初めての旅行〜7〜


出町柳から電車に乗って、貴船口でバスに乗り換える。
川沿いの道を登って行くと、まもなく貴船に到着する。
街中よりかなり涼しいのは、ここが山間の土地であるせいか、それとも水を奉る神社がある土地のせいなのだろうか。
夏の暑さを免れてか、ここにも観光客は沢山いる。みな、ぞろぞろと、あの写真でも有名な赤い灯篭の並ぶ階段を上り、貴船神社へと詣でるらしい。
そういった観光客を横目に、翡翠は何かのメモ書きを見ながら先ほどバスで来た道をさらに上流に向かって歩いていく。途中までは観光客相手の料亭があったりしたが、そのうち、それもなくなり、人気の少なくなった道をしばらく歩いて、やがて山の方に分け入るように伸びている舗装されていない道に入ると、今度は山道をどんどん歩いていく。
勾配が急で足元が悪いことこの上ないような、まるで獣道と言っても過言ではないような道をただひたすらに翡翠は歩いていく。
先ほどから口をあまり開かなくなったのは、やはり翡翠にとってこれから会うという人が何か特別な感情を抱かせるせいに違いないと龍麻は考えていた。
そして、それが誰なのか、龍麻はうっすらとではあるが想像もついていたのだ。
山道はさらに険しくなる。
大きな石などが転がっていたり、木の根が出ているような足元が悪いところは、龍麻が転ばないように手を差し伸べてやりながら、尾根の半分、山の中腹辺りまで上った頃だった。
翡翠はぴたりと立ち止まるときょろきょろとあたりを見回した。
「どうしたの?」
「…たぶん、この辺なんだが。」
そう言って、もう一度見回すと遥か遠くの方に小屋が見える。
「あれだな。」
翡翠はそう呟いてその小屋の方に歩いて行った。
小屋の周囲は垣根などは何もなく、ただ無用心に林の中にいきなり小屋がある。
この辺にいるかどうかわからないが、もし熊などいたら間違いなく襲われそうなほど無用心なつくりであるが、注意して見れば、そこにはしっかりとかなり強固な結界が張られていた。
「…結界?」
「ああ。」
それは僅かに感じる水の結界。
飛水流らしい結界を翡翠がなんなく解いて、結界内に足を踏み入れると、突如として地が割れてすごい勢いで水が噴出した。
「龍麻、危ない!」
襲いかかる水を防ぎながら翡翠が龍麻を振り返るが、龍麻は全くと言っていいほど無事で、まるで狙ったかのようにその水は翡翠だけに襲いかかっている。
翡翠は水の動きを止めて地に戻し、やれやれと小さく歎息してから小屋の入り口に立った。
「失礼します。」
そう言って入り口を開けると、今度は中から忍刀を持った白髪の老人が躍り出て、翡翠に切りつけてきた。
「きゃぁっ!」
「…くっ!」
龍麻の悲鳴が上がるが、翡翠はそれを予想していたようでひらりとかわすと、懐から玄武を取り出して応戦する。
驚いた龍麻は翡翠の加勢をしようと思ったが、二人の様子がどうもおかしいことに気づいて加勢をやめて側で見学することにした。
技量は同等、しかし速さでは翡翠が数段勝っているために、そう時間もかからないうちに甲高い金属音とともに老人の刀がはじかれて、勝負がついた。
「…腕をあげたな。」
笑いながらいう老人に翡翠が憮然とした表情で答える。
「…ご無沙汰しております、お祖父様。」
全く、どうして如月家の人々はこう素直じゃないんだろうと、龍麻は苦笑する。
「なぜ、ここがわかった?」
山の中の小屋に住んでいるにしてはこざっぱりとした身なりが、確かに翡翠の祖父に違いない。白髪ではあるけれど、豊かな髪はまるで侍のように後ろでまとめられており、しゃんとした背筋は矍鑠としていて。意志の強そうな、鋭い瞳はまさに翡翠と同じである。
「西の、陰陽師の頭領に伺いました。近年、京の水の気が強くなっていると。」
「なるほど。」
うなづいてから老人は呆然と立っている龍麻の方を見て、恭しく頭を下げる。
「ようこそ、このようなあばら家においでくださった。…粗末なところで恐縮ですが、どうぞ入ってください。」
翡翠のおじい様はそういって中に案内してくれる。
小屋の中は外見から考えると遥かにきれいで、土間から上がるとぴかぴかに磨き上げられた板間がある。さすがに翡翠の祖父だけあってきれいに片付いてごみひとつ落ちていない。
あがると首座を勧められたが龍麻はそれを固辞して、座布団だけは仕方なくいただいて座るとお茶を入れようとしてくれる。
「お祖父様、僕がやりましょう。」
いくら主とは言えども、祖父にさせるのはしのびないと思ったのか、翡翠が立って祖父のかわりにお茶をいれるべく、お勝手になっている小屋の出入り口の土間に行く。
「あ、あの、突然お邪魔してしまって申し訳ありません。…私、緋勇龍麻っていいます。翡翠にはいつもお世話になってます。」
自己紹介もまだだったことに気づいた龍麻が慌てていうと、翡翠の祖父は恐縮したように平伏する。
「儂はそこにいる翡翠が祖父。今はただの隠居の爺でございます。」
そういって一度頭を上げ、そして龍麻の目を見てから再び深々と頭を下げる。
「此度は、無事大役を果たされ、まことにおめでとうございます。」
「あ、いえ…あの…。」
急にいわれて龍麻は戸惑った。
大役、というのは正月の戦いのことをさすのだということはわかったが、それをこんなに大仰にいわれると面食らってしまう。しかし、龍麻の戸惑いも構わず祖父は続ける。
