嵐山に戻り、渡月橋の脇の船着場に辿り着くと私の姿を認めた船頭さんが来客があることを教えてくれる。
「…お客さん?…誰だろ?こっちに知り合いはないんだけど…。」
船は他のお客さんも乗せて遡る。
今日はことのほか流れが緩やかなようで、川を遡るにも動力が少なくても楽に行けると船頭さんは嬉しそうに私に言う。
旅館の下の船着場には女将自らが私を出迎えてくれて、降りると『お帰りなさいませ』と丁寧にお辞儀をしてから来客を部屋に通してあることを告げてくれる。
「ありがとうございます。すぐに行きます。」
「…御夕食、必要なようでしたら遠慮なく帳場にお電話くださいませ。」
女将の心遣いに感謝しながら急いで部屋に戻ると、そこには見知った顔が座っていた。
「お帰りなさいませ。留守中に勝手にお邪魔して申し訳ありません。」
恭しく頭を下げたのは、一昨日、尋ねていった翡翠の祖父であった。
「お、お祖父様…。」
あまりの驚きに、龍麻は最初声も出ず、出入り口に呆然と立ち竦んでいた。
「さぁ、どうぞ。お疲れでございましょう?」
促されて、気付いて、龍麻は靴を脱いで座敷に進む。
「あ、今日、翡翠は大阪へ出かけてて、取引先と夕食をとってくるので戻りが遅くなるんです。」
龍麻が慌てて思い出したように今日の翡翠のスケジュールを伝えると、祖父はにこやかに微笑んで、僅かに首を振る。
「あやつの顔など一昨日見れば充分です。」
孫に憎まれ口を叩くのは、照れ隠しのせいか。嬉しそうに微笑んでいるのは決して孫を悪く思っていないはず。
龍麻はなんとなく心情を察知して、強張っていた頬に微笑を乗せることができた。
「今日は、黄龍殿、いや、龍麻殿に用事があって参りました。」
龍麻はその言葉に、あっと驚いた顔をして、それから破顔する。
単純に自分を黄龍ではなく、名前で呼んでくれたのが嬉しかったのだ。
「はい、何でしょう?」
龍麻が尋ねると、祖父は自分の左に置いてあった木の箱をずずっと龍麻の前に出す。
その中身が分からない龍麻は小首を傾げて祖父とその箱に視線を往復させた。全く予想のつかない龍麻に、微笑みながらその箱の説明をする。
「これをご所望だと知人から伺いまして。」
そう言って、祖父が箱の蓋を開けると、そこには水色の鮮やかな釉薬のかかった茶碗と、桜色の釉薬のかかった少し小ぶりの茶碗が入っていた。
龍麻は、そっとその茶碗を手にとって、それでようやく祖父がこれを持って来た意味に合点がいったのだ。
「…あの鍋島の尺皿は…お祖父様だったんですか…。」
龍麻の言葉に祖父はこくりとうなづいた。
「さよう。…丁度、龍麻殿が帰られた後に、食材を運んできた知人が教えてくれました。…なんでも、あの尺皿の真贋を見破ったとか。」
興味深そうに尋ねる祖父に龍麻が頷く。
「…偶然なのです。」
恥ずかしそうな龍麻の言葉に祖父は軽く首を振る。
「わしは、全てのものをそっくりに真似たつもりだったが、皿そのものの気を変えることはすっかりと失念しておった。…それを見破られるとは。」
苦笑しながら言う祖父に、龍麻の顔が真っ赤になる。
ある意味、その手を使うのは骨董屋として良いことではない。骨董の知識ではなく、感覚に任せての判断なので、自分が無知であるとの証明にしかならないのだ。
「ああ、別に揶揄するつもりじゃなく…そう、その手があったかと、驚かされたのです。」
老人は穏やかに微笑んで目の前に並んだ二つの茶碗を見る。
「龍麻殿。…少し年寄りの愚痴を聞いてくださらんか?」
龍麻は微笑んだまま頷いて、それから何かいい考えを思いついたようで顔をぱっと明るくしてにこにこと、嬉しそうに提案する。
「よろしければ、夕食、一緒にいかがですか?今日、翡翠がいなくって一人だけで寂しい夕食なんですよ。」
「いや、しかし…。」
「ね?いいでしょう?」
首を少し傾げて、お願いといったように上目遣いで、目をしばたかせると、それは如月家の男には滅法くらくらとくる仕草らしく、祖父もそれ以上の遠慮をせずに、苦笑しながらうなづいて夕食の誘いにのることにした。
