時に水が流れた跡を示すスジも明らかです。

 鉄砲水による土石流が発生した時、上流にある崩壊した崖下付近やその下流の砂や土砂は、 右岸の土砂堆積の下流端で同時に左岸の土砂堆積の上流端である付近まで移動して堆積しました。
 鉄砲水による土石流の場合では、それぞれの場所から流下する土砂はそれほど長い距離を移動しないようです。

 この写真からは、平水である現在の水の流れと、増水時の流れと、土石流の時の流れとが、 それぞれに流れの方向と場所が微妙に異なる事も分かると思います。

左岸の長い土砂堆積の上流端は、5段目や6段目或いは夏から秋の間の増水によって浸食されました。 小さな砂ほどより多く流下して、流下し難い石や岩が残りました。
 その残った石や岩が比較的小さいと言うことは、元々その場所にあった土砂堆積の中に大きな石や岩が少なかったと言うことです。

右:左岸の長い土砂堆積の丘の上の写真です
 同じく2010年秋の写真です。左岸の長い土砂堆積の丘の上の写真です。左の写真の左端付近にあたると思います。
 ちょっと分かりにくいのですが、中央右の岩の上にダンボール箱が見えます。その大きさは、タテ24 ×ヨコ18×フカサ6cmです。
 この付近には大きな石や岩が多いのです。この付近は淵頭のやや下流にあたると思います。

「S川」に残る土石流の跡(その3)

 ここまでに掲載した幾つかの写真によって、 「S川」に残る土砂堆積の丘が「鉄砲水」によって引き起こされた土石流の跡である事は明確になったと思います。 では、その「鉄砲水」はどのようにして発生したのでしょうか。
 結論から先に言うと、「S川」に土石流を引き起こした「鉄砲水」は自然現象ではありません。 この 「鉄砲水」は人工的に発生させられたものなのです。

「S川」の鉄砲水
 全部で4段の土砂堆積の丘が残された「S川」の屈曲部は、本流の合流点より約1Km上流にあります。 その場所に4段の土砂堆積が残っていることは、過去において4回の土石流があった事を示しています。

 この屈曲部以外でも土石流による土砂堆積は何か所かに残っています。
 下流では、3段目或いは4段目と思われる段丘が合流点間近に至るまで何か所か残っています。 1段目或いは2段目と思われる段丘もこの屈曲部と合流点との中間付近に残っています。
 上流はあまり調べていないのですが、この場所より約1Km上流までは土石流による土砂堆積の丘が何ヵ所か残されていました。

 私が調べた場所よりさらに上流にもそれが残っていると考えられますが、 現時点での確実な範囲で言うと「S川」で発生した土石流は約2Km以上の距離に亘って残されているのです。
 ここで注目することは、この「S川」の流れの傾斜は緩やかなものである事です。それは写真からも直ぐに分かります。

 一方、先に見た「H川」では約1.5Km上流で発生した土石流が急な傾斜を流れ下ったのでした。 「H川」では土石流が流れ下った場所の傾斜はひと目で分かるほど大きいものです。
 これらから「H川」に比べて「S川」では余程多くの水が土石流に関わっていたのではないかと思います。

 「S川」で土石流が発生した時の水量は、ある程度推測することが可能です。
「S川」の屈曲部では土石流の跡が4段残されています。 1段目から4段目までのそれぞれの段差は 1〜2は約0.7m、2〜3は約2.1m、3〜4は約0.9m、4段目から現在の水位までは約3.8mです。
 1段目から現在の水位までの高さは約7.5mですから、4回の土石流の高さを単純に平均化すれば 1.87m位になります。 但し、先に説明した土砂堆積の出来方を考えると、この数字はあまり意味がないかも知れません。

 そこで、最も近年に発生した4段目の高さを土石流が発生した時の水位と仮定して考えてみます。
 その高さは約3.8m位です。この数値は4段の平均値より大きな数値です。 また、この数値には土石流の後に浸食された川床の高さも含まれているはずです。 ですから土石流が発生した時の水位は、推測できる範囲で最大では3.8m位あったのではないかと考えられます。
 但しこの数値は、河川敷に残されている土砂堆積の丘からの推測値です。過去にはもっと大きな土石流が発生していた可能性は否定できません。
 また、屈曲部における水位の推測値ですから、ほかの場所では違った数値になるでしょう。 さらに、その数値は大量の土砂を含んだ状態での水位です。水だけの数値ではありません。

