7月に入ったばかりのことだった。
朝からの曇天模様は梅雨明けがまだ先であることを示していた。
学校から帰ると店を開ける。最近は骨董ブームで店の品物の回転が速くなり、きちんと在庫管理や売上管理をしていないと税務調査が入ったときに大変な思いをすることになる。痛くもない腹を探られるのは面白くない。
京都の同業者にFAXで希望の商品を探すように依頼をかけて、同時に向こうから依頼された商品が見つかったことも知らせておく。その他に最近、彼らのおかげで品薄になっている薬の類も手配しながら6月の売上の締めの作業に入っていた。
そろそろコンピュータでも導入するかな?筆書きの帳簿は悪くはないけれど、申告の時に面倒だし。そろばんをはじくのは嫌いじゃないが、時間もかかる。
そう思いながら、売上の総計をはじいて帳面に書き付けているとき、彼の気が近づいてくるのを感じた。
「?」
いつもよりも弱い気が、店に向かってくる。彼のものである波長は、いつものような勢いがない。からりと戸をあけて入ってきたのは紛れもなく彼なのに。どこかおかしい。
「一人なんだね。」
いつも一緒にいる仲間達が今日に限って誰もいない。彼に問うでもなく、呟いてから彼の持参した武具類を買い取るために見せてもらう。
彼はぼんやりと僕の手元を眺めていた。
何かあったのだろうか。
いつも優しげに穏やかに笑っている目の焦点が合っていない。
「何か、買うかい?」
尋ねてみるとはっと我に返ったようで、ぼそぼそと薬の名前と数を呟く。薬棚の中から所望の薬を取り出して袋に入れていくが、またぼんやりとして何かを考え込んでいた。
明らかに様子がおかしい。何かあったのだろうか。
「これで全部かい?」
もう一度尋ねると再び我に帰る。こんなに頻繁にぼんやりしてしまうなど今まで一度だってなかった。よほどのことがあったのか。仲間が同道していないことにも関係があるのだろうか?
「では、買い取った品物との差額、4万2千円だ。」
金額を言ってからもう一度彼を見る。僅かにうなづいて、だけどまたぼんやりと外を眺めている。
店の外は先ほどから振り出しそうな曇天模様だったが、とうとう雨が落ちてきてガラス戸に短い水の軌跡を描いている。
「ああ、雨だね。傘は持ってるかい?」
尋ねると持っていないようだった。
「よかったら少し止むまで雨宿りしていくといい。」
僕の誘いに酷く吃驚したような顔をしていた。それはそうだろう。今までそんなに親しくしていたわけではない。警戒しているのか、答えをためらっているようだったので慌てて言葉を足した。
「薬は雨に濡らすわけには行かないからね。湿気もよくない。」
そう言って座敷に上がって彼が座るための座布団を出してやる。一瞬考えたようだが、座敷に上がってきた。この雨は少しの間止まないだろう。このまま帰したら、きっと濡れたままでぼんやりと街中を彷徨うかもしれない。いくら夏が近いとはいえ、まだ雨に濡れてもいい気候じゃない。
彼が上がってくれたのに安心するとお勝手に入ってお茶を入れる。なんだか疲れているようだ。一緒に水羊羹も出してやろう。甘いもの、大丈夫だろうか。
座敷に戻ると彼は珍しそうにきょろきょろとしていた。
「君、甘いものは大丈夫かい?」
後ろから訪ねると彼は驚いたようで肩がびくりと跳ねる。
「あっ…ああ。」
「そうか。」
お茶とお茶菓子を彼に出す。
「頂きものだが。」
「あ、ありがとう。」
素直なお礼になんとなく照れくさくなって慌てて言い訳をする。
「いや、構わないよ。僕も丁度休憩しようと思っていたところだ。」
だけど、話すこともない。なんとなく、彼の様子がおかしいから、もう少し様子を見ていようかと思って何気なく側にあった書付に目を通していた。彼がぼんやりとこちらを見ているのは気配でわかる。
「どこか具合でも悪いのかい?今日は随分とぼんやりしているようだが。」
思い切って尋ねてみる。
この店に来店するようになってからこのようにぼんやりしているのは初めてのことだった。いつも賢しく、アイテムや武器のことなどをいろいろ相談してくるのに、今日に限って何も聞かないし、何も喋らない。
