春の訪れ〜1〜

 

あの戦いから1週間。
東京は何もなかったかのように日常を取り戻した。時折、道行く人の会話にあの天変地異の話が上るけれども、もうしばらくするとそれも忘れ去られていくだろう。
ここ真神学園でもそれは同じだった。まるで、それは夢であったかのように、平静を取り戻していく。だが、たったひとつ、マリア先生が失われたことが、夢でなかったことを教えてくれる。
「葵、教師になるんだぁ…。」
昼休み。龍麻は葵、小蒔と一緒にお弁当を広げていた。ようやく平和を取り戻し、ふと気づけば3学期。そして目前には受験、卒業。
忘れていたわけではなかった。しかし、命をかけた戦いの前に、受験も卒業もどこか実感が沸かずにいたが、こうして平和な日常を取り戻した途端にそれはいきなり現実感を伴い、目前につきつけられる。
菩薩眼の少女は学園一の才媛。自分の将来をしっかりと考えていたようで、慌てた様子など微塵もなかった。
「ええ。…マリア先生がいなくなって、どんなに私たちはマリア先生に助けられてきたか、わかった気がしたの。…なれるかどうかわからないけど、私もマリア先生みたいになりたいと、そう思うの。」
葵はにこりと微笑んだ。
「そっか。…葵ならきっとなれるよ。」
小蒔が励ますと、葵は美貌を穏やかに綻ばせた。
「そういう小蒔は?どうするの?」
「やりたいことが見つからないんだ。…かと言って、勉強するのもなんだしねー。しばらくはアルバイトでもしよっかなーなんてね。」
もともと小蒔の家は酒屋さんをやっていて、配達や伝票処理で忙しいらしい。4人兄弟の長女、一番上である彼女が家業を手伝うことは当然といえば当然か。
「で。龍麻は?」
ぼんやりとしていたところに急に小蒔に聞かれてはっと我に返る。
「どうするの?」
さらに顔を覗き込むように尋ねられて思わずうっと身を引いた。
「え、と、大学に…。」
「どこ?」
「と、東都女子芸術大学。」
大学名を聞いた瞬間に葵の顔がにーっこりと微笑んだ。
「あそこは確か…。」
葵のもらした呟きにぎくりとする。
「美術学部に、美術のトータルマネージメントを勉強する学科があったわね?」
ば、ばれてる。さすがは菩薩眼。私は顔をひくつかせた。それよりも、自分が受けるわけでもない大学の情報まで頭に入っている記憶力も感服に値するけど。
「なるほど、如月クンね?」
小蒔も面白そうに私の顔を覗き込んだ。
「う…。」
「骨董屋だもんね、彼。」
ぱぁっと顔が真っ赤になるのが自分でもわかる。
「乙女だねぇ。黄龍の器といえども、所詮はフツーの女子高生。ふふふふ。かわいいねー。」
「小蒔っ!!」
にやにやと笑っている二人を私は恨みがましい眼で見つめた。
「他の人には黙っててよ。」
仕方なく二人には口止めをしておいた。今更これ以上とぼけても無理だろう。ばれちゃ仕方がないし、とりあえず、このふたりならそれなりに口は堅いから諦めた。
