平安神宮の側から乗ったバスを四条大宮で降り、京福電車に乗り換える。その電車のたたずまいは都電を思い起こさせる。短い編成の電車がゴトゴトと規則的な揺れでのんびりと京の街中を行くのに、朝が早かったせいもあって、龍麻はうとうととしかけていた。
半分目が閉じかけた頃に終点の嵐山に到着する。
翡翠の後をついて歩いていくと、駅をでて左に曲がりあの有名な渡月橋を渡って、嵐山の反対岸の細い道を少し上流に遡る。
「あれだよ。」
彼が示した先には小さな船着場があって20人ほどが乗れるような船が停泊していた。
龍麻は訝りながらも、なおも彼の後をついていくと、船のところにいた日焼けした若い男が翡翠の姿を見つけると愛想よく笑って恭しく頭を下げた。
「お久しぶりでございます。」
すると翡翠もそれが当然のような顔でうなづいて、口を開く。
「1年ぶりだね。今回は4泊お世話になるよ。」
その親しげなやり取りの中から、龍麻はどうやらこの人は翡翠の知り合いであると察して、それと目の前の船をどう関連付けたらよいものか、逡巡する。
「どうぞ、中に。」
促されて船室に入ると既に3つのグループが乗っていた。1組は熟年の夫婦。1組はOL、もう1組は夫婦なのかカップルなのか。
「若旦那、御久しぶりでございます。」
船室にいた少し年かさの男が翡翠に恭しく挨拶をしている。
みな、この船の人々は翡翠に対して妙に丁寧であり、また親しげでもあるのを龍麻は感じていた。
「ああ。元気そうだな。」
「おかげさまで。今回はいかほど?」
「4日間。よろしく頼むよ。」
「承知いたしました。」
どうやらこの船は宿に関係するものらしい。といってもまさか、この船で寝泊りするわけでもないし。龍麻は船内を見回して考える。
とりあえず、この人たちにとって翡翠は上客らしいということはよくわかる。それはそうだろう。このオンシーズン時にいつでも翡翠が使っていいようになっているくらいなのだから。だけど、ただの常連客だけでは、いつでも宿を確保できる理由にはならない。龍麻はそれを考えながら翡翠とともに一番後ろに落ち着いた。
「どこへ行くの?」
この船が気になって尋ねてみると、翡翠はなんでもないことのように返事をする。
「少し上流。船は弱い?」
「大丈夫、だと思うけど。」
「10分ほどで宿につくから。」
そう言っているうちにゴゴゴゴというエンジン音が響きだし、船がゆっくりと川の上を滑るように走り出す。
「まさか船で行くとは思わなかった。」
「珍しいだろう?」
「翡翠の定宿?」
「まぁ、そんなとこ、かな。」
悪戯っぽく笑う翡翠に、まだ慣れず、龍麻は照れてしまう。
船に乗って川を遡っていく。右岸にトロッコ鉄道が走り、あちこちに巨岩が並び、緑の葉を鬱陶しいほどに茂らせた山間の中を船はゆっくりと遡っていく。秋にきたらきっと紅葉が見事な眺めなのだろう。
そうして翡翠の言うとおり、10分ほどで小さな船着場に接岸した。
そこは川が大きく湾曲しているところで、まるで半島のように岸が出っ張っている。丁度旅館の立っているところは三方を川に囲まれたような形になっていた。船着場は一番下流に設けられている。
船と船着場の間に板が渡されると出迎えにきていた仲居さんたちが一斉に頭を下げる。
他の乗客が下船すると仲居さんたちが各々のグループに近寄って名前を伺ってから荷物を運んでいく。最後に下船した龍麻と翡翠のところには仲居頭のような、帯の色が一人だけ違う年かさの女性がやってきて、翡翠に向かって恭しく頭を下げた。
「お待ちいたしておりました。」
