将来の夢〜4〜

 

バレンタインデー。私はいつもご馳走になっているお礼に生チョコレートを作って翡翠のところに来た。店の入り口には既に堆くチョコレートやプレゼントの数々が詰まれている。臨時休業の張り紙がしてあるけれど、中からは翡翠の気が感じられる。おそらく今日は一日家に篭るつもりだろう。店の側には何人かの女の子達がたむろしていて、美貌の若き店主が顔を出さないかと待っているようだった。こっちからは入らないほうがよさそうだ。裏口に回ると、鍵はかかってないけど、強力な玄武の結界が施してあるのがわかった。力なきものは入れないように。
「さぁて。」
私はその結界の中に入ることを試みた。玄武の結界はなんなく自らを解き私を中に招き入れ、また元のように外界から中を遮断する。
「翡翠?」
裏口から入っていくと、来訪が分かったようで翡翠がお茶を入れてくれていた。
「いらっしゃい。」
笑顔の店主に私は店のほうをさして言う。
「お店の前、すごいわよ。」
「ああ。あとで片付けておくよ。」
この美貌の店主はプリンス(私は若様だと思うけど)のあだ名のつくイイ男。毎年、この日と誕生日には外に出ることができなくなるらしい。毎度のことにさして驚きもせず淡々という。
「うーん、あんなに貰うんなら、これ、いらないかなぁ?」
翡翠の前にラッピングした箱を出すと嬉しそうに柳眉をあげ、にっこりと極上の笑みを浮かべてその箱を自分のほうに引き寄せる。
「いや、嬉しいよ、ありがとう。」
「いつもご馳走になっているから。」
「あけていいかな?」
「いいけど、期待はしないでね。」
翡翠は細い指先でラッピングを解いて箱をあける。ココアパウダーをまぶしたチョコに相好を崩した。
「龍麻、手作り?」
「一応。」
「それは光栄だね。…でも義理?」
「もちろん。」
即答にがっくりした様子の翡翠に笑いながらお茶を飲む。
「他にも誰かにあげた?」
「うん。京一と、醍醐。」
「妬けるね。」
「でも、手作りは翡翠だけ。」
翡翠の頬が僅かに緩んでピンクに染まる。けれど、すぐに何か気になるようで首をかしげる。
「壬生は?」
ぎくり。心臓がひゅっと縮まる。何も他人のことなど思い出す必要もないだろうに、わざわざ彼はその名前を口にする。
「ずっと会ってないから。」
とりあえず言い訳をすると翡翠はふーんとうなづきながら目を細めて私を見る。それが、何か白状を迫られているようで、私は慌ててフォローを入れる。
「それに、私から貰ってもあんまり嬉しくないだろうしね。」
きっと紗夜ちゃんから貰うだろうから、私のなんてあってもきっと迷惑なだけ。考えてみれば、好きって伝える前にあきらめなきゃいけなくなったし。一度でいいから、あげたかったなぁなんてちらりと思う。
「だ、そうだよ?」
翡翠の言葉にえ?と顔を上げると廊下のほうの障子が開いた。
「くっ、紅葉ッ!?」
少し怒ったような表情の紅葉が立っている。予想外の人物の登場に私はすっかりとうろたえていた。
「ど、どうしてここにっ!?」
会わないと決めていたのに、図らずも会ってしまった。逃げ出したいのに、まるで畳に体が縫いとめられてしまったように動かない。それと同時に、久しぶりに会えて、胸が一気にきゅーっと締め付けられる様に痛くなって涙が出そうになる。
「陣中見舞い。」
怒ったように低い声で一言答える。
「どうして気を隠してたのよっ!」
「君が、僕に会いたくないだろうと思って。…携帯に連絡しても出てくれないし。」
あ、と思い出して顔が真っ赤になる。携帯電話に何回か連絡があったがもう、どうせ会うこともなくなるのだろうから全部無視していた。苦い表情の私に構わずに紅葉は翡翠に向き直る。
「如月さん、料理は冷蔵庫にしまっておきましたから。」
「すまないな。ありがとう。」
翡翠は紅葉のお茶を淹れ直す。
「今日は外に出れないからね。壬生が差し入れをしてくれたんだ。」
紅葉はお茶を受け取ってちらりとテーブルの上のチョコに視線を落とす。やばい。私は瞬間、凍り付いてしまった。
「龍麻、これから時間あるかい?」
低い声で紅葉が尋ねてくる。
「あ、えと…。」
どうやって断ろう?逡巡していると、にっこりと不気味なほどの笑顔でさらに畳み掛ける。
「時間あるよね?」
有無をいわせぬ迫力で言われてうなづくしかなった。
「そう、じゃあ行こうか。…それでは如月さん、僕らはこれで。」
「ああ。」
