そうして僕は彼の仲間になった。
彼が黄龍の器であることは本人をはじめ、仲間の誰も知らないようだったので時期がくるまで伏せておくことにした。
で、何が気に入ったのかわからないが、それからというもの、毎日のように彼は僕の店に来るようになった。
「腹減った〜。」
いつもこれである。
そのたびに家にある食料を提供していたのだが、さすがに夏休みに入って、宿題も持ってこられて、うちの座敷でテキストを広げられたときには微かな頭痛も覚えた。
でも。
彼は、ここが心地よいと、僕の料理がおいしいと言ってくれるから。
たとえそれがお世辞でも、とても嬉しかった。
なんだか、うまく調子に乗せられた感がしないでもないが、それでも悪くはない。
僕の家は水の結界を張ってあるために、もともと古い日本家屋の構造とあいまって暑い盛りでもかなり涼しく過ごすことが出来る。また、畳が好きらしく、暇さえあれば畳でごろごろとしている。それはもう、とても嬉しそうに。
食事の方も、どうやら好き嫌いはないらしく、出したものは全部残さずに食べる。そして大げさなほど喜んで、誉めてくれるから、次に何を作ろうかなんて、その度ごとに考える。今までは一人で適当に取っていた食事も、彼のおかげで随分と食卓の上も、食事の場も賑やかになった。
考えてみれば食事を誰かと食べるなんて何年ぶりのことだろう。祖父が家を出てからなかったかもしれない。
それが、こんなに楽しいことだったなんて。
彼は真神でのこと、蓬莱寺を始めとする真神の仲間とのやりとり、旧校舎のアイテムの話などいろいろと話し掛けてくる。僕はそれにあいづちをうったり、意見をするだけなのだが、それがとても楽しい。知らなかった彼の日常が垣間見える。
得意な科目は数学と社会と体育という何の脈絡もない繋がりであること。生物の犬神先生と蓬莱寺の仲が悪いこと。英語は苦手で補習授業を受けたこと。水泳大会で男子100m背泳で優勝したこと。学校のやきそばパンが人気で早く行かないと入手できないこと。聞いているだけで楽しそうな学校生活。彼らしい、賑やかな毎日。
僕も、普通に女の子の格好で、一緒の学校に行けたら良かったのに。真神学園の、白いセーラー服を着て、彼の隣で笑っていたかった。
そんなこと、望んでも仕方のないことだけど。
いつまで男の格好をしていればいいのだろう。
そっとため息をついた。彼はそんな僕に気付かずに古典で分からないところがあるから後で教えて欲しいと言っている。
「零しているぞ。」
ふと見ると、煮物の汁を零しているのが目に入る。全く、そんなにがっついて食べなくても惣菜は逃げないだろうに。
「おかーさんみたい。」
ぼそりと彼が呟いた言葉に僕はショックを受けた。
お母さん…一応、女だ。…でも、そんな年上にしなくても。
「いいじゃん、俺、おかーさん好き♪」
続けて言う彼のセリフに頭痛を覚えた。
「マザコンか…。」
全く。どういうつもりでお母さんなんて言うのだろう。理解不能の彼に振り回されっぱなしで、でも、それも嬉しいと思う自分がいる。
「俺、如月のトコに婿に来ようかなー?」
ぼんやりとご飯を食べていた僕に、彼は不意に爆弾発言をした。
な、なんだとッ!?
婿?婿と言ったのか?かぁっと頭に血が一気に上っていくのが自分でもわかる。そして、普段はお爺様の教えどおりに何があっても冷静でいようとしているのに、酷くうろたえて、それも、取り返しがつかないくらいにうろたえてしまってる。
婿って、女だって、ばれてしまったのだろうか?
「ばっ…馬鹿なコト、言うなっ!」
慌てて否定する。だけど、彼はにやにやと、おかしそうに笑っている。多分、からかわれたんだということが次第に分かって、少しだけ胸の鼓動が収まってきた。
「ダメ?」
女だということがばれたわけではなさそうだ。
でも、どうして?
ま、まさか、いわゆるホモ?