 「S川」では、屈曲部で3.8m位までの水位が推定される急激な増水が、つまり土石流が、約20数年の間に4回発生した事になります。

「鉄砲水」の発生
 急激な増水、いわゆる「鉄砲水」は自然状態では限られた条件でのみ発生するのではないでしょうか。
 例えば、局地的な集中豪雨によって急激な増水が発生する。或いは、土砂崩れが水を堰き止め、 それが崩れて急激な増水が発生する。などの場合が考えられます。

 これらの状況は河川の上流部ほど発生し易いのです。河川や沢に接する山の傾斜が急であり、水の流れの傾斜も急である。 水が流れることの出来る谷間が狭い。などの条件では「鉄砲水」が発生し易いと思います。
 逆に、山の斜面の傾斜も流れの傾斜も緩やかで、河川敷も広くなる中流部に近付くほど「鉄砲水」は発生し難くなると考えられます。

 「S川」の場合ではその「鉄砲水」が約20数年の間に4回も、しかもある程度定期的に発生しているのです。
 「S川」の屈曲部周辺の渓相やその地理的条件を考えれば、4回にも及ぶ「鉄砲水」は極めて不自然な出来事だと言えます。 それ以上に、自然の河川ではあり得ない出来事だと言えます。

 「S川」で発生した4回に亘る「鉄砲水」は人工的に引き起こされたものだと考えています。 そうとしか考えられないのです。それに、それを可能にする構造物が存在しているのです。
 それは、屈曲部の上流約4Kmにあるダムによって引き起こされたものだと考えています。 このダムが急激な放流をする事によって「鉄砲水」が発生して、それにより土石流が生じたのです。
 ですから、「S川」の土石流は人の手によって生じた土石流だったと言えます。

ダムの放流による「土石流」の発生
 「S川」の屈曲部において間近の過去に見られた通常の増水の最大の水位はおおよそ3.8mです。 これは流木の位置を最大水位の跡と考えての推測です。

 「土石流」においては流木は土砂と共に流れ、多くは土砂の中に埋もれてしまいます。 それに対して通常の増水では、流木は水に浮いて流れ、減水する時に最大水位の岸辺に多く取り残されます。
 増水の規模が大きいほど過去に残された流木を再び流れに取り戻しますから、 増水の規模が大きいほど新たに岸辺に残される流木の量は多くなります。

 この普通の増水時における「S川」の屈曲部における水位、3.8mはそのほとんど全てが水によるものです。 ですから、上流約4Kmにあるダムは、屈曲部を3.8mの水位にする水量を下流に流す能力があると考えていいと思います。

 これに対して先に説明したように、過去に発生した土石流の高さも最大でほぼ3.8m位だったと考えられます。 しかし、この土石流の高さ3.8mの水位の中には多くの土砂の体積が含まれているはずです。
 ですから、上流約4Kmにあるダムはそれが流下させることの出来る最大の水量を流さなくても土石流を発生させる事ができるのです。
 最近における最大の水位3.8mより低い水位であったとしても、 それが一気に流されればそれは土石流を引き起こす可能性を持っていると考えられます。

土石流を引き起こす最低の水位
 では、土石流を引き起こす最低の水位はどれくらいでしょうか。
 これは、ちょっと見当がつかないのです。それは、この土石流がその時の水量の多寡によって発生が決定されるのではないからです。 水量が少なくても、それが一気に増加したならば土石流が発生する可能性があるのです。

 もちろん水量が少なくて発生した土石流はその規模も小さいことでしょう。規模の小さな土石量では全ての土砂を移動させることもないでしょう。 さらに、その水量があまりにも少なければ土石流が発生しない事も考えられます。
 土石流を引き起こす最低の水位を考える時、より実際的に考えるならば、上流約4Kmにあるダムのゲートがどのくらいの速度で開き、 どのくらいの水量が一気に流れ出すのかを調べた方が早いのではないかと考えています。

 これらの事情を考えると、次のような推測も可能です。
 上流約4Kmにあるダムがそのゲートを開く時、多くの場合で土石流が発生している可能性があります。 しかし、それらの土石流の跡は残っていません。
 これは土石流の跡を観察するだけでは証明することが出来ないのです。あくまでもその可能性を推測するのに過ぎません。