「よかった!ちょっと待っててくださいね。」
そういって龍麻はいそいそと電話で女将にお願いをして戻ってくる。
「あ!ごめんなさい、お茶も出さずに失礼ですね。」
そういいながら部屋に備え付けてあるお茶の道具を使って龍麻はお茶を入れ始める。いつもように急須や湯飲みを暖め、その後で冷ましたお湯で、ゆっくりと玉露を入れると翡翠の祖父が驚いたような顔をする。
「これは、これは。…玉露の入れ方をご存知だとは。」
すると龍麻ははにかんだように笑いながらお茶を勧め、恥ずかしそうにそのタネあかしをする。
「実は、翡翠の家に行くといつもこうやって入れてくれるんです。…あんまりにもおいしいから、入れ方覚えちゃって。」
えへへへと笑うと祖父もつられて微笑んで返す。
「さて。ゆっくりこれでお話ができますね?」
龍麻は威儀を正そうとするが、祖父に気楽にしていて構わないと止められ、そのまま話を聞くことにした。
「わしはずうっと、飛水流を継ぐものとしての誇りを忘れず、いつか現れるかもしれない黄龍殿を全力でお助けするように、そう言われて育ち、この年まで参りました。」
緩やかに、穏やかに語り始めた祖父にはっとして龍麻は瞠目する。その助けるべき黄龍は紛れもない自分であると言外に言いたかったのがわかったのだ。
「黄龍殿をお守りするためには、自らの力を鍛え、高めなければと、そうして自らにも、娘にも、当然のことながら孫にも厳しくしてきました。」
祖父は遠い昔を思い出すように、懐かしそうな目をしていた。
「…とりわけ、孫の翡翠は、生まれ落ちてすぐに玄武の力を宿していると知り、また幼くして娘にも死に別れたために、厳しく、厳しく育ててきたのです。」
その結果が、あの出会った頃の、頑ななまでに使命に固執する翡翠だったというわけか。龍麻はその言葉に孤独だった翡翠の幼少時代を思い浮かべた。
以前、聞いたことがある。
周りの友達はみんな一緒に暗くなるまで元気に外で遊んでいるのに、自分だけ毎日、毎日修行に明け暮れていた。それは飛水流の修行だけでなく、骨董屋としての修行もあり、それこそ文字通り、遊ぶ暇などなかったという。
忍びの性質上、己の感情を出すこともなく、また、友達と遊んだ経験が皆無であったことが災いして、気が付けば友人とどのように接触していいか分からなかった、といっていた。自分は同年代の子供達に比べ、よく言えば落ち着いていて、悪く言えば老成していて、とてもじゃないが話があわなかったと、聞いていた。
「玄武の力を持っている、ということは、逆にいえば黄龍殿が降臨されるかもしれない。黄龍殿が降臨されるときは決まって世が乱れている。だから、翡翠を、飛水流の一員として、いや玄武として、何があっても生き抜けるようにしてきたのです。そうしなければ、黄龍殿をお守りする前に翡翠自身さえ危ない、とわしは考えたのです。」
そこまで喋り終えて、一息ついて、祖父はお茶を一口含んで喉を潤し、続ける。
「こう申しては身内びいきになりますが、あれは本当によくできる子だったのです。…私のいいつけを護り、厳しい修行に耐え、中学を卒業する頃には里でも一番の使い手だったし、骨董品店の主として何ら遜色のないほどになっていた。…だから、わしは…。」
そこから先は祖父は俯いて、唇を噛み締めて、言葉をつなげるのを躊躇っていた。
龍麻は何も言わず、ただただ祖父が口を開くのを待っている。
日暮が、遠くで鳴いている。
祖父はやがて苦しげに一言、呻くように言った。
「……わしは…翡翠を捨てた…。」
「違うでしょう?」
穏やかで、優しい声にはっとして祖父が顔を上げると、龍麻は全てを見透かしたように、優しい微笑を浮かべていた。
「…捨てたのではなく。自分が脚を引っ張ることになるのがイヤだったんでしょう?…翡翠の重荷になるのを恐れて、だから、翡翠を置いて東京を出た。そういうことなんでしょう?」
