初めての旅行〜11〜


次の日、翡翠は一人で出かけていった。
今日の商談の相手は初めての相手で、少し女癖が悪いと同業者では噂になっている人物である。仕事に関してはかなり信頼が置けるが、その女癖ゆえ、さすがにそんな人間の前に大事な龍麻を連れて行くわけにも行かず、また場所も大阪なので、翡翠はやむなく龍麻を置いて一人で出かけることにしたのだ。
本当は龍麻も大阪まで同道したかったのだが、その取引先と夕食の約束があるのでそうもいかなくなり、仕方なく京都に残ることにした。
「本当にすまない。…こちらで過ごす最後の夜なのに…。」
朝から何度も繰り返された言葉に龍麻は苦笑する。
「平気だよ。子供じゃないんだから。」
「でも…。」
それでも心配そうにしている翡翠に、龍麻は時計を見ながら船の時間だと急かす。
「それに、ここには仕事で来ているんだから。そっちを優先にするのは当たり前でしょう?」
そう言いながら離れの門のところまで翡翠を送り出す。
「遅くならないうちに戻ってくるようにするから。」
「うん、わかった。…気をつけていってらっしゃい。」
新婚夫婦のような会話を交わして、後ろ髪引かれる思いで翡翠はしぶしぶと船着場へ続く道を何度も振り返りながら進んで行く。
やがて、階段を下りて、翡翠の姿が見えなくなると龍麻は部屋に戻り、今度は自分が出かける準備を始めた。
地図、ガイドブック、お財布、ハンカチ、ティッシュ…。
最後に忘れ物がないか確認してから離れを出て、鍵を帳場に預けて船着場への階段を下り始めた。
丁度時刻はチェックアウト刻限直後で、船着場は少し混んでいた。到着した船に、先に待っていたお客が吸い込まれるようにしてぞろぞろと乗り込んでいく。
「いってらっしゃいませ。」
女将に深深と頭を下げて挨拶されて、まだそれに慣れないでいる龍麻がぎくしゃくと会釈してそれに答えると、居並ぶ仲居さんたちにも暖かな微笑が浮かぶ。
船は川を下り、いつものように渡月橋のたもとに着いた。
「さてと。」
小さなリュックを片手に渡月橋に降り立った龍麻が向かった先は広隆寺。
日本で最初に国宝に指定された、あの弥勒菩薩半伽像がある寺である。
龍麻は3年になったら宗教美術のゼミに入ることを考えていた。龍麻の学校には日本における、いや世界的なといってもいいほどの宗教美術の権威の先生がいて、その先生のゼミに入りたいがためにこの大学を選んだといっても過言ではない。
去年起こった一連の事件で、龍麻は戦いのたびに色々な技を習得し、様様な人を仲間として迎え入れ、いろいろな品物を入手してきた。それらは翡翠から大まかな説明は受けていたものの、きちんと理解していたわけではない。だけど、今になって思うのは、自分たちの習得した技や、自分達を助けてくれた物品の由来を正しく知りたいということだった。
本を読んだりすれば分かるものもある、実際に読んで分かったものもある。だけど、これが存外に骨が折れ、特にそれが宗教や何かの思想に基づいたものであればなおさらのこと、難解な言葉や、精神世界に基づくものでそう簡単には理解しがたい。だから勉強してみたい。あの最終決戦の後、常々そう思っていた。
それに骨董品というと通常は壷だの皿だの掛け軸だのといったものがもてはやされるが、龍麻はそれらにはあまり食指が動かない。勿論、それらの勉強をおろそかにするつもりはない。
しかし、龍麻がそう言ったものではなく、所謂、曰く付きのモノに興味がある理由は、なんといっても自分の好きな相手が、あの、如月骨董品店の店主なのだから。
もちろん、壷だの皿だのも取り扱っているし、それが商売の上でもそれなりのウエイトを占めていることも知っている。
が、如月骨董品店の如月骨董品店である所以はそこではなく、去年、龍麻たちを助けてくれた、あの出所不明の物品にある。
店番をするようになってから早4ヶ月。得意先には普通と同じように皿だの掛け軸だのといったものを好む人も多いが、存外に多いのは、ああいった珍品を集める好事家連中だった。しかも如月のところに来る鑑定依頼のほとんどはそういった由来不明の珍品が多く、また、同業者の間では『曰くのありそうな怪しいモノは如月へ』が合言葉になっているらしいことも知った。
そんな合言葉が出るような店の店主に惚れたのだから、普通の陶器とか絵画を勉強していたんじゃ何も役には立たないのだ。