 仮にダムが放流して、その結果、少ない水量による土石流が発生したとしても、その後にその土石流よりも大きな増水が続いたとしたら、 その土石流の跡は失われてしまうでしょう。

 先にみた屈曲部5段目6段目の場合でもそれらの事が言えます。
 実際、秋の前に発生した規模の大きな増水では、その始めに小規模な土石流が生じていた可能性を考えています。 5段目の土砂の流出状況は少し奇異な印象があるのです。 でも、そこに小さな土石流が発生していたとすれば、それも納得がいくのです。
 そしてこの場合でも、その後にそれより大きな増水が続いたから、河川敷には土石流の跡は残らなかったと考えられるのです。

放流によって多くのダムの下流で「土石流」が発生している
 これは現時点では可能性の問題であると言えます。この可能性に、この場で示す証拠はありませんが、状況証拠とでも呼ぶものがあります。 それは「S川」のダムについての話ではなく、その他の多くのダムの下流での話です。

 大規模な増水とか、上流に土砂崩れなどがあった場合に渓流は荒れてしまいます。 でも、普通の増水の場合では、それによって渓流が必ず荒れてしまうわけではありません。
 しかし、ダムの放流の後では、その下流の渓流がひどく荒れてしまうのは、多くの釣り人が経験していることです。

 ダムによる放流の規模は、その後の河川の様子を見ればおおよその見当がつきます。 先に述べた流木の様子や土砂や草木の様子からそれらを知ることが出来ます。 でも、放流の後のダムの下流ではその放流の規模に関わらず荒れてしまうことが多い印象があります。

 降雨の後に、ダム近くの渓流ではそれほど荒れなかったとしても、 放流後のダムの下流ではその時の降雨の規模に関わらずひどく荒れてしまう事が多いのです。
 もちろん、私も全国のダムの下流を調べた訳ではありません。少ない経験とその観察からの印象に過ぎません。 しかし、確かに、ダムの下流の渓流の荒れ方はダムの無い場所に比べて酷くなりがちであると言えます。

 これらの事から、各地のダムの下流では放流によって「土石流」が発生している可能性が考えられるのです。 そのように考えれば、放流による僅かな増水でもダムの下流が荒れてしまう事も充分説明が出来るのです。
 全てのダムの場合がそうであると考えている訳ではありません。 また、その可能性があるダムの場合でも常に「土石流」が発生していると考えているのではありません。
 しかし、ダムによる放流によって多くの「土石流」が発生していると考えない訳にはいきません。

 各地のダムの下流で放流による「土石流」が発生している可能性については、私ひとりの手に負える問題ではありません。 ぜひ、多くの皆さんの協力によってそれを確かめて頂きたいと考えています。
 但し、大規模な土石流の跡は各地に残っている可能性がありますが、小規模なそれは確認が困難です。
 ダムの放流によって発生する土石流は、ダムが放流を始めた時の放水量によってその規模が異なると考えられるからです。

 貯水量が多い時に大きな放流をすれば大きな規模の土石流が発生して、その後に続く放流量が急激に減少していけば、 4段の丘と同じような土砂堆積の丘が残されるでしょう。

 貯水量が少ない時に小規模な放流が始まれば小さな規模の土石流が発生する可能性がありますが、 引き続く放流量の急激な減少がなければ、土砂堆積の丘が形成され残ることはありません。 さらに、その後に続く放水量が多くなれば、土石流の跡も失われてしまうのです。

 土砂堆積の丘が形成されるか否かは、放流が始められた時の放水量とそれに続く放水量の状態によって決まる事になります。 ですから、小規模な土石流の跡が残されている可能性はとても少ないと考えられるのです。

「S川」は荒れている
 「S川」の流れと河川敷の写真を幾つか掲載しました。この写真を見た多くの釣り人が「S川」の荒れ具合を容易に判断したと思います。
 言うまでもなく「S川」は酷く荒れているのです。写真であっても、流れの様子を観察すれば「S川 」の荒れ具合は隠しようもないのです。

 河川上流では、岸辺に石や岩が多ければその前の水中にも石や岩が多いのが普通です。 それに対して「S川」ではそのような景色はわずかしかありません。
 「S川」ではとにもかくにも砂が多すぎます。これも、水量が少ない時にも「土石流」が発生していると考えれば、納得できることです。