「どうして?如月クンなんて、知ったらきっと喜ぶと思うけどなー。」
「だって、重荷になっちゃうから。」
「なんで?」
「なんでって…。」
どう説明していいか、自分の気持ちをうまく言葉にできなくって困っていると横から葵が助けてくれる。
「自分のために将来を変えたと思って欲しくないのね?」
「そう、そうなのっ!」
やっぱり葵はすごいなぁなんて、感心したりして。きっといい先生になるんだろうなぁ。
「元から、骨董とか、美術品とか嫌いじゃなかったの。だから、それもあって、そっちにすすもうって思って。」
補足のように慌てて付け足すと小蒔のにんまり具合がさらに増した。
「ねぇねぇ。ひーちゃんって、如月クンとどうなってんの?」
「え?ど、どうって?」
「しょっちゅうお店に行ってるでしょ?デートとか、した?」
「してない、してない。」
私は慌てて首を振る。
「してないのぉ?だって、付き合ってるんでしょ?」
「ううん…。」
私は今までのことを頭の中に思い浮かべた。4月に翡翠の店で出会ってから、今まで、デートなんて一度もしたことがない。それどころか、好きだって言った事もなければ、言われたこともなかった。戦闘に参加してもらうか、旧校舎もぐりに付き合ってくれるか、もしくは、いつも私が一方的にお店に押しかけては、お茶を飲んで、他愛もない話をして、たまにはお店の手伝いをするくらいで。
「きっと違う…。」
「ええ!?どうして?あんなに仲がいいのにぃ?」
「付き合うって、ふつー、告白とかして、それで、ふたりでデートしたりとか、だよね?」
「うんうん。」
「好きって言ったことないし、言われたこともない。」
「「ええっ?」」
思わず小蒔と葵が同時に声をあげて互いの顔を見合わせた。
「まだ、なの?」
こくりとうなづくとふたりははーっと盛大なため息をついた。
「言っちゃえばいいのに。」
「なんか、そういう話、嫌いそうなんだもん。」
「そういわれて見れば…。」
葵も思い当たるようでうんうんとうなづいている。
「なんだか、人と一線をひいているような、そんな感じね。」
「あんまり、自分の感情出さないしね。」
小蒔の言葉にこくりとうなづいた。
「だから、ほんとはどう思ってるかわからないし。もしかしたら、迷惑かもしれないし。」
食べ終わったお弁当箱を仕舞ってから時計を見る。
「ごめん、進路相談に呼ばれてるんだ。ちょっと職員室行って来るね。」
私は席を立って職員室に向かっていった。そりゃ、先生だって呼びたくもなるだろう。急に進路を変えちゃったわけだし。
「如月クン、どう思ってるか、わからないんだって。」
「龍麻ったら…。」
葵が困ったような顔で微笑んだ。
「ニブすぎるにも、ほどがあるよね。」
慌てて指導室にかけていった私はふたりのそんな会話など全く聞こえてはいなかった。