翡翠が微笑んで頷くと彼女はちらりと龍麻のほうに視線をめぐらせて、にんまりと微笑んだ。
「随分と別嬪さんをお連れで。若旦那様も隅に置けませんわ。」
「これから、たびたび世話になるかもしれないね。」
からかいに、いつものとおりに肯定の意を含んだ言葉で返すと彼女の目がぱっと明るくなる。
「まぁ。いい人ですの?」
翡翠は何も言わずただ艶然と微笑んでいる。
今日何度目かのこんなやり取り。こういうときってどういうリアクションしていいものやら困った龍麻は後でただ立っているだけだった。
船着場から階段を上がっていくと建物に続く小道に出る。小道を行くとすぐに門があり、門を潜ると道の両脇に1つずつ大き目の建物が並ぶ。川側のほうに立っているのは宿泊棟らしく、山側に立っているのは倉庫や従業員の部屋などの建物らしい。他のグループは川側の建物に仲居さんの案内で消えて行く。
私達はその前を通り過ぎて一番突き当たりにある小さな門を潜った。小さな柴垣に囲まれた中にはよく手入れされた庭と小さな離れ。離れは入ってすぐ左に支度部屋らしき小さな部屋と、右側に洗面所。正面には10畳ほどの座敷があり、さらにその先にはもっと広い部屋がもう一つあった。とりあえず10畳ほどの入ってすぐの部屋に落ち着くと仲居さんは慣れた手つきでお茶を入れ、翡翠に夕食の時間を尋ねてから出て行った。
「高そう…。」
離れ、というのはどこでもかなりな金額がかかるものだ。龍麻は質素だが、作りの良いその離れに感嘆して呟くと、翡翠が思わぬ返事をする。
「タダだよ。」
くすりと翡翠は笑う。
余計な装飾がひとつもない、床の間には高そうな掛け軸がかけられているが、決して雰囲気を壊すような華美なものではなく、落ち着いた絵。
飾ってある花も竜胆が一輪だけという落ち着いたものだった。
いかにも趣味の良い、翡翠の好きそうな部屋。それがタダなんてことはありえない。
「こんな離れがぁ?嘘。」
「ほんと。」
部屋から見える景色は絶景で、大堰川が目の前、そして整えられた日本庭園。池にはこれまた高そうな鯉も泳いでいる。離れの作り自体もかなり凝った建物で、庭の奥には小さな茶室らしき建物もある。
龍麻はどういうことだろうと判断をしかねて首をかしげていた。
「若旦那様。」
不意に外から声がかけられる。
龍麻が驚いて入り口の方を振り返ると、続いてすぅっと襖が静かに開いて綺麗な女性が手をついて控えている。先ほどの仲居さんのように恭しく挨拶をすると優雅な物腰で部屋の中に入って襖を閉めた。
「ああ、久しぶりだね。またしばらくの間世話になるよ。」
翡翠が言うと彼女は綺麗に結い上げられた頭をもう一度深深と下げた。年のころは40半ばのかなり美人な人。素人である龍麻が見ただけでもすぐに分かる高級そうな友禅を着たこの人は、おそらくここの女将なのだろう。
翡翠の言葉ににこりとその柔和な美貌を綻ばせる。
「ご遠慮なくいつでも使って下さいまし。…あ…?」
言葉の途中で、不思議そうに龍麻を見て首を傾げる。
「若旦那様、…こちらのお嬢様…?」
「ああ。」
「まあ…。」
驚いたような顔をして、今度は龍麻に向かって三つ指をついてこれ以上ないほどに深深とお辞儀をした。
「ようこそおいでくださいました。私は当旅館の女将でございます。此度の大役、本当にお疲れ様でございました。どうぞ、何もないところですけれどゆっくりとおくつろぎくださいませ。」
にこりと微笑んで言われて、そんな扱いに慣れなくておろおろとしていた龍麻はそこでようやくはっと気が付いた。
「もしかして、飛水流の!?」
すると横で翡翠がうんうんとうなづいている。
