春の訪れ〜2〜

 

それから、もう、自分でも今までないくらいに勉強に没頭した。でも、運動好きの自分は、一日に一度くらいは体を動かさないとどうにも落ち着かない。それで昼間には体力発散のためにランニングにでたりしたけれど、それ以外はほとんど勉強という日常を送っていた。教科書もノートも辞書も、ぜーんぶ広げて、とにかく勉強。口を開けば英単語が吐く息に乗って出て行きそうなくらいまで詰め込んでいた。
それでも、時折、疲れて手を止めると、思い出すのは翡翠のことばかりだった。
今ごろ、何をしてるかな。そればっかりだった。
本当だったら、勉強を教えてもらいたかったけれど、それでどこを受けるかばれるのが嫌だったし、それから翡翠本人だって受験生。私の面倒を見ている場合ではない。ただでさえ店をやっているのだから、忙しいだろうし。
でも、本当はそうじゃなくって、翡翠に会えない一番の理由は、このまま自分の気持ちを押しとどめていたら、きっと、行き場のない想いはいつか溢れてしまうから。溢れて、それが翡翠に伝わってしまったらどうなるのだろう。今の、いい友達、黄龍と玄武の関係でさえ嬉しくて、それを壊してしまいたくなかったから。だから溢れてしまわないうちに離れて、少しでもその想いが消化されることを願っていて。願っているのに、気持ちはぜんぜん小さくならなかった。
翡翠に会いたい。
でも、翡翠は私の気がわかるから、きっと側に行けばすぐにわかっちゃう。それに、しばらく来れないなんていいながら、会いに行くのもなんだか恥ずかしくってイヤだった。
翡翠、少しは私のこと、思い出してくれるかな?
そう思った瞬間に、脳裏に浮かび上がってきたのは橘さんという翡翠のクラスの女の子だった。
やっぱり私のことなんて、忘れちゃうよね。
それでも、もしかしたら。…ううん、だめでもいいや。いつか、もっとずっと大人になって、翡翠に会ったときに、骨董品の話ができるだけでもいいから。ちょっとだけ驚く翡翠の顔が見たいから。
多くは望んじゃいけない。期待すればするほど、だめだったときのショックは大きいから。
だから、側にいれなくっても、いつかのために。
私は再びペンをとった。


「バレンタイン…か。」
水曜日。自由登校とはいいながらも週に一度、学校に顔を出すことになっている。もちろん、研修などでいない場合や受験日と重なった場合には仕方がないが、それ以外の生徒はHRのためだけに学校に来るんだった。
1週間ぶりに顔を合わせた小蒔がバレンタインはどうするんだという話題を切り出した。
「ひーちゃん、あげるんでしょ?」
「えっ?」
「あげないの?如月クン。」
「…そういうの、キライそうだから…。」
「そんなことないよ。貰ったらきっと嬉しいって。」
「でも、あんまりチョコとか食べてるの見たことないし…。」
甘いものが苦手というわけではないようだ。お酒も飲むけれど、甘いものも食べている。店の上得意でもある近所のご隠居が、よく翡翠に和菓子を持ってきてそれをお茶菓子として食べているのを見る。もちろん、私もご相伴に預かっているのだけど。ということは、和菓子なら好きなのだろうか。でも、そういうイベント自体好きじゃないのかもしれない。
「如月クン、もてるからきっと当日は大変なんでしょうね。」
渡すにしても、きっと、他のに取り紛れてしまうだろうし。そういえば、前に貰った誕生日プレゼントもしばらくそのままにして、結局は自分で使わずにどうにか処理をしてしまったようだった。
きっとバレンタインのチョコも同じような運命を辿るのだろう。
「やっぱり、いいや。」
「でも、少しでも感謝の気持ちとか伝えておいたほうがいいんじゃないかしら?たまには、如月クンのお茶菓子、提供してあげるつもりで。」
葵がにこりと微笑んだ。
「うーん。」
「チョコがだめなら他のものでもいいのじゃないかしら?龍麻、如月君の好きなお菓子知ってる?」
「えーと、和菓子全般…。」
「ちょっと難しいかもしれないけど、がんばってみたら?」
結局、葵の言葉につられて、自分で作ることにした。でも、翡翠の好きな和菓子って何だろう。いつも近所のご隠居は練り餡でつくられた綺麗な菓子をくれる。翡翠は茶道部だから、茶道に使われるようなお菓子がいいのかもしれない。それにしても、そういうのって難しいよなぁ。


