翌日、8月15日。
朝食を終えて身支度を整えると旅館の下にある船着場から渡月橋に出るべく船に乗る。
夕べの宿泊客を乗せた船は、穏やかな川を静かに下っていく。その川面に照り返す日差しの強さが今日も暑くなりそうだということを物語っていた。
「今日はどこへ行くの?」
予定を何も聞かされていない龍麻は翡翠の後をついて渡月橋を歩きながら尋ねてみた。
「今日は貴船に。」
「貴船…って、あの神社のある?」
「そう。鞍馬天狗で有名な鞍馬から山ひとつ超えたところだね。」
「えっ!?」
山登りでもするのかと、顔が強張る龍麻に翡翠はくすくすと笑いながら続ける。
「無論、電車で行くけどね。」
ほっとした龍麻にまだ笑いながら京福嵐山駅の切符売り場で電車の切符を2枚買い、1枚を龍麻に渡した。
「今日は焼き物?それとも武具?小物?」
「今日は仕事じゃないんだ。」
では、何の用件かと聞き返そうとしたところ、ホームに止まっていた電車の発車ベルがけたたましく、二人を急かすかのように鳴り響く。
駆け出してそれに乗り込むと車内は嵐山界隈に宿泊したらしい人々がかなり乗車していて、電車は九時前だというのにかなりの混雑で、走り出して左右に揺れる電車の中をよたよたと歩きながら、ようやく座席を見つけて座った。
「仕事じゃないって、どういうこと?」
膝に荷物を置いて、先ほど尋ねそこなった質問を小首を傾げてかわいらしい仕草でしてくる龍麻に翡翠はただ微笑むだけ。何も答えてくれない恋人に龍麻は頬を膨らませて呟く。
「貴船神社って…水の神社だよね。…でもって、山間のところだし。…そういえば、京の町のほぼ真北にあるんだっけ。」
そう言ってから龍麻は少し考えていたが、やがて電車が嵯峨駅前につく頃には目を輝かせて小声で言った。
「…わかった。…飛水一族の人に関係あるでしょ?」
まさかそこまで核心に迫られるとはまったく思っていなかったので、翡翠は苦笑してうなづいてみせる。
「…よくわかったね。」
「だって、北で、水で、山間…いわゆる高い土地なんだもの。」
参ったな。
翡翠は龍麻を侮っていたことを反省した。
龍麻が貴船神社が水の神社であることを知っているとは思わなかったし、ましてや京の街から見てどの方角にあるかなんてわかるはずがないとたかをくくっていたのだ。
さらに龍麻は悪戯っぽい表情を浮かべて翡翠に尋ねる。
「…それって、この間、芙蓉が晴ちゃんから言付かってきた手紙に関係すること?」
翡翠は一瞬、図星を指されて凍り付いた。
龍麻はと言うと、あたって喜ぶどころか逆に不安そうな暗い表情になる。
「あ…ごめん。…余計な詮索…だったよね…。」
自分が悪いことをしたのではないかとしゅんとして俯いてしまう龍麻に、慌てて如月は首を振る。
「そうじゃない。驚いてたんだよ。…鋭いね。」
如月の言葉が自分に対する気遣いではないかと龍麻は思っているらしく、まだ不安そうな表情を改めない。
「本当だよ。…そこまでよくわかったね?」
「…だって、今回の京都行き決めたのは芙蓉が来た直後だったし、あの晴ちゃんが翡翠に骨董品を注文するとは思えないし。…それで今日は仕事じゃないんだったら、その用事の可能性が高いよね。」
自説を披露して、どう?とばかりに上目遣いで翡翠の様子を伺う龍麻に、翡翠は苦笑するしかなかった。
今更だが、龍麻には本当に驚かされる。
翡翠はこの龍麻の洞察力について思いを巡らしていた。
龍麻はなんとも感じていないだろうが、この洞察力の鋭さが去年、何人の人間を救ったことだろう。龍麻がなんとも思わずに、彼女の思う、当たり前の発言で仲間たちの心のしこりが溶かされ、癒されて、自然と仲間になった。
この僕だってその一人だ。
飛水流の使命に固執していた僕の頑なな心を溶かし、守ることの意味を見つけさせてくれた。
龍麻のこういうところには、本当に叶わない。
これが、陽の黄龍の器の力(今では黄龍と呼んでも差し支えないかもしれないが)なのだろうか。
「…どうしたの?」
黙り込んでしまった翡翠に龍麻は不思議そうに首を傾げている。
「…当たりだよ。」
そう言って、龍麻の頭をぽんぽんと叩くと照れくさそうに首を竦めた。
「…どうしてもね、会わなきゃいけない人がいるんだ。」
そういう翡翠の顔を龍麻は真剣に覗き込む。
「…会うの…辛いの?」
「え?」
急に、訪ねられて翡翠は言葉に詰まる。
「…翡翠、…少し顔が強張ってるから。…会うの、辛いのかなって。」
龍麻に言われて初めて自分の表情が強張っていることに気がついた。
緊張はしている。だけど、辛いとは思わない。…いや、思わないようにしているだけなのだろうか。会う事について、もう随分前に決めて、覚悟も決めたはずなのに、実際に足を向けると全身が竦むような気がする。
「…辛いわけじゃない。…ただね、少し…。」
どうしていいかわからないのが本当のところだ。少し不安でもある。
だから、こうして龍麻を連れてきたのかもしれない。
隣に座って、不思議そうに翡翠を見上げる龍麻の手を取って握ると、急なことだったから龍麻は少し驚いたように瞠目し、握った手を凝視した。
「嫌…かい?」
「ううん。…嬉しい。」
龍麻は首を振り、頬を僅かに染め、恥ずかしそうに視線を伏せたけれど、それでも僕を勇気付けるようにそっと手を握り返してくれる。
その龍麻の気持ちが嬉しくて。
「龍麻。…ありがとう。」
龍麻は視線を伏せたまま、小さくうなづいた。
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