そういう龍麻に、祖父は言葉もでずにただ見つめるだけで。
「…翡翠に厳しくしたのも、翡翠のため。…東京を出たのも翡翠のため。…そうなんでしょう?」
もう一度、尋ねられて祖父は否定することが出来なかった。
「…しかし…。」
「…本当は、今年の正月の変事の時、まっさきに東京に駆けつけたかったでしょう?…だけど、今更どんな顔をして翡翠に会えばいいのかわからない。…さらに、翡翠が拒否するかもしれない。…自分を苛め抜いた意地悪な祖父だと、そう思われて当然のことをした、だから、会いに行きたくても行けなかった。そうなのでしょう?」
にこにこと微笑みながら龍麻が口にした己の心情に、さすがに動揺が隠せなかった。
「なぜ…。」
「この茶碗が教えてくれたんです。」
そう言って龍麻はにっこりと笑う。
「…この茶碗、夫婦茶碗なんですよね。…翡翠に幸せになって欲しいって思って作ったんでしょう?私みたいな勉強不足のものはね、こうやって持って、その気を感じることでしかこのモノの正体がわからないんです。」
そう言って、龍麻はもう一度水色の茶碗を手にとった。
「持ってるとね、思いが流れてくるんです。…翡翠に幸せになって欲しいって。」
龍麻は微笑みながら茶碗を置いた。
「…大丈夫。…翡翠は恨んでなんかいません。」
絶句している祖父にきっぱりと告げる。
「…翡翠は、感謝しているって言っていたでしょう?あれ、本当なんですよ。」
くすくすと、楽しそうに笑う龍麻に、祖父はなぜ翡翠がこの少女に惹かれたのかがようやく分かったような気がした。
玄武ではなく、如月翡翠として。
黄龍の力ではなく、緋勇龍麻の、個人の魅力が如月翡翠を惹きつけて止まない。
そして、男として彼女を護りたいと、言い切った翡翠を今なら理解できる気がした。
「…龍麻殿。」
祖父は少し下がって畳にぴたりと両手をつく。
「…どうぞ、翡翠を、よろしくお願いいたします。」
深深と頭を下げると、龍麻は驚いて立ち上がり、テーブルのこちら側に回って、ついた手と頭を上げさせようと懸命に引っ張り上げようとするが、老人とはいえ男の力。龍麻には全く敵わない。
「本当は、優しくて賢い子です。…忍びゆえ、感情を出すのが苦手で…それでも、龍麻殿のことを好いているのです。…どうぞ、一生お側においてやってください。」
おろおろする龍麻に構わず、祖父は続ける。
「お願いいたします。…こうして頭を下げることがこの老いぼれが、あれの幸せのためにできるたったひとつのこと。」
承諾の返事を貰うまでは頭を上げないといったふうに、祖父は畳に頭を擦りつけるようにして平伏したまま起き上がろうとしない。そんな様子に龍麻はため息をつく。
「…お願いするのはこっちなんです。」
真っ赤になった龍麻が言う。
「…翡翠、高校のときからすごいもてて、王蘭の如月っていったら都内の女子高生の間では有名だったし、今だって、東美の若様ってうちの学校までその名が轟いているんだから。」
ため息混じりの龍麻の声に祖父はきょとんとして顔をわずかにあげた。
「…お願いしたいのはこっちなんです。…いまだに翡翠がどうして私を選んだか分からないし。…この先、ずっと側にいてくださいって、翡翠にお願いしたいの、私のほうなんです。」
「それじゃあ…。」
「翡翠がいやにならない限り、一緒にいます。」
その言葉に祖父はがっちりと龍麻の手を握って嬉しそうにぶんぶんと上下に振り回す。
「ありがとうございます、ありがとうございます。」
そうしてお礼を何度も連呼するのであった。
そのまま、夕食になり、祖父の勧めで龍麻は京都の酒をさんざん飲まされて。
翡翠が取引先との夕食を終えて、戻ってきたときには、座敷で一升瓶を抱えた老人と、同じように一升瓶を抱えた少女の妙なコンビはすやすやと、夢の中にいたのだった。
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