大体の材料は予想がついた。けれども、作り方がわからないから新宿駅の側にある本屋でさんざん探し回ったあげく、そういうお菓子の飾りの仕方のようなものが書いてある本をようやく入手した。
季節の和菓子は少し先の季節を表すものがよい。
あれこれと本を調べて、結局は、桃の花の形の生菓子を作ることにした。とりあえず、最初は材料になる餡から作らなければならない。本を熟読、そして豆を冷やして、水を吸った豆を煮始めて、鍋の前に陣取ること数時間。思ったよりも重労働ののちになんとか餡を完成させた。自分としては、誉めてあげたいくらいにうまくできたけど、翡翠は舌が肥えてそうだからなぁ…。
餡をいくつかに分けて、ピンク色に着色したりする。そこから悪戦苦闘は4時間を超え、ようやく出来上がったものは、桃の花と呼ぶにはかなりの想像力を駆使する必要のあるものだった。
こんなんで、本当に美術系の大学に入れるのかしら。私はそっとため息をついた。
美術の点数が悪いわけではないけれど。しかも、マネジメントだからほとんど実習はないし、受験科目にも実習はないんだけど、それでもあまりにも自信を無くしてしまうような出来栄えに思わずため息がもれる。
それでも、とりあえず包装して時計を見ると、すでに日付は14日に変わっていた。どうしよう。いつ渡そうか。
翡翠に直接手渡しをするか。それとも、こっそり置いてくるか。
こっそり置いてくるのはほとんど無理のような気がした。近づくと気でわかってしまうから。
翡翠に会いたい。だけど、こういうのキライかもしれない。キライだったらどうしよう。それよりもたとえ義理だとしても、本命以外からもらってくれるだろうか。
そんなことを考え始めるととてもじゃないけど直接渡す勇気なんてなくなってきた。でも、それじゃあ、一体どうするの?
考えに考えた結論として私はダウンジャケットを引っ張り出した。
深夜3時。私は防寒服を着込んで自転車を漕いでいた。
私が出した結論は、翡翠が寝ているだろう時間にそっと店に行って、店の郵便受けに入れてくる。もし、万が一、目がさめて私の気配に気づいたとしても、自転車で全速力で逃げれば翡翠だって追ってはこないだろうし。
決意を固めて翡翠の家目指して自転車を必死に漕いだ。通いなれた風景が目に飛び込んでくる。そのまま速度を緩めずに、まっすぐに店先のポストの前でとまった。郵便受けにはすでに2,3個のチョコが置いてある。どうやら、同じような考えの人がいるらしい。私は急いでその中に自分のを仲間入りさせるとそのまま一目散に店から離れていった。
呆れられるのは恐いから、置いてきたお菓子の箱には差出人の名前も何も書いていない。他の女の子のと紛れてもいい。ただ、こっそりと、翡翠に気づかれないように、好きですって気持ちを表現したかっただけ。ずっと押し殺してきた想いは溢れ出してきて、もう限界だったから。


朝がきた。
携帯電話の電源は切ってあった。無論、家の電話の呼び出し音も切ってある。夕べの夜中の運動と、電話の音のない静かな時間のおかげでよく眠れた。目が覚めたのは昼を過ぎた頃だった。
ぼんやりとした頭で考える。そういえば、今日はもうひとつ、チョコレートを届けなきゃいけない先があるんだった。
出かける支度をして、電車に乗って来た先は東京のほぼ反対側にある葛飾区。鳴瀧館長のいる拳武館高校だった。いつもお世話になっているお礼と、それから進路のこととかも、ついでに報告に来たのだった。
「そうか。それではまだまだ気が抜けないな。」
年末くらいまでは文学部にでも進もうかという話をしていたのを、急に進路変更したものだからいろいろと大変である。大きな椅子にゆったりと腰掛けた館長は、それでもやりたいことが見つかったならそれでいいという風に言ってくれたのに、少しだけ安心した。
「ええ。最近はずっと勉強ばっかりで、あと半月はこの生活です。」
「まぁ、受験生だから仕方ないな。」
わはははと鳴瀧が豪快に笑ったところで校長室の重い扉からノックの音がした。すっと彼の笑顔が引き締まり厳しい顔になる。
「入れ。」
「失礼します。」
礼儀正しい挨拶の後に中に入ってきたのは紅葉だった。
「あ、紅葉。」
「あ、れ?龍麻。どうしてここに?」
「今、館長のところにお届け物しにきたの。」
ちらりと紅葉が机の上のものをみて「ああ」と小さく呟いた。
「紅葉は?どうしたの?」
「今日は受験日だったから、終わった報告に。」
さらりと言った紅葉は、そんなふうにはぜんぜん見えなかった。黒いコートを片手に持って、鞄を下げて、確かに学校とかにくる雰囲気だけど、受験生特有の終わったような安心感や、切羽詰ったような表情はみてとれない。
「えええ?紅葉って、今日、受験だったの?」
「まぁね。それよりも、こっちにはないの、チョコ。」
「あ、ゴメン…。」
すっかりと失念していた。
「ま、いいけどね。」
仕方がないというように短く返答してからついっと鳴瀧の前に進み出る。
「無事、終わりました。」
「うむ。どうだ?」
「ええ、なんとか。」
「発表は?」
「来月です。4日に。」
「そうか。」
言葉少なに報告する紅葉に、うらやましいなぁと思いながらも私はコートと鞄を持った。
「じゃあ、私そろそろ帰りますね?」
「もう帰るのか?久しぶりに食事でもどうだね?」
「せっかくですけど、家に帰って、もう少し勉強しなきゃだから。」
「はははは。そうか。熱心なのもいいが、あまり根をつめすぎて体を壊さないようにな。」
「はい。ありがとうございます。」
礼を言ってから館長室を辞して、そのまま私は家路についた。

 

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