そう言って紅葉は私の手を取るとそのまま翡翠の家から連れ出した。少し怒ったような表情で、手を振り解けないようにしっかりと私の手首を握ってどんどん歩いていく。引きずられるようにして表通りまで出るとタクシーを拾い、私を押し込んで紅葉の家に向かった。車中、ずっと互いに無言でいる。ちらりと見た紅葉の顔はなんだか酷く怒っているようで、恐かった。二人だけよりも、第三者の、まったくの他人がいるほうが始末に悪い。気まずい沈黙のまま小一時間の後にタクシーが止まったのは紅葉のマンションの前だった。
再び手首を捕まれたまま紅葉の部屋まで連行される。
「入って?」
促されて、恐る恐る靴を脱いで部屋に入る。
「お邪魔します。」
相変わらず片付いている部屋はとても綺麗でフローリングもぴかぴかに磨き上げられている。
「そこに座ってて。」
そういう紅葉はキッチンに入っていく。どうしよう。示されたところに座ってなんとも居心地の悪さを感じていた。やっぱり、怒ってるよね。無視しちゃったわけだし。さっきからずっと怒った顔をしている。
でも、いっそのこと、このまま嫌われたほうがいいのかもしれない。そうすれば、紅葉からも離れていってくれるだろうし。
嫌われる?…そのほうが都合のいいのはわかっている。けれど、そう考えると背筋になんともいえない寒気が走り、怖くて、悲しくて息が止まりそう。やっぱり嫌われるのはいやだ。たとえ、紅葉が誰を好きでも、嫌われるのはいや。
「龍麻。」
縮こまっている私に紅葉は紅茶とケーキを出してくれた。艶やかなチョコのかかったザッハトルテ。私の大好きなケーキ。
意外なものが出てきた私は戸惑ってケーキと紅葉の顔を交互に見た。
「どうぞ。」
にっこりと、あの優しい笑顔で食べるように促される。久々に見た笑顔になぜか分からないけど泣きそうになった。
「あ、うん。」
フォークをとってケーキを少し切り取って口に運ぶ。甘くてほろ苦い、ショコラの味。
「おいしい。」
「良かった。たくさんあるから好きなだけ食べるといいよ。」
紅葉はほっとした顔で嬉しそうに言う。私はもう一口、口に運ぶ。濃厚なショコラの味と香りが口の中でとろりと溶ける。あんまりにおいしくって、あっと言う間に食べてしまう。その間も、ずっと紅葉は私の前に座って私が食べる様子を見つめていた。
「なんで、ケーキ?」
私が聞くと紅葉は笑顔のまま答えた。
「今日は、バレンタインだから。」
どういうことだろう?私がその意味を分からないでいると、紅葉は少し目を伏せて困ったような表情を浮かべた。
「龍麻、僕に隠れて何かしてるよね?」
思わず、うっと詰まりそうになる。むせそうになるのをなんとかこらえて首をぶんぶんと横に思いっきり振った。
「しっ、してないっ。」
「嘘つきだね。全部、館長から聞いた。」
ばれてる。さーっと血の気の引くのと同時に、おじ様に対する怒りも湧いてくる。あれだけ内緒にって言ったのに。
「館長を責めないで。…大事な親友の娘に殺人なんかしてほしくないんだよ。」
「っ…だって…!」
「龍麻が手を汚すことはない。…血まみれの忌まわしい手は僕だけで充分だから。」
紅葉が切ない笑顔をうかべる。今すぐにも泣き出してしまいそうな顔は、あの普段の冷たい表情を浮かべた強気な紅葉とはぜんぜん違っていた。だから喉元まで出かけたおじ様への怒りの言葉が引っ込んでしまう。
「龍麻、僕、東京教育大学を受けるよ。」
ぽつりと言った言葉に私は驚いて思わず立ち上がってしまった。
「なっ、なんでっ!医者になりたいって言ったじゃんっ!」
叫んだ私に、紅葉は悲しそうにうなづいた。
「うん、そうだね。」
「だったらなりなよっ!…おかあさんを治したいんでしょッ!」
その言葉に紅葉はゆっくりと首を左右に振った。
「もう、いいんだ。」
「よくないっ!紅葉だったらっ、きっといいお医者さんになれるっ!」
「医者には確かになりたかった。願書を出すときに本気で考えた。…でも、もっとしたいことがある。」
そう言って紅葉はこちらを見た。迷っているような、怯えてるような、すがりつくような目をしている。
「龍麻の…側に、いたい。」
「なっ…!」
「僕なんかが、龍麻の側にいてはいけないのはわかってる。…わかってるけど…、許される範囲の少しでも近いところにいたい。」
どういうこと?私は混乱をしていた。
「僕は…龍麻が好きだ。」
頭の中、沸騰。好きって、どうして?間抜けな顔をしているに違いない私に紅葉はわざと少し明るい口調で続ける。