「あ、いや…ちょっと…。」
何かを言いかけて、口をつぐむ。なるほど、他人にはあまり話したくないことらしい。それならば無理に聞くまいと思って僕は口を閉じることにした。
心配ではあるけれど、僕と彼との間はただの店の主と客。出すぎた真似をするべきではない。
しかし、意外にも彼から口を開いた。
「なぁ、…目の前で、自分の知ってるヤツに死なれたこと、あるか?」
不意に彼がした質問が、彼の今の精神状態全てを物語っていた。つまり、彼に近しい誰かが死んだのだろう。それでこんな状態になっているのか。
「まだ、ない。」
短く答えると、納得したといったふうにうなづく。
一体、誰が亡くなったのだろう。真神の生徒が死んだという話は聞いた覚えがないので、多分違う学校の仲間なのだろう。
僕は小さい頃から忍びの者として育てられてきたから、生死に関わることがそれほど衝撃にならない。だけど、おそらく普通に生きてきた彼にとって、目の前で誰かに死なれるというのはよほど衝撃が強いのだろう。
気の毒だが慰めてやることはできない。
これは、彼自身が乗り越えなくてはならないこと。
こんなことはおそらくこれからだって頻繁に起こりえる。
彼との出会いが、星が巡っている証拠で、星が巡るということが、この東京に大いなる災いが近づいていることも指し示しているのだから。
彼はしばらく沈黙した後に、やがて独り言のように話を始めた。
「ついこの間、知り合いの女の子が目の前で死んだんだ。…別に、俺のせいだっていうわけじゃないけどさ。…いや、やっぱり俺のせいなのかな。」
僕は女の子、というのにドキリとした。知り合いの女の子。その子がいつも自信に満ち溢れている彼をこんなに気弱にさせているということがひどくショックだった。
女の子。それほど大切に思っていた…?
「でさ。もっと俺が、…もっといろんな意味で強ければ助けられたかもしれないんだ。」
たら、れば、は禁句である。起きてしまったことに後悔しても何も始まらない。いつもだったらそれ位の事はわかりきっていて、逆に他にそんなことを言う人を諌めている立場だった。
それほどに激しい後悔が彼を苛んでいる。
そんなに好きだった?
僕の心の奥がちり、と音を立てて焼ける。
「その子のこと…好きだったのか?」
思わず口に出して、はっと我に帰る。しまった。聞くべきことじゃない。しかし、気を悪くするどころか却って、その質問の答えを真剣に考えていた。
「好きか、嫌いか、と聞かれたら…多分好きな方に入ると思う。」
ああ!僕は軽い眩暈を感じた。
そうだ…好きな女性がいてもおかしくはない。正常なこの年齢の男なら女性に興味を持ってもおかしくない。当然のことなのに。
どうして僕はこんなにも不安なんだろう。
「でも、それは恋愛感情じゃない。たぶん、顔見知りとして、嫌悪感を抱くかどうかというのなら抱かない。それぐらいなんだと思う。」
テーブルを虚ろに見つめたままの彼の言葉に不謹慎にも、ほっと安堵の息を漏らす自分がいる。
何も期待できる立場ではないというのに。浅はかな自分に腹が立って、きり、と唇をかみ締めた。
「俺、ホントの両親いないんだ。」
独り言のように毀れた言葉に、僕ははっとして顔を上げた。そうか、母親は生きてはいないだろうことは知っていたが、父親もなかったのか。
時として重い星を背負うものは回りをも巻き込み、自分に近しい、自分よりも弱い星を持つものを滅ぼしてしまうことがある。そうして二親をもすでに巻き込んでいたのか。
「でもさ養父母は優しかったし、俺の後見人も厳しいけどいい人だと思うしさ。…兄弟はいないけど養父母の子、俺からみれば従兄弟はいたんだ。だからよくわかんねぇけどさ。」
彼はそう言って、お茶で口を潤して、一呼吸置いてから続ける。
「たとえ兄弟でもよ、それが自分のたった一人の兄弟でも、間違っていることは間違ってると、言わなきゃだめだよな。どんなにそいつに苦労かけてても、世話になってても、間違いは間違いだと、正せないと、それが本当にそいつを大事にすることなんだと俺は思うよ。」
