将来の夢〜3〜

 

共通一次はまずまずの成績で切り抜けた。これなら東京教育大学も充分に圏内である。激しい稽古の合間に勉強は辛かったけれど、それでもなんとか凌いでいた。稽古も5本に2本はおじ様から取れるようになってきて、技の習得もかなり進んできた。龍神翔ならもう出せるくらいまできていたのだ。
疲れた体を引きずるようにして総武線から降り、駅から家に向かってのやや長い道のりを歩き始める。毎日くたくたで、夢も見ないぐらいに深く眠って、余計なことなんか何一つ考えなくっていい。今日もそうして眠るはずだった。
「あ、れ?」
駅を出てから10分ほど歩いた頃、道の反対側に見知った人懐っこいかわいい顔が歩いているのが見えた。目を凝らして良く見ると、それはやっぱり紗夜ちゃんだった。誰かと一緒に楽しげに歩いている。声を掛けていいものかどうか、少し伸び上がって相手の顔を見ると、それはやはり楽しそうに笑っている紅葉だった。
呼吸が止まる。心臓が止まる。体中の全部の機能が一瞬止まったような気がした。まるで瞬間的に凍り付いてしまったかのように、その場から動けなくなった。頭の中がホワイトアウトになる。
そっか、そういうことだったんだ。
ようやく我を取り戻した後、呟いた。そういえば、前に、紗夜ちゃんのことをあぶなっかしくて放って置けないといっていた。可愛くて、歌もうまくて、そそっかしいところもあるけどそんなところが女の子らしいし、いい子だと私も思う。
「紗夜ちゃんが好みだったんだぁ。」
はぁっと息をついて、またとぼとぼと自宅へ歩き出す。
そーだよね、何もこんな可愛くないのなんて、選ぶわけないし。
紅葉ってもてるから、彼女がいてもおかしくない。将来、医者になるんだったら、紗夜ちゃん看護婦さんになるから丁度いいかもしれないな。
それに、将来は拳武館の後継者となる私が側にいたら一生紅葉は拳武館から逃れられない。だから、もう会わないって決めたのは自分。紗夜ちゃんがいるなら、紅葉は一人じゃないから。
歩く足はだんだんと速くなり、そのうちに走り出していた。マンションの階段を駆け上がって部屋に入ると、そのままベッドに倒れこむようにして突っ伏した。
つんと済ました顔が好きだった。それから照れくさそうに笑う顔。戦っているときの冷たい表情、優しい笑顔、全部全部好きだった。
泣いちゃったときに抱きしめてくれた広い胸も、意識を取り戻したときにつないでくれた暖かい手も、今思い出しても胸が痛くなるほど幸せで、嬉しい思い出。
でも、全部、私のものじゃない。他の人のもの。
紅葉を拳武館から自由にすると決めたときからそうなることがわかっていたはずだったのに。拳武館の後継者の私がそばにいるとまた引き戻されてしまうから。紅葉の隣には誰か他の人が寄り添うようになるのも理解していたはずなのに。
実際に目の当たりにして、どれだけ自分が紅葉のことが好きかわかった。まるで半身を引き裂かれてしまったように癒える事のない傷はひどい痛みを伴って、流れ出る血液のように気も流失するほど。それほどに好きなのに、自分のものになることはない。他人の隣で笑う紅葉を見つめていくだけの精神力は私にはない。いっそ死んでしまったほうがどんなに楽だろう。
ぼろぼろと毀れる涙は無尽蔵で、体がくたくたに疲れているはずなのに一向に眠りは訪れない。悲しくて、悲しくて、心が壊れてしまいそうなほど苦しくて、それでも嫌いになんかなれない。
私は紅葉が好きだから。そしてあのときに無理難題を聞いてくれた紅葉への恩返し。私にできる精一杯。お母さん思いの紅葉の未来が、少しでも広がるように。そのためだったら、なんでもする。紅葉が、あの大好きな笑顔を浮かべていられるならそれでいい。


