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祖父の小屋から貴船まで、またあの険しい山道を降りてきた。
 時間はとうに昼を回っていて、混雑していた料亭も客が引き始める時間帯になっている。
 山道を歩いたので、かなり空腹だった二人は街道沿いの料理屋で遅まきながら昼食をとることにした。
 貴船の夏と言えば川床で、入った料亭も多聞に漏れず川床をしつらえてある。案内された席に座るとひやりと涼しい空気が下を流れる川から上がってきて、歩き通しで火照った体に心地よい。
 「何を食べる?」
 翡翠に尋ねられてメニューを覗くと、京の夏の料理が並んでいる。京の地の物を使った料理はどれも美味しそうで、龍麻はしばらく考えた。
 「…鮎、食べたいなぁ。」
 やっぱり、川魚といったらこれだよね、と龍麻が笑う。
 「鮎ね。…ほかは?」
 「うーん。お野菜がいいんだけど。」
 「ナスはどうだい?」
 「あ、おいしそう。」
 「じゃあそれと。…あとはどうする?」
 「んー。…翡翠にまかせる。」
 「わかった。」
 翡翠が仲居さんを呼んで一通りの料理を注文してくれる。手馴れた様子の翡翠に、さすがに何度も京都に足を運んでいる貫禄を感じて少し頼もしい。
 やがて、注文を終えて、手持ち無沙汰の龍麻はお茶を飲みながら回りの景色を見回していたが、それにも飽きた頃にぽつりとため息混じりに呟く。
 「やっぱり私がいけなかったんだよねぇ。」
 最初、なんのことかすぐに判じかねたが、おそらくそれがさっきの祖父とのやり取りであることを察した翡翠は苦笑する。
 「気にしないでいいよ。…あれでも、龍麻のことは嫌ってない。」
 翡翠は自信たっぷりである。その自信がどこからくるものなのか、全く持って龍麻にはわからない。
 「そうかなぁ?だって、怖い顔をしてたし。」
 「祖父は僕以上に黄龍様大事だからね。龍麻のことを嫌えるわけがない。」
 そう言ってから翡翠は運ばれてきた鮎の塩焼きにかぶりつく。鮎の香気がふわりと喉から鼻に抜けていく。
 たとえ、祖父自身の気持はどうであれ、黄龍の言うことに逆らうことは出来ないのだ。
 しかも、黄龍大事の祖父が、それくらいで龍麻を嫌えるわけがない。おそらくどうしたら龍麻を理解できるかということに心を砕くであろうことは簡単に予想できる。
 「わかってくれなくてもいいさ。…伝えるべきことは伝えたんだ。…これで来た目的も果たせたし。」
 だけど、それは龍麻に対して理解しようと思うだけで、翡翠の考えなどはどうでもいいと思うことも簡単に予想できる。大事な黄龍様を、こともあろうに一女性として扱うなど、きっと祖父には考えられないことなのだろう。
 考えられないことならば、別に無理に理解してもらう必要はない。心の片隅でひっかかりが残るが、それは仕方ないとそう思ってもいた。
 「でも、わかってもらったほうがいいでしょう?」
 龍麻は賀茂なすの田楽をつつきながら言って、翡翠の顔を覗き込む。
 複雑な表情を浮かべたままの翡翠が、何も返さないのはそう思っているからだと解釈して、龍麻はその先を続けた。
 「わかってほしいよね。…だって、翡翠のお祖父様だもの。」
 わかってもらいたくて尋ねてきたが、到底わかってもらえないのだと諦めていた心の中を見透かしたように言われて翡翠は苦笑する。
 「そうだね。…時間はかかるかもしれないけど…。いつかは…わかってもらえたらいいね。」
 翡翠があきらめるのをやめたことに、龍麻は嬉しそうに笑った。
 「ところで。…芙蓉がもって来た手紙って、晴ちゃんからのおじい様の居場所の返答だったの?」
 鱧を梅だれで食べながら1週間ほど前の急な来訪を思い出した龍麻は尋ねてみる。
 「ああ。…おじい様ほどの能力者となると自然と水にも影響を及ぼすからね。そういったものに敏い人物と言えば、彼らだろう?」
 「まぁ、そうかもしれないけど。」
 「…ただし、東日本にいるとは思えなかったから、御門さんを通じて西の頭領にも打診してもらったんだ。東日本にいると御門さんが僕に喋ってしまうかもしれないと祖父は考えるからね。」
 「そういえば、晴ちゃんと翡翠って、昔からの知り合い?」
 「ああ。…御門は十二神将を使役する陰陽師。…僕は玄武の能力者。無関係ではないだろう?」
 なるほどね、と龍麻は短くうなづいた。
 「…結果、西の頭領から京の水の気が強まっていると返事を得たんだが。」
 そこで翡翠は難しい顔をする。
 「どうしたの?」
 急に黙り込んでしまった恋人に、龍麻は首を傾げている。
 「…貸しにしておきますって、言ってたな。」
 翡翠はあのときの芙蓉の言葉を思い出す。
 御門は悪い人物ではないが、考えていることが底知れないときがある。
 村雨や蓬莱寺あたりの貸しだとわかりやすくていいんだが、御門の貸しだと何かとてつもないことをさせられそうで嫌な予感がしないでもない。
 それに、御門は口にこそしていないが、かなり龍麻のことを気に入っていたのだ。
 そうじゃなければ彼が、たとえ秋月さんの命令であろうとも、何の得にもならないのに自ら進んで力を貸すわけがない。
 それどころか、秋月兄弟をかくまっている浜離宮へ、たとえ長年の付き合いの僕だって容易に立ち入らせたくはないのに、なんの下心もなしに龍麻をたまには浜離宮へ寄越すようになど、そんなことを言うはずがないのだ。
 「そういえば、浜離宮にもしばらく顔を出してないな。」
 龍麻が懐かしそうに、ふふっと笑う。
 龍麻は、秋月さんとも仲がいい。僕は御門や村雨とは龍麻の仲間になる以前からの知り合いで、だからこそ知っていたのだが、龍麻は最初に会った時からマサキさんが女の子であることを看破していて、御門や芙蓉、村雨だけではなく本人までも驚かせていた。
 秘密を知っている気安さのせいか、秋月さんは龍麻と親しく話し、ケーキなどを食べながら女の子らしい、他愛もない話をしている。
 そういう時の秋月さんはとても楽しそうで、龍麻といるときだけが女性としての自分を取り戻せる時間なのだろう。御門はそうした秋月さんの息抜きの相手としても龍麻を高くかっている。
 「今度、紅葉にケーキ作ってもらって、遊びにいこっと。」
 無邪気に言う龍麻に翡翠はやれやれとため息をつく。
 本当にわかっていないのだ。自分がどれほどの魅力を持っているかということを。
 それでも、今はこうして自分が一番近くにいることができる。
 とりあえずは彼でいられることの幸運を喜ぶことにしよう。そう思いながら龍麻に鮎ご飯をとりわけてやった。
 
 
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