 さらに「S川」の場合では、異常と思える川床の低下が見られます。
 4度の規模の大きな土石流と普通の増水だけで、約20年間に約7.5mの川床の低下が生じたとは、考え難いのです。 「S川」では増水があれば多くの場合で土石流が発生していたと、考えればそれも納得出来るのです。

 4段の段丘を作り出した規模の大きな「土石流」に比べれば、水量が少ない時の「土石流」はその威力がずっと少ないでしょう。 特別大きな石や岩を、或いは大きな石や岩を下流に移動させてしまう事はないかも知れません。
 でも、通常の水の流れが作り出していた石や岩による秩序を破壊してしまう事は間違いありません。 「土石流」はその規模の大小に関わらず通常の「増水」とは全く異なる事象なのです。

 ダムの放流による渓流の破壊の問題はずっと以前から気になっていました。でも、その仕組みについては長い間考えが全く及ばない事でした。 しかし、ようやくここで、その原因の可能性が明確になったと思います。
 経験豊富な渓流の釣り人なら、ここに提示した説に納得してくれるのではないかと思っています。

「土石流」と普通の「増水」
 ここまでの文章ではダムの放流によって「土石流」が発生している状況を証拠と共に示し、 さらに、ダムの放流による「土石流」の発生がより広範囲に及んでいる可能性を状況証拠により説明しました。

 ダムの放流によって「土石流」が発生している事には重大な問題が潜んでいます。 それは「土石流」であるか普通の「増水」であるかを区別すると言う単純な問題ではありません。
 ダムの放流によって「土石流」が発生しているのならば、それは河川の治水とその生態系に、 極めて重大な問題引き起こしているのです。「土石流」と「増水」とは全く異なった事象なのです。 いずれも大量の水と大量の土砂を流下させますが、その意味合いは全く異なっているのです。

 先の文章で触れました、この「S川」の状況は「深刻な問題を提示している光景である」と言うのはこのことを指しています。
 人為的に、不必要な土石流が引き起こされ、それによって河川が荒廃して、 多くのダムの本来の目的である「治水」をより困難なものにしているのです。 そればかりか、その下流の生態系にも極めて大きい影響を及ぼしているのです。

この章のまとめ

「H川」に残る土石流の跡(その1)
 「H川」に残された土石流の跡の上流部での様相を考察しました。
 土石流が堆積させた大量の土砂は、水流によって、小さな土砂(土、砂、小砂利、小石)から順に流下して行きます。 流れの中の土砂が流下することにより、水流のある場所は次第に深く浸食されて行きます。 深くなった流れの周囲の斜面からは堆積した土砂が落下するようになります。

 流下する水量が変化する事によって、流れの中の土砂だけでなく、土砂が堆積した斜面の下部からも土砂が流下して行きます。 堆積土砂の中を流れる水流はその谷の幅を次第に広げます。
 水流が水中やその周囲を侵食するので、斜面に堆積した小さな土砂だけでなく、石や岩も崩落して流れの中やその近くに堆積します。 水流は小さな土砂ほど流下させ易く、大きな土砂ほど流下させることが少ないのです。ですから、流れの中や河川敷には 大きな石や岩が多く残されます。

 水流の中心部ではその勢いが強いのが普通で、水流の中央部ほどより多く侵食されます。 水が流れる量は常に変化していて、水量が増えれば流下する土砂の量も増えます。しかし、水量が多くなる機会はそれほど多くはありません。 ですから、流れの横断面はU字型になります。石や岩が多ければU字型は深く、小さな土砂が多ければU字型は浅くなります。

 河川の岸辺に残された堆積土砂の上面から植物が成長を始めます。植物は次第に繁茂するので、崩落して流下して行く土砂の量を減らすようになります。

「H川」に残る土石流の跡(その2)
 「H川」に残された土石流の跡の下流部の様相を考察しました。
 「H川」の土石流による堆積土砂の下流部では、浸食されて露出した大きな石や岩が河川の外に持ち出されています。 それによって、土石流の跡の下流部では大きな石や岩がとても少なくなっています。

 大きな石や岩を持ち出したので、石や岩が有ることによって流下を押し止められていた大量の土砂が流下しました。 堰堤上流側の横断面は浅いU字型になっています。
「H川」から大量の石や岩が持ち出されていることを示す明らかな状況を確認し、 そのありさまを写真に撮影しました。