なんて真っ直ぐな考え方をするんだろう。
僕は驚いてまじまじと見つめてしまった。まさに、陽の黄龍の器に相応しい。
「俺さ、どうしてそのことを教えてやれなかったんだろう。ちゃんと俺が教えてやれば、もっとどうにかなったかもしれないって思うとさ。自分が歯痒くなるんだよ。」
自分が歯痒い、まさに彼らしい発言である。そっと心の中で苦笑をする。
「俺、もー、誰も知ってるやつ死なせたくない。…もしも、この先、そーゆーコトになったらさ、俺、土下座してでもそいつを止めようって思う。」
ああ、普段の調子に戻ってきた。
密かに笑いを堪えながら話を聞いていた。
顔を上げた彼は、それでもやっぱり悲しそうで、ほとんど泣き笑いのような表情をしていた。きっと自分の勇気を奮い起こすため一生懸命に笑ったのだろう。本当にもう二度とそんなことを起こしたくない。彼の気持ちが痛いほど伝わる。
「んでさ、ガラにもなく凹んだ俺をさ、みんなが一生懸命に慰めてくれようとすんだよな。みんな優しくてさ。」
急に砕けた口調で、明るく言い、体の中にたまった悲しみを吐き出すように大きなため息をついた。
「元気を出せとか、おまえのせいじゃないとか、泣いてもいいとか。すげー、俺に気遣ってくれんのがわかって、ありがたいんだけどさ。却って俺のほうが気ィつかっちゃってさ。」
次第に鼻声になってくる。
「疲れた…かな。」
最後に、そう呟いて彼は涙を零した。
慌ててハンカチを出して俯いている姿は、いつもの強気で元気な彼ではなく、ただの、本当に普通の、知り合いを失って悲しんでいる高校生に他ならなかった。
僕は立って、ティッシュとゴミ箱を渡して部屋を出る。
男性は、特に彼のような人は泣いている姿を見られたくないだろう。そう思って自室に戻った。少し落ち着くまで、放っておくほうがいい。幸い、雨が降っている。こんな日は客足も途絶えるから、何も彼を邪魔しないだろう。
最近、東京で起こっている様様な怪異について僕も調べてはいるが、そのうちのいくつかが高校生のグループによって解決されていることを知ったのはつい最近。
そして、この東京でそんな真似が出来るのは黄龍の器たる彼を中心に、菩薩眼の娘、白虎などをメンバーとした彼らであることは疑いようもない。
その中で誰かを失って、酷く傷ついている。
もう、彼を悲しませたくない。何よりも、彼を護りたい。何者からも、どんなことからも、肉体的にも精神的にも傷つくことがないように。そのために僕がいるのに。
僕にできることは彼らの関わる事件を減らすこと。
そのためにも、現在掴んでいる怪異を早く解決しなくては。
そこまで考えて、ほ、と息をつき、窓の外を眺める。西の空が明るくなってきた。そろそろ雨は止むだろう。濡れた草木を見ながら僕はふと考えた。
もし、僕が…。
僕が、死んだら彼は悲しんでくれるだろうか。
泣くほど、僕のことを思い出してくれるだろうか。
きっと、そんなことはない。どう考えてもただの行きつけの店の店主というだけの関係。ああそうか、で、きっと終わってしまうのだろう。
僕は亡くなった顔も見知らぬ少女に僅かな嫉妬を覚えた。
僕の決意も虚しく、追っている怪異に彼らが首を突っ込んできたのは偶然だったのか、必然だったのか。
忠告をしたにも関わらず、それに従わずにさらに深入りをしようとしていた。
もっと早く何とかしていれば、ここで鉢合わせする可能性がなかったのに。後悔しても遅く、すっかりと地下に潜る気でいる。
「義務とやらを果たす前に、死んじまったら意味がねーんだよっ!」
蓬莱寺、という名前の赤毛の、普段から騒がしい男が怒鳴る。しかし、彼に怒鳴られたくらいで決心が鈍るわけがない。鼻で笑って、一人で地下に入ろうとした。
「あのさ、義務だって言うけど、じゃあ、その義務を果たして何の権利が得られるんだ?」
怒鳴るわけではない、却って穏やかな口調で彼は真っ直ぐに問い掛ける。
権利。今まで義務のことばかりで権利までは考えたことがなかった。
「義務と権利はセットだよ。こんなこと、中学でも習うよな?じゃあさ、お前が義務を行った代わりに一体何の権利を得ることが出来るんだ?」