「不肖の孫を戦列に加えてくださり光栄に存じます。玄武の能力者といえども若輩者ゆえ御迷惑をかけたこと、孫に代わって深くお詫び申し上げます。…ひらにご容赦のうえ、どうぞ今後も近侍することをお許しください。」
「え、あの…。」
祖父の挨拶に龍麻はすっかりと面食らって言葉を繋げないでいる。
その様子を翡翠は苦笑しながら見て、お茶を持って板の間に戻ってくると祖父の前と龍麻の前にお茶を出した。
「翡翠は、迷惑なんてかけてません。…それどころか…ずうっと…私のことを守ってくれていました。」
龍麻はふるふると首を振って祖父に答えた。
それは、いつも守っているつもりでも本当に役に立てているかわからない翡翠には嬉しい言葉である。
「当然のことでございます。…こやつは玄武ですからな。主たる黄龍様を守るのは四神の長、玄武として当然の務めでございます。」
「…あの、黄龍じゃないです、私。」
眉根を寄せて悲しそうに言う龍麻に祖父の顔が怪訝な顔になる。
「しかし、あなた様のこの気は間違いなく…。」
「確かに私、陽の黄龍の器でした。…だけど、黄龍なんかじゃない。…私を黄龍にするための龍脈の力は霧散しました。」
「…なんですと?…しかし…。」
言いかける祖父に龍麻はゆっくりと首を振る。
「…そんな大層なものになりたくないんです。…私は普通の女の子として、生きていければ十分なんです。」
にっこりと微笑む龍麻に、理解できないと言った風に今度は祖父が首を振る。
「しかし、あなた様からは間違いなく黄龍の気が。」
「…霧散した龍脈の力の幾許かは私の中に流れ込んだかもしれません。…でも、私、本当に普通の女の子なんですよ?」
にこにこと笑いながら龍麻がもう一度ゆっくりと言うのを、祖父は納得できないでいるようだった。
翡翠はそうした祖父の言葉を無理もないと思いながら見ているだけである。
玄武を仰ぐ一族が、その玄武が護るべき黄龍をいかに大事に思っているか、それは小さい頃からの自分に対する教育で嫌と言うほど分かっている。
「なぜですか?…黄龍ならば万能の力を手にし、この世を統べることができるというのに。」
「万能なんて望んでません。…欠けているからこそ、満つる幸せを感じることができるでしょう?」
その言葉に虚を突かれた祖父の表情が固まった。
「私が望んでいるのは、この世を治めることじゃありません。みんなと一緒に、泣いたり笑ったりしていろんなことを感じて、考えながら生きて行きたいんです。…それに愛してる人と一緒にすごしたい。…それが私の幸せなんです。」
翡翠はなんでもないことのように平然と言ってのける龍麻にこっそり苦笑する。
だから龍麻には誰も叶わないのだ。
誰もが知っていそうで、でも頭の中から忘れてしまってることを、龍麻は何気ない言葉や行動で掘り起こしてくれる。
龍麻の言葉はきっと祖父にとってカルチャーショックになるだろう。
祖父は飛水流としての矜持をそう簡単には捨てられない。それは祖父の一生とも言えるべきものだから、僕のようにたかが十数年程度のものとはわけが違う。
だけど、僕は少しでもわかってほしかった。
だから祖父に会わなければならないと思った。
東京を守る意味を、僕が掴んだ僕の幸せを知ってほしくて。飛水流の矜持よりも、もっと強い、守りたいと思う力の原点を。
だから龍麻を連れてきた。
あのときと同じ、そう、僕の父が帰って来たときの僕と同じように、龍麻が僕以上に頑なな祖父に何かをもたらすことを期待して。
「…お祖父様。僕は龍麻を黄龍として扱っておりません。…ぼくは、龍麻を普通の女の子のつもりで接しています。」
言い添える孫息子にきっときついまなざしを向ける。
「たわけ!おまえまでもがそのようなことを!」
「…それだけではありません。…僕は、龍麻を一人の女性として愛しています。玄武がそうしているのではなく、僕の、如月翡翠としての意思で彼女を愛しています。」
その言葉に祖父は顔色を失い、唇をわななかせる。
「僕は、龍麻と龍麻の住む東京を守りたいと思います。黄龍を守るのではなく、自分のために愛する龍麻を守る、龍麻の住む街を守る、仲間の住む街を守る。それが僕にとっての幸せです。」
言い放つ孫に、祖父はもはや言葉もでなかった。
そこで翡翠はようやく胸のつかえがとれたのか、柔らかな表情になる。
「それでも、僕はお祖父様に感謝をしています。…お祖父様が僕を厳しく教育してくれなければ僕には戦う力も何もなく、龍麻を守ることもできなかった。全てはお祖父様のおかげ。そう思っています。本当にありがとうございました。」
そう言ってぴたりと床に手をついて深々と頭を下げる。
祖父は何も言わず、だけどもう戦慄きもせず、ただ目の前にいる孫を複雑な表情を浮かべて見つめているだけだった。
「ともかく、それだけは伝えたくて、ここまで参りました。…これからは、僕は、僕の信じた道を行きたいと思います。」
翡翠の言葉に祖父は何のいらえも見せず、ただ黙り込んでいた。
重苦しい沈黙が家の中を支配する。
翡翠も祖父もどちらも口を開かない。
間にいる龍麻にはどうも居心地が悪くて、どうにかして雰囲気を和らげようとするが、今日に限ってどうにもしようがない。
「話はそれだけか?」
やがて祖父が口を開く。
「もう用はすんだのじゃろう?…ならば、とっとと去るがいい。」
表情ひとつ変えずに、祖父は静かに言い放つ。
翡翠はそれに軽くうなづいて答えると龍麻を促して戸外に出た。

 

 

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