ファロン様がデュナンから帰ってきたのは実に1週間後のことだった。
迎えに行ったアレンとグレンシールの二人だけでなく、デュナン軍の軍主の姉であるナナミ様と、以前シェイ殿と一緒にうちに来た二人の騎士も一緒らしく、すぐには家に戻っては来ずに、一度城の方に向かって行ったらしい。
早くしないと支度が遅くなってしまうのに、とやきもきしながら待っていたがファロン様はなかなか戻ってこない。どうやら彼女たちを迎賓館に送り届けにいったようだった。
そういった行いは非常にファロン様らしいのであるが、予定が大幅に崩れてしまい、それをどう立て直したものか頭の中で散々考えながら待ち続けること数時間。ようやく戻られた頃には既に日は傾いていた。
「こんなの着るのぉ?」
急いで支度をしていただこうと出したドレスに明らかに嫌そうに顔をしかめて恨めしげに私を見る。
顔にはしっかりと『こんなものを作らなくてもよかったのに』とか『着たくない』とか書かれていたが、今日のパーティーの主旨を考えるとそうもいかない。
何しろ、今夜の舞踏会はファロン様の婿探しも兼ねているのだから。
ミルイヒ元将軍のお節介、といってしまえばそれまでなのだが、実際ミルイヒ元将軍以下、トラン解放軍に参加していて現在もトランにいる人間のほとんどが、ファロン様にはそろそろ腰を落ち着けてグレッグミンスターにとどまり、よき伴侶を得てほしいと思っている。
レパントはもう国政の中心に据えることは諦めたようだが、まだファロン様の幸せを願うことは諦めてはいなかった。
それはレパントだけではなく、周りの人間もみなそうらしく、この会が催されることになったのである。
「舞踏会ですから。その格好で行くわけにはいきませんでしょう?」
本当はローズピンクとかそういった色を選びたかったのだけれど、おとなしくドレスを着ていただくためにも、淡いブルーにした。
普段は赤い服を着ているけれど、本当は青の方が好きだということを知っているからこその選択である。
「まず、お風呂に入ってきてくださいな。」
バナーから山道を急いできたというファロン様は、途中、何回か戦闘があったようで、全身土ぼこりをかぶって薄汚れている。さすがにそんな汚れた状態でドレスを着せるわけには行かないからそう提案をすると、本人も今の状態が気持ち悪かったようですんなりと頷いた。
バスルームに向かう後姿を見送りながら、ドレスにブラシをかけておく。
シンプルなデザインのシルクのドレス。無頓着な割には好みがうるさいファロン様は、あまり豪華だったり、ごてごてとしてたりするとそれだけで着る気を失うし、実際そういったドレスはあまり似合わない。
だから本人の飾らない人柄をそのまま表すようなシンプルなドレスが一番いいと、そうしたものを誂えた。
そして今日のために選んだ宝石は、亡き奥様の形見であったブルーダイヤのネックレスとイヤリング。
テオ様がいつかファロン様が結婚なさるときに渡そうと大事に持ってらしたそれは、とうとう実際に手渡しすることはできなくなってしまった。
その後もトランを出奔され、残された私が家の片づけをしている際に見つけたそれはテオ様の部屋の戸棚にしっかりと鍵をかけてしまってあった。
中にはおそらくテオ様が贈ったのであろう宝石がいくつもあり、それらは大事に整理されていた。こういうことからも奥様のきちんとした性格がよく分かる。
そして、中に入っている宝石は全体的に青い石が多いのも、ファロン様が青が好きなのも、偶然なのか、必然なのか私には判断できないけれど、何故か少し泣けてしまった。
「少し、痩せたのね。」
自分の記憶に残るサイズでドレスを作ったのに、実際に着てみると少しだけ脇が余る。
トランを出る前、解放軍にいた頃はもう少しだけふっくらとしていた。
いや、そういうと語弊があるかもしれない。解放軍にいた頃だって、決して太ってはいなかった。だけど、今はもっと痩せてしまったのだ。
トランを出ている間、どんなに辛かったのか、その体格が物語っているような気がして不覚にも再び涙ぐんでしまう。
「変…かな?」
心配したファロン様が尋ねるのに、慌てて涙を袖で抑えて首を振る。
「いいえ。これぐらいだったら大丈夫ですよ。」
脇を少し詰めてやりながら明るく答える。
少し痩せてはしまっていたが、それでもまたこの家に戻ってきてくれたのだ。そう思うだけでとても嬉しい。
正直な話、もう二度とここへは戻ってこないんじゃないかと思っていた。この家にはファテオ様との思い出が詰まっている。テッド君だってここにいた。一番楽しかった頃の思い出がぎっしりと詰まったこの家は同時に激しくファロン様を苛むだろう。
テオ様を手にかけてしまったことは一番辛く悲しい出来事だったから。
この家にいると嫌でもそれを思い出してしまうから。
その辛い思い出を呼び起こしたくなくてトランを出たのでは、とも思っていた。
だけどもう一度ここへ戻ってきたのだ。
それだけでも嬉しかったのに、デュナン軍に遊びに行っても、ここにまたこうして戻ってきてくれる。
ようやく自分が一人でこの家を守っている意味が見出せたようでとても嬉しかった。
この家を守っていてよかったと心底思ったのだ。
「…こんなの…似合わないよ。」
脇を詰め終わった後、ドレス姿を鏡に映したファロン様は無表情なままぼそりと呟いた。
こういった服を着慣れていないせいかもしれない。だけど実際にはよく似合う。
テッド君からソウルイーターを受け継いだときのまま、15才の姿で止まってはいるけれど、身に纏う