い、いや、僕は女なんだからホモじゃない。
いや、それよりも。僕が女だってばれるから無理に決まってる。それに、ホモであっても、なくっても、男としての僕を見てそんなことを言っているのだから。
大方、食事をはじめとする世話係として同居するには都合がいいぐらいの発想なんだろう。それでも、一緒に住むということを考えるだけでバクバクと心臓がフル活動を始める。
「だっ…だめに…決まってる…。」
「なぁんだ、残念。」
彼は悪戯っぽく肩を竦めて、お茶を飲んだ。
それとほぼ同時に店の方から聞き覚えのある声が聞こえてくる。見ると、橘さんだった。
僕は行きがかり上、文化祭の実行委員になった。
これも、彼と出会ったから起こった変化だと思う。
彼女は遠慮しながら座敷に上がって、打ち合わせを済ませたあと、僕がお勝手に立っている間に、もう彼と打ち解けたようで、楽しそうに話している。
彼は、そういう人間なのだ。
たとえそれが初対面でも、橘さんはかなり警戒心の強い女性だと思っているが、それほどの人でもすぐに仲良くなってしまう。
その性格がうらやましくもあり、ちょっとだけ恨めしくもあり。
よく冷えた白玉ぜんざいをつつきながら二人を眺めていた。
「やっぱ、俺、如月と結婚しよーかなー。」
不意にさっきの話を蒸し返されて、びっくりして真っ赤になってしまった。さっき、あれでその話は終わりになったんじゃなかったのか!?
「美人だし、料理うまいし、頭いいし、和服似合うし。モロ俺の好み。」
彼は嬉しそうに一つずつ自分の勝手な理想を上げながら指を折っていく。
「ばっ…馬鹿なっ…。」
そう答えながらも、心臓がまたばくばくとすごい勢いで血を流していくのを止められない。
彼の理想に、僕は合ってる?
それは意外な事実。
蓬莱寺が理想の女性を聞いても、適当にごまかして答えなかったのに、そんなことを言うのは初めてだった。美人、料理上手、頭よくって和服が似合う。それが彼の理想なのか。
それが自分にあっているといわれて、照れないはずはない。
「如月だったらホモでもいいや。」
続いて漏らした問題発言に僕の心臓は壊れる寸前までいってしまった。
ホモでもいい?男の僕を愛している?それは喜んでいいやら、悲しむべきことなのやら、すぐには判断できなかった。
「さっき、ホモって言われてショックだとか言ってませんでしたか?」
問題発言に橘さんが面白そうに突っ込むとにっこりと笑って答える。
「如月はいいの。なんていうのかなあ…ほら、魂には性別がないじゃないか。」
へ?
タマシイに性別はない。
一体、どういうことなんだろう?
「真面目で、責任感強くて。…この年で、自分がやるべきことをわかってて、ポリシー持ってやってて。すげぇなって思うんだ。俺は、まだ何をどうしていいのかさえわかってないのに。」
「つまり、尊敬してると?」
橘さんの問いに一度はうなづいて、でも納得できないようでまた少し考えてから続ける。
「尊敬…そうだな、尊敬、なのかな?…いや、そんな大仰なんじゃなく、もっと身近な感じなんだけどさ。…とりあえず、如月の考え方とか性格とか好きなわけよ。要は魂。そーゆーのって性別関係ないじゃん?」
考え方とか性格が好き?