僕の権利。
江戸を、東京を護る義務があると教えられ、それは徳川のためであると小さい頃から呪文のように繰り返し刷り込まれてきた。今、徳川が僕に何をしてくれるのだろう。義務を果たす代わりに何を得るのだろう。
「そ、それは…。」
そこまで考えたことがない。飛水流であるから、玄武であるから、特殊な能力を持つから人々のためになれ、そう言われてきただけで。
「お前が得るはずのものを俺たちが手伝うことで邪魔をするなら無論、ここは引く。だけどさ、話を聞いていると、得られるものは、忍者のプライドだけじゃないか。なるほど、そのプライドは大切かもしれない。だけどな、そのためだけに、お前がどうにかなっちまったら本末転倒だ。無事に終わらせてこそのプライドだろう?違うか?」
まさに正論。僕はぐうの音もでなかった。
確かに得られるのは飛水流としてのプライド。
それも指摘の通り、無事に終わらせることが前提なのだ。
当然といえば当然の指摘に知らずに忍刀を握っている手に力が入る。
「それに、あいつら、結構強かったぜ。お前がどれくらいの力の持ち主かは知らないが、あの頭数、一人でってのは無理がある。」
確かに。僕一人が相手に出来る人数には限界がある。
しかも、今回の事件は僕の考え間違いがなければ関わっているのは鬼道衆の水角である。とすれば、僕の技のほとんどが効果がない危険性を孕んでいる。
それでも。
僕は、鬼道衆との戦いに彼を巻き込みたくなかった。
彼には何も知らないでいて欲しい。彼が黄龍の器であること、菩薩眼の少女との関わりも、そして僕の玄武という立場さえ。
彼には、元の彼のままでいて欲しかった。
これから段々と熾烈になっていく戦いの中で、もしかしたら誰かが命を落とす事だってあるかもしれない。
みんなに普段見せている態度とは裏腹に、本当は優しい彼が、その度にまた傷ついて涙するのをもう見たくないから。
いつものように、笑って赤毛の男と軽口を飛ばしていて欲しかった。彼の笑顔が一番僕は好きだから。
「やはり、僕一人で行くよ。これが君たちのためでもある。」
そういい置いて地下への入り口に入ろうとした。
「如月ッ!」
いきなり背後から絶叫に近い呼び声がし、振り返ると彼はがば、と座り込んで地面に両手をついた。
「頼むッ!このとおり、土下座でもなんでもするっ!だから、一緒に行こうっ!」
そう言った彼の顔は真剣そのもので。瞳に強い問いかけを乗せて射抜くようにまっすぐに僕を見ている。
土下座。
僕は瞬時にその意味がわかってしまった。
そう、あのとき、彼は言っていたのだった。
『俺、もー、誰も知ってるやつ死なせたくない。…もしも、この先、そーゆーコトになったらさ、俺、土下座してでもそいつを止めようって思う。』
そう、彼にはこの戦いが僕にあまり勝ち目がないことを分かっていたのだ。
属性云々というより、そう判断したのは単純に頭数の話であろうが、それでも彼は僕一人では危ないと判断したのだろう。
僕を死なせたくない。そう思っていてくれるんだろうか。
こんな僕の命を惜しんでくれるのは、それが例え武器調達のためだけだとしても嬉しくて。
少しでも君の力になれるだろうか、君の仲間として戦ってもいいのだろうか。
彼には全てを知られずに、秘密裏に動こうと思っていたけど、遅かったようだ。もう星はとっくに巡っている。僕はとうに彼に捕まってしまったのだ。
こうなるのは必然だったに違いない。
彼に歩み寄ると腕を取って立たせようと引っ張りあげた。
「わかったから…そんな真似はやめてくれ。」
どうして僕なんかにそんなことができるのだろう。僕など、愛想もよくない、ただの骨董屋に違いないのに。
「…全く…。ホントに土下座するなんて…。」
本当は嬉しかったのに、素直じゃない僕は呆れて呟き、その言葉に彼は笑顔で返す。
「いつでも、俺は本気だぜ?」
確かに、そうらしい。今ようやく分かったよ。
微笑むと彼も満足そうに笑った。
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