「大丈夫かい?」
はっと気付くと翡翠の綺麗な顔が目の前にあった。それは心配そうに歪められて、じっと私の顔を覗き込んでいる。
「あ、ごめん。」
「なんだか、ひどく疲れてるようだね?」
お茶請けに出された羊羹はまだ半分。翡翠のいれてくれたお茶も冷めかけていた。
「うん、勉強が、ね。」
とっさに笑顔を作って言い訳をする。
「そんなにがつがつしなくったって、龍麻の成績なら大丈夫だろう?それに、このあざはなんだい?」
そういって、翡翠が男の人にしては綺麗な長い指先で指したのは、投げ出してあった私の足のスネにある青あざ。キックの練習のために毎日サンドバッグを蹴飛ばしていて、ミスのためにできてしまったものだった。これのおかげでいま正座ができない状態になっている。
「あ、は。えーとぉ、ストレス発散でちょっと暴れたら、できちゃった。」
わざと少しおどけて言ってみる。
「一朝一夕にできたあざじゃないと思うけど?」
それで騙されてはくれずに余計に突っ込まれる。こういうの、京一だったら騙されてくれるのに。
「うん、まぁ、その、稽古でね、できちゃったの。今、足技研究してて。」
そういう私に翡翠はふぅーっと長いため息をひとつつく。
「龍麻は最近一体何をやっているんだい?」
穏やかな笑顔で言うけれど、声には僅かに怒気が含まれている。
「だから、足技の研究。」
嘘は言ってない。すると、翡翠はさらに突っ込んでくる。
「どうして?もう戦う相手もいないのに?」
「もうちょっと強くなりたいなぁって思って。」
「戦うのはあんまり好きじゃなかっただろう?」
「戦うのと、強くなるのは別のことでしょ?」
翡翠は顔に落胆の色をありありと浮かべて、もう一度大きなため息をつく。
「どうしても、僕に言うのは嫌なんだね?」
「だから、稽古だって言ってるじゃない。」
「わかったよ。君が稽古だって言うならそうなんだろう。」
翡翠は酷く悲しい顔を浮かべて私に背を向けた。誰かに言えるならどんなに楽だろう。辛いって泣いてしまえれば、どんなに楽になるだろう。でも、自分が決めたことだから弱音なんか吐いちゃいけない。
「無理だけは、しないでくれ。」
理由を言わない私に、それでも翡翠は気遣ってくれる。
「うん。」
「今日も、稽古なのかい?」
「そうなの、もう少しで完成だから。」
そう言って鞄を持つ。
「…また、おいで。いつでも待ってるから。」
「ありがと。」
暖かい店から出ると、外は雪が降りそうなほど冷え込んでいた。


2月に入った。しんしんと冷え込む道場で、今日も稽古をしている。
「っっしゃぁっ!」
一瞬の隙をついて蹴り技を連続で放つ。ここ1ヶ月の集中鍛錬によって前よりも格段に早い動きができるようになっていた。問題の脚力は一朝一夕につくものではないが、それでも脚力増強のためのトレーニングは欠かさない。
「チッ。」
おじ様はそれをなんとかかわすと体勢を立て直そうと私から離れようとする。さらに追い討ちをかけ、壁際においつめていく。
「龍牙咆哮蹴!!」
体勢を崩したところに迷わず奥義をはなった。逃げようがなく、そのまま、まともに技をうけて壁にぶつかった。
「つつ…。」
おじ様は頭を押さえながらゆらりと立ち上がる。私は構えを崩さず、そのまま反応を待つ。
「ああ、もういいよ。」
言われて初めて構えを解く。
「本当に1ヶ月だったな。」
おじ様は苦笑しながら言った。
「龍牙咆哮蹴、壬生の使う最強の奥義だな。」
こくりと私はうなづいた。
「威力も見違えるほどに強くなった。まぁ、まだといえばまだだが、ここまでやるとは思わなかったよ。」
「ありがとうございます。」
「しかし。」
おじ様は困ったような顔をする。
「技を極めたところで、龍麻には人が殺せるのかい?」
殺人。それを生業としてきた紅葉の代わりをするには、当然、自分の手も汚さなくてはならない。
「平気よ。それぐらいなんともないわ。」
今よりも辛いことなんかない。悲しいことなんか何もない。紅葉のためだったらなんでもする。
「そうか。」
おじ様はふ、と息をつく。
「今のところ仕事はないが、そうだな、そのうちに仕事を回すかもしれないから鍛錬は忘れずに。」
「はい。」
「では、今日はこれまで。」
「ありがとうございました。」
道場を出るおじ様を見送ってから風邪をひかないようにタオルで汗を拭う。今日は冷え込むから早く着替えなくては。ロッカー室に戻るとブラウスに着替え、スカートを穿いてコートを羽織り、着ていた道着を畳んでバッグにしまう。ふと顔を上げると紅葉のロッカーが目に入った。
紅葉、ようやく追いついたよ。名札にそっと触れながら話し掛ける。
「もう、大丈夫だから。紅葉は自由なんだよ?」
あとは私が引き受けるから、紅葉は好きなところに行けるんだよ。
「大好き…。ずっと、ずっと、ね。」
紅葉への気持ちを言葉にのせて呟いた。もう、一生、決して口にすることは適わない言葉。心の中で、ずっとお墓まで持っていく思い。
かたり、と何か音がする。
いけないっ。誰か来たのかも知れない。私は浮かびかけた涙を袖で乱暴に擦ると荷物を持って慌てて外に出て行った。

 

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