「そうなんだ。如月家ではないけどね。」
道理で親しげなはず。納得した龍麻に女将は続ける。
「こちらは玄武様専用のお部屋ですの。…こちらには先ほど案内させていただきました仲居頭と私だけしか近づきません。」
玄武専用、ということは翡翠専用ってことか。龍麻は改めて尊敬のまなざしで翡翠を見ると、翡翠はくすりと小さく微笑んだ。
「でも、まさか黄龍様が女性だったとは思いませんでしたわ。…若旦那様はご存知で?」
目の前に座る、普通の女性が黄龍であることに酷く驚いた様子で、彼女は翡翠に尋ねてみる。
「いや、僕も知らなかったんだ。」
「そうでしたの。いずれにせよ、御目文字かなって光栄に存じますわ。これからもどうぞよろしくお願いいたします。」
再び、深深と丁寧に頭を下げられて、龍麻はどうしていいかわからずにいた。
女将は龍麻のそういうところを可愛らしいと思ったのか、暖かな眼差しを向けるとなんでも遠慮なくいいつけるようにと龍麻に言ってから部屋を下がっていった。
「なぁんだ…飛水流の人なんだ。」
ようやく落ち着いた龍麻は気の抜けたように呟いた。
「そうなんだ。もともと京都は江戸と同じように陰陽思想に基づいて作られた都市。飛水流の人間がいるに相応しいだろう?」
「それはそうだけどさ。」
慣れない扱いに戸惑った龍麻の様子にくすっと翡翠が笑う。
「飛水流のこと、今まで龍麻に話をしたことがなかったね。」
「うん。」
好奇心に目を輝かせる龍麻に、翡翠は苦笑しながらこほんと小さく咳払いをした。
「飛水流にはいくつか名前があってね。元をたどるとみんな同じなんだけど、今はそれぞれの家に分かれている。僕の、如月家は代々江戸、東京を護ってきた。そのほかにも、京都や奈良を護っている氏族もある。」
「あ、そっか。京都もだけど、奈良も都市だったんだものね?」
「そういうことだ。…で、飛水流の忍術は龍麻も知ってるとおり、水を扱うものなんだけど、ごくまれに、何十年に一度の割合で水を自在に扱える玄武の能力者が出るんだよ。」
「それが翡翠っていうわけね?」
「そういうこと。で、当然玄武の能力者は飛水流の中でも一目置かれる。正確に言えば一目置かれるどころか、飛水流の中では長と同様の待遇を受けるんだよ。それだけ強い能力を持っているということだからね。」
「ふぅん。だから特別待遇なんだ?」
「まぁね。」
だからみんな恭しく翡翠に頭を下げていたのかと今更ながら納得する。
「っていうと、翡翠は、飛水流の中でも一番の能力者?」
「そういうことになるかもしれないね。もっとも、玄武の能力者というだけではその能力は開花しないんだ。ちゃんと修行を積まないとね。僕だって、龍麻と一緒に戦うようになった頃はまだ玄武変ができなかったから。」
「ああ、そういえばそうだったね。」
龍麻は翡翠が仲間になった頃のことを思い出す。
あの頃の翡翠は、まだあまり技もなく、玄武変なんてできるなど全然知らなかった。
まだあれから1年しかたっていないというのに、なんだか随分と時間がたったような気がするのは、この1年でいろいろなことがあったせいだろうか。
「さぁ、お風呂にでも入ろうか。ここはね、市内でも珍しい温泉が出るんだよ。」
「へ?温泉?」
きょとんとした龍麻に翡翠が説明を続ける。
「ああ。本館にある女湯でも、この離れにある専用のお風呂でも好きな方を使うといい。こっちには露天風呂もあるからね。」
その言葉に龍麻の目がきらきらと輝く。
「露天風呂っ!?わーっ、入りたいっ!」
「その代わり、ここの露天風呂は混浴だけどね?」
そう言って翡翠はにーっこりと笑った。
|