男の僕でもなく、女の僕でもなく、中身を好きだと言ってくれた人は初めてだった。
男の格好をするようになってから、何人もの女の子に告白された。僕は女なのに。外見が男であるという理由で。そして、人に関わりたくないがためにわざと冷たい態度を取っても、それさえもクールで格好言いといわれてしまう。
どっちも偽りの僕なのに、みんなはそれに気付かずに好きになる。
それなのに。
外見の性別は構わずに、偽りの性格が繕えなくなるほど入り込まれて、本当の性格が見えてしまい、そこがいいのだと。
僕は不覚にも泣きそうになった。
「だから、もう一杯おかわりね?」
彼から出された器を受け取って急いでお勝手に入る。
蛇口をひねって、大きな水音を立てる。
「っ…!」
ぽろりと、涙が毀れる。
たとえ、冗談にしろ何にしろ、僕のことを好きだといってくれた。そのことだけで胸が一杯だった。
男だと思われててもいい、友達としてでも、なんでもいい。僕のことを好きだと、僕のことを認めてくれたことだけで嬉しくて。
ハンカチでそっと涙を拭うと深呼吸をする。
涙をこぼしてしまったことがばれないように、目が赤くないかチェックしてから2杯目の白玉ぜんざいを出してやった。
それから数日後。
珍しく、神妙な面持ちでやってきた彼は座敷に上がらず店の商品を見ている。
また一人で旧校舎に潜ってきたのだろうか。
僕は何を見ているのかが知りたくて、そっと側によると彼の手には櫛。
先日、京都の知人の店から出たもので、昭和初期にどこぞの華族の姫の誕生祝に作られたもののいくつかがうちにきた。柄違いで3つあるうちのひとつを手にとって眺めている。
「なぁ、この櫛…いくらだ?」
花の模様のついたそれは、明らかに彼が使うものではない。
不安に翳る心を悟られないように、平静を装って答える。
「それは…5000円だが…。そんなもの、どうするんだい?」
なんでもないふりを装って、僕は他のものの位置を直そうとした。
「明日、美里が誕生日なんだよ。…プレゼントにしようと思って。」
彼の答えに思わず手が止まる。
奈落の底に突き落とされたような、絶望に似た黒い陰が一気に心を染めてぎゅうっと手で心臓を鷲掴みにするような苦しさに胸がつまる。動かしていた手も止まってしまった。
「如月?」
訝しげに覗きこむ彼の声にはっと我に返る。
「ああ、そうか。それは知らなかったな。」
わざと明るくそう言ってから何でもない風を装って手を動かし始めた。
「どうするかい?もし買うのならプレゼント用にラッピングをするが?」
不審がられないようにそういい足すと彼は邪気のない笑顔で頼んできた。
確かに、美里君には世話になっているから。
僕は急に手足がさび付いてしまったように、ぎくしゃくとした動きでお茶を入れにお勝手に入った。
美里君にプレゼント、か。
無理もない。彼が一番世話になっているといえば、相棒である蓬莱寺よりも彼女のほうだろう。必死に自分にそう言い聞かせて平静を保ち、お茶を出しに座敷に戻っていく。
引出しから普段は滅多に使うことのない目の粗い和紙の包装紙を取り出して綺麗に包むとそれにかけるリボンの花を作り始める。
彼はずぅっと横でその様子を面白そうに眺めていた。
美里君なら、確かにこの櫛を使うには相応しい綺麗な長い髪である。柘植の、それもかなり上等なものを使っているからきっと彼女の髪に馴染むのも早いだろう。
この櫛で髪をくしけずる彼女の姿を想像して辛くなる。心がきゅうきゅうと悲鳴をあげているようだった。
ラッピングを終えると商品を渡す。彼は嬉しそうに受け取って普段何も入ってない鞄の中に大事そうにしまいこんだ。
僕は泣きそうな顔をしていたかもしれない。
よほど嬉しかったのか、彼はどもりながら礼を言った。
その礼に余計に心が翳っていく。
もういい。わかった。僕が浅はかだったんだ。
「どういたしまして。…さて。ゆっくりしていくといい、といいたいところだけど、今日はこれから用事があってね。もう店も終いなんだ。」
にっこりと、できるだけにっこりと微笑んで、言う。用事なんて本当は何もないけれど、もうこれ以上彼の顔を見ているのは辛いから。
わざとらしく帳場に広げてあった伝票やFAXを片付け始める。
「あ、そうか。ごめん。」
「悪いが、…また、今度。」