「こんにちは。」
学校の帰り、いつものように店の中に入ると穏やかな笑顔をたたえた店主が快く迎えてくれる。
「やぁ、いらっしゃい。」
優しい声に迎えられて少しほっとする。
「今日は早かったんだね。」
「うん。3年生はもうすぐ自由登校だから。…翡翠は?」
「うちはもう自由登校なんだ。」
「ふぅん。」
「あがって待ってるといい。今、お茶いれるから。」
台所へ消えていく翡翠の後姿を見ながらため息をついた。
翡翠は、私のこと、どう思っているのだろう?嫌われてはいないと思うけど。あの戦いが終わってから、ほとんど毎日のようにここに来て、お茶を飲んで、世間話をして。やっぱり、ただの友達?それとも黄龍を守る玄武としての勤め?それとも、お得意さん?
仲間になってくれたことと、好きっていう気持ちは違うから。言ってしまったら、もうここには来れなくなりそうで、恐くって、ずっと口にできなかった気持ち。壊したくない関係。好きとか、嫌いとか、そういう感情を伝えてしまったら彼は引いてしまうかもしれない。だから、そうなるよりはこのままでいいやって思ってる。
「丁度、近所の方から芋ようかんを頂いたんだ。」
少しくすんだ桜色の湯飲みと皿に載った芋ようかんを私の前に出してくれた。翡翠の家にある私専用の湯飲みはもともとはこの店の売り物だった。そんなに値が張るものではなく、しかも、私がお手伝いをしているときにうっかりと落として割ってしまい、弁償して、どうせならと接いだついでにそのまま翡翠の家で使っている。この家に専用の湯のみがあるのはしーちゃんと、紅葉と私だけ。女の子では私だけだからそれで充分すぎるほどに嬉しい。
「で。真神はいつまで登校なんだい?」
「来週の水曜日まで。来週はテストなんだ。それであとは各自、受験とか、就職する人は研修にでちゃうし。」
「龍麻は?どうするの?」
「一応、進学。」
「どこ?」
「内緒。落ちたらカッコ悪いから。」
学校名をうっかり言って、葵みたいにわかっちゃったら困るから。翡翠はなんだか寂しそうな顔を一瞬浮かべた。
「翡翠は?国立って言ってたね?」
「あ、ああ。東京美術大学を受けようかと思ってね。」
それは国立の美術系大学の最高峰。入るのにはすっごい難しい大学のひとつ。でも、翡翠って、あんまり学校に行ってなかった割には王蘭でも3年間トップ独走だったっていうし、きっと軽々と入れちゃうんだろうなぁ。
「そっか。がんばってね。」
私とは雲泥の差。今更ながら、自分のアホさ加減には恥ずかしくなる。
「ああ。」
別に私から励まされなくたって、そつのない翡翠のこと、きっとちゃんとやってるんだろうな。
「…来週から自由登校なら、いつでも遊びに来るといい。」
ぼんやりと考えていると、翡翠が言う。ああ、そうだった。そのことも言わなきゃなんだった。
「あ、え、と。受験勉強しなきゃだから、しばらくの間、来れなくなるの。楽々入れるような頭じゃないから。」
すぅっと翡翠の顔から笑顔が引いていく。
「そう。…試験はいつ?」
「3月の初めなの。少し、真面目にやらないとまずいから。」
「じゃあ、あと2ヶ月ほどか。」
「うん。そうだね。」
そのまま、沈黙が流れる。とっても気まずい雰囲気が居間に流れ込んでくる。やっぱり、今まで、散々お世話になっておきながら、戦いが終わったらこれまでっていう感じにとられたのだろうか。武器の手入れとか修繕とかで随分と助けてもらったし。せめての恩返しに、何をしたらいいだろう。とりあえずできることは、棚卸のお手伝いくらいだろうか。それも受験を済ませてからじゃないとだけど。
「おっ、終わったら、また遊びにきていい?」
長い沈黙の果てに気まずくなって慌てて私が言うと、翡翠の眉間の皺が一時消える。
「ああ、かまわないよ。」
それでも、そう返事し終わったらまた眉間に皺が寄っちゃって。私ってば、怒らせるようなこと、何か言ってしまった?やっぱり、悪いようにとっちゃったかなぁ?困ったような、怒ったような、複雑な表情の翡翠が俯いて何かを考えている。
「じゃあ、今日は…。」
少しの沈黙のあと、翡翠が顔をあげて何かを言いかけた瞬間、店の戸ががらりと開く音がする。
「こんにちは。如月君、いるかしら?」
店の方に目をやると、入ってきたのは王蘭の制服の女性、確か、名前は橘さんといっただろうか。彼女が店に入ってきた。
「あ、ごめんなさい、お客様だったのね。」
彼女は私の顔を見ると、すまなそうな表情を見せる。
「気にしないでください。」
私は慌てて手と首をぶんぶんと振った。
「どうしたんだい?」
翡翠がすっと席を立って店に下りていく。
「えっと、これなんだけど、今日、学校に寄ったら先生から預かって、それで…。」
なんだか書類を片手に彼女が説明を始めた。この分だと話が長くなりそうだ。ここにこうしてぼーっとしているのもなんだか悪いし、彼女だって落ち着かないだろう。私は横に置いてあった鞄を持つと立ち上がった。
「もうそろそろ帰るね。ご馳走様。」
「あっ。」
一瞬、翡翠は何かを言いたそうにしていたが、私はそのまま店を出てしまった。
店を出てからしばらくは早足で歩いて、やがて、曲がり角を曲がって落ち着いて、歩く速度を落とした。そういえば、前に京一が遊びに来たときも彼女が来たっていっていたっけ。同じ学校の、同じクラスの人。
こつんと革靴のつま先で道端の小さな石をける。
ころころと勢いをつけて遠くにいった石はまるで自分みたいで。なんだかとてもみじめになったような気がしてきた。戦うしか能がないから。それが済んでしまえば、ただの女子高生。どこにでもいる、十人並みの。
仕方ないよね。
とぼとぼと辿る家路はもう薄暗くなっていた。

 

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