「S川」に残る土石流の跡(その1)
 「S川」の大きな屈曲部の内側に残された、土石流による4段の土砂堆積がどのようにして形成されたのかを考察しました。

 土石流による土砂堆積の丘がいくつかある場合は、最も高い場所のそれが最も古い時期に形成されたと考えられます。 4段の中で最上部の段丘は20年以上前に形成されたもので、その上面には既に多数の松の木が繁茂しています。
 最下段の4段目は比較的最近に形成されています。4段目の段丘では、それが形成された後の通常の増水によって、 構成していた土砂の中の小さな土砂は浸食されて下流に流されています。

 「S川」の大きな屈曲部では、約20年の間に4回程の大きな土石流が発生し、 その間にも大量の土砂が流下し続けたので、川床は7m近く低下したと考えられます。

「S川」に残る土石流の跡(その2)
 「S川」の屈曲部より上流においても、屈曲部のそれと同じ時に出来たと思われる、土石流による土砂堆積の段丘を確認出来ました。

 その中のある段丘では、段丘を構成する土砂の様相がその他の場所にある段丘と比べて著しく異なっていました。 この段丘には、その他の場所にある土砂堆積と比べて、土砂の中の砂の量が極めて多い特徴がありました。
 土砂の構成内容があまりにも異なるその段丘は、少し上流にある崩壊斜面から産出された大量の砂によって形成されていると考えられました。 この事から「S川」のその場所にある土石堆積は「H川」での場合とは異なった状況で形成されていたと考えられます。

 「H川」では、上流からの土石流によって大量の土砂が流下して来てそれぞれの場所に堆積しました。
 それに対して「S川」のその場所では、大量の水が急激に流下して来た事により、河川敷に堆積していた土砂が土石流となって移動し、 少し下流側に土砂を堆積したと考えられるのです。
 この現象は鉄砲水による土石流であると考えられます 。

 「S川」の前述した屈曲部の土砂堆積丘でも、砂が極めて多い土砂堆積丘と同じような様相を観察出来ました。 それや、その他の様相から「S川」の土石流による土砂堆積は、全て鉄砲水によって形成されたものであると考えられるのです。

「S川」に残る土石流の跡(その3)
 「S川」の流れの傾斜など幾つかの状況を考慮すれば、「S川」で発生した鉄砲水は、上流にあるダムに原因があると考えるほかありません。
 ダムからの急激な放流が、流れだす水流の先端部で膨れ上がり、それぞれの川床にある土砂を一気に撹拌して下流に移動させました。 その現象は「S川」の本流との合流地点にまで続いていたと判断出来ます。

 「S川」のダムが鉄砲水を発生させて、土石流を生じさせている事はほぼ間違いが無いと考えられます。
 「S川」以外の多くのダムの下流においても、放流の後にその河川が酷く荒れてしまう事が知られています。 そのことを考慮すれば「S川」での現象がダムをその起因としているとの考えは、充分に納得の出来る考え方だと言えます。

 土石流と普通の増水とを比較すると、いずれの水流も土砂を下流に流下させることは同じです。 しかし、水中や河川敷にある土砂への影響は全く異なっています。

 水の普通の流下や普通の増水は、少しずつ穏やかに水量を変化させるので、石や岩による自然の秩序を少しずつ形成させています。 石や岩によって形成された自然の秩序がある事によって、河川の上流や中流では降雨による水の流下や土砂の流下を穏やかにしていました

 しかし、土石流は、石や岩によるそれらの自然の秩序を一気に破壊してしまいます。 土石流が発生した後では、普通の増水であったとしても大量の土砂が下流に流されます。 また、石や岩による秩序が再び形成されるのにも長い時間が必要となります。

この章では、以下のホームページを参考にしました
参考資料
「ダムマニア」 http://dammania.net/
 ダムのマニアがその基礎的知識を分かり易く解説しています。その記事にも面白いものが多く、ついつい読みふけってしまいます。

財団法人 日本ダム協会 http://damnet.or.jp/
 日本のダムの全てを把握している公的機関のHP。特に「ダム便覧」は個々のダムの詳細を写真と共に紹介しているので便利で分かり易い。

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