折角会えたのに、追い返すような真似は本当はしたくないけど、今日はこれ以上一緒にいたら平静でいられる自信がない。
それなのに、彼は僕の言うことを全く疑ってない。
「いや、こっちこそ閉店間際にすまなかった。ありがとう。」
もう一度、真摯に礼を言われて僕の心は再び悲鳴をあげる。
うまく返答が出来なくて、口を開けば泣いてしまいそうだったから、短くうなづいて彼に背中を向けて帳簿を片付け始めた。
「じゃ、また…。」
「悪いな。」
送るために振り返った時に、彼は本当に申し訳なさそうに謝って出て行った。
いつものように彼の後姿が角を曲がるまで見送ることはせず、そのまま急いで閉店にすると、自分の部屋に入ってぴったりと襖を閉める。
崩れるようにして座り込んで、それからはもう泣くだけだった。
分かっていたはずなのに。
菩薩眼と黄龍の器の強い結びつきは僕がおいそれと入り込めるようなものじゃない。僕は黄龍を守護するべき玄武であるだけで。最初っから期待などしちゃいけないってわかっていたことだったのに。
あんまりに笑うから。誉めてくれるから。側にいてくれたから。いい気になって自分の立場を見失っていた。
僕なんか、女でもないのに。
冗談で婿に来たいなんて言うから、有頂天になっていた。あんなのからかわれただけなのに。
友達として好きだと言われたのに、まるで恋愛の対象として好きだと言われたように誤解して、舞い上がっていた。
結局のところ、僕は彼にとって、きっとなんでもない、便利な友人の一人なんだろう。
全てが分かりきっていたはずのことなのに、それを失念して勝手に一人で浮かれていて、そんな自分に心底嫌気が差す。
なんで女に生まれてきてしまったんだろう。
ちゃんと男に生まれていたらこんな辛い思いもしないで済んだのに。
そうじゃなかったら、なんで僕は玄武に生まれてついてしまったんだろう。ただの、飛水の一員であるなら男のふりなんかしなくても良かったのに。大手を振って、彼に気持ちを告げることが出来たのに。
とめどもなく溢れる涙は頬を伝い、次から次へと着物の膝に落ちていく。
悲しくて目を閉じると、瞳に溜まっていた涙が溢れてぱたぱたっと行く筋も落ちていく。目の前の闇に浮かぶのは彼の顔。狂ってしまいそうなほどの悲しみに、10数年ぶりに声をあげて泣いた。
僕は、女の子になりたかった。
それから僕は、お爺様の教えどおり無の境地を貫くことを固く心に誓った。それが一番いいことのように思われた。
悲しみも何もない、ただ静寂の心象。それが疲れきった僕の心の望みだった。
もう二度と期待しない。何を言われようと、されようと、もう何も望まない。それが僕の心を護る唯一の方法に思われた。
周囲の状況はというと、あれから数日の間にいろいろな騒ぎがあって、最終的には一族の宿敵とも言える鬼道衆を倒し、無事に東京を護りきった。
本当ならばそれで彼らとの協力関係は終わることになるはずだったが、それでも彼はまだ相変わらずうちに出入りしている。いつも世話になっているお礼だからといって、修学旅行の土産を持ってきたり、訓練やら金稼ぎと言っては旧校舎に潜っていた。戦闘があるたびに呼び出されたが、彼への対応は今までとなんら変わらないように、気の遠くなるような努力をしていた。
変わった点といえば、彼に対して抱いている気持ちをなるべく消そうと努力していたことだった。
まだ顔を見ると辛いけど、きっとそのうちになんともなくなる日がくるのだろう。この胸の苦しさも、いつか、そんなことがあったと懐かしく思うときがくる。
そう信じるしかなかった。
大体、最初から恋愛など許されるはずがなかった。
僕は玄武で、そして如月家のたった一人の後継ぎなのだから。
しかるべき年齢になったら、相応の相手と婚姻し、子を生し、そして老いて死んでいく。
それが僕に許される人生。
恋愛なんて、浮かれたことは最初っから抱くことも許されない感情なのだから。
そう思えば、心の中も少しは収めることが出来た。
しかし、収めるとはいっても、納得することではなく、ひどく味気ない、砂を噛んだようなざらつきを心の中に残したまま、無理に自分の感情を押さえつけたような形である。
そうして、歪んだ僕は再び、あのつまらない日常に還って行くしかなかった。
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