「龍麻が携帯で居留守使うほど、僕を嫌っていても、ね。…馬鹿だろう?」
自嘲気味に笑った顔が泣き出しそうだった。
「龍麻が、拳武館を継ぐって聞いたから、拳武館の教師になろうと思った。…そうしたら、龍麻の役に立てるだろう?一生懸命力になれば、嫌われててもいつかは、また僕に手を差し伸べてくれるかもしれないって…。」
そこまで言ってから紅葉は唇をきゅっとかみ締めた。テーブルの上に置かれた手が白くなるほど力が入って握り締められている。
「嘘だよっ。だって、紅葉、紗夜ちゃんと付き合ってるんじゃ…?」
「比良坂さん?」
紅葉はどうしてそんなことを急に言い出すんだと、不審そうな顔をして聞き返す。
「だって、一緒に歩いているの、見たよ?」
すると、紅葉は眉間にしわを寄せて、右手を口元に持っていって、しばらく考えた末に言った。
「もしかして、桜ヶ丘の帰りかな。母さんの薬を取りに行ったから。」
「紅葉、楽しそうに笑ってたよ。」
「最近はなるべく、笑うように心がけているんだ。…怖いって言われるし。もしかしたら、龍麻がそれで避けるようになったのかって思ったし。」
憮然とした表情で紅葉が答える。
「でも、別に恋愛感情があるわけじゃない。」
心外だとでもいいたげな紅葉の表情を見て、私は呆然としていた。あれは誤解?自分でも思い込みの激しさに思わず赤面する。ほんとに、悲しかった。息もできなくなるくらいに辛くって、眠れなかった。気が狂ってしまいそうなほど。
「迷惑だったら、はっきり言って。そうしたら、もう龍麻の視界に入らないようにするから。」
まるで、判決の待つ被告のような顔で紅葉は私の言葉を待っている。不安そうに落ち着かない視線、かみ締められた唇。そんな顔を他ならない自分がさせているのかと思うと辛い。紅葉にそんな表情をさせたいわけではないのに。
「紅葉の馬鹿。」
私の口をついて出た言葉はそれだった。
「うん、わかってる。」
普段の不遜な態度とはぜんぜん違う、妙に素直な子供のように紅葉がうなづいた。
「紅葉が、お医者さんになりたいって言ったから。…拳武館しか選択できないっていうから。だから、紅葉の夢、かなえることができるようにって思ったのに。」
紅葉の目が大きく見開かれる。
「まさか、それじゃ…?」
「紅葉が拳武館から逃れられないなら、私が紅葉の身代わりになることしかできなかったんだもんっ!」
急に目の前が滲んで部屋の中の景色も、前にいる紅葉の顔も全部ぼやけた。
「紅葉が笑っていられるようにって。夢がかなったら、紅葉、きっとたくさん笑えるようになるから。」
ぱたぱたぱたと、こらえていた涙が溢れ出て雫になってこぼれていく。紅葉が隣に座ってハンカチを渡してくれる。
「僕の今の夢は龍麻の側にいることだよ。龍麻が、前みたいに僕に笑いながら話かけてくれることが一番嬉しい。」
至近距離で、あの笑顔で言われると心臓が急に高鳴り始める。
「…そんなの、いくらでもするよ。」
嬉しそうに紅葉の顔がほころぶ。
「紅葉の馬鹿。一生懸命にお稽古したのに。龍牙咆哮蹴もだせるようになったのに。全部無駄になったじゃない。」
「ごめん。」
謝ってるくせに、紅葉があんまりにも嬉しそうに、幸せそうに笑っているから。今まで見た中で一番いい顔だったから、もう苦しかった稽古の事や、辛かったこととか全部がどうでもいいやって気になっていく。
「一生、拳武館でこき使うからね。覚悟してよ。」
「がんばるよ。」
ふんわりと柔らかく笑った紅葉はとってもかっこよかった。紅葉の側がいい。隣にいるだけで、こんなに嬉しい、こんなに安心、こんなに好き。
でも、やっぱり悔しいから、好きっていうのはもう少しあと。
「あーあ。おなかすいちゃった。ケーキ、おかわりっ。」
紅葉は笑いながらキッチンへケーキを取りに行く。ホワイトデーは何か作ろうかな。きっと紅葉の方が上手だけど。好きなもの聞いておかなくちゃ。あと1ヶ月。きっと忙しくなる。私は笑いながら紅葉の後姿を見つめていた。



                                                                                                       END

 

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