だから、学内でも一番厳しく、また翡翠の通ってる国立美術大学と共通履修ゼミになっている宗教美術に入ろうという気になったのだ。
龍麻の学校では宗教美術のゼミを取るものは変人扱いされることが多い。
何しろ、美術の勉強のほかに哲学や宗教学まで勉強させられてしまうのだから。もっと楽なゼミがあるというのに、そこまでやらされるゼミに自ら入るなどマゾと疑われても仕方がないという暗黙の了解まである。
「別にマゾじゃないんだけどね。」
龍麻は呟きながら級友達の言葉を思い出す。
以前に、龍麻が3年になったら宗教学をやりたいと言ったとき、みんな口をそろえて龍麻を変人扱いしたものだった。
それでも、龍麻は自分のやりたい道を曲げようとは思わない。今、こうして翡翠と同じことがわかるようになっていくのが楽しくて仕方がないのだから。
我ながら現金なものだと笑いながら龍麻はひとりごちてから例の弥勒菩薩様が鎮座している宝物館に入っていく。
夏でも貴重な仏像を保管するために冷房を入れて室温を低くしてあるから、建物の中はひんやりとして心地がよい。
秦氏が作ったと言われる京都でも最古の寺は、聖徳太子とのゆかりが深く、並んでいる像のなかには太子の像もある。
そして、建物の真中には宝冠弥勒と呼ばれる、例の弥勒菩薩像が安置されている。
この木彫りの仏像を拝観したくて、去年の修学旅行のルートを決めるときにここに立ち寄ることを提案したのだが、京一が『けっ、そんな仏像なんて見てられっかよ、抹香臭ぇ!』と却下したのである。
念願かなっての拝観に龍麻は心行くまでゆっくりと眺める。
7世紀前半の作というこの仏像は、1300年余りの長きに渡って存在しつづけたことになる。ただの、木の彫刻にこめられた気の遠くなりそうなほどの時間に龍麻は思いをはせた。
時間をかけてゆっくりと、ゆっくりと見ていると、時間はあっという間に経過している。
宝物館を出る頃にはとうに昼を回っていた。
参ったなぁと独り言をつぶやきながら地図を片手に次はどこへ回ろうか考えてみる。
境内は木があるので蝉の鳴き声が煩く、さんさんと照りつける日差しと熱い相乗効果を生んでいた。
涼しいところへ行きたいな。そう思いながら地図を眺める。かんかん照りの日射に、地図は白く反射して見えにくく、慌てて建物の影に入ると、少しだけ涼しい気がする。
碁盤の目に揃った地図の道を追いながら次の場所を決めると京福電車に乗って目的地へ。しばらくの移動時間の後に到着したのは、あの石庭で有名な竜安寺だった。
本当は仏像めぐりでもしたかったが、この暑いさなか、あまり移動に時間をかけるのは得策ではない。ましてや、昨日の大文字のあと、観光客はまだひいてはおらず市内を走る公共交通機関には人が沢山乗っていた。
だからさほど遠くない、嵐山に帰るのも比較的容易である竜安寺に決めたのだ。
それに、今日は格別に暑く、見た目涼しそうな庭に惹かれてしまったのだ。こんなに暑く思うのはやっぱり、水の気を持つ翡翠が隣にいないせいだろうか。
そんなことを考えながら京福電車の駅から少し歩いて、竜安寺に入る。
あの有名な庭に面する庇に出ると、そこには沢山の人がいる。みな、石の数を数えているようで、あちこちで石を順番に指差し、数を数える声が聞こえてきた。京都でも有数の観光地であるだけに日本人だけでなく、欧米人も興味深そうに英語のガイドブックを片手に不思議な庭を眺めていた。
庇の一番端、人の邪魔にならないようなところに腰をかけて落ち着いて庭を眺める。
座った途端にひんやりとした涼しい風が吹いてきて、なんとも心地よい。このままここで昼寝をしたいくらいの涼しさに、龍麻はそこを動けなくなってしまった。
目の前には白砂を敷き詰めた庭。
それを取り囲む鈍い黄色の壁。
心地よく吹きぬける風。
風が吹く度に揺れる木々の緑。
金色の日の光溢れる空の青。
しばらくその彩りや音や温度を楽しみながら、思いを自由に空に放す。
久しぶりに感じる開放感。
そして気が付くとやっぱり4時を回っていた。
離れがたい気持ではあったが、立ち上がり、有名なつくばいを見てから寺を後にする。これから帰ると丁度いい頃だろう。そう思いながら、駅へと足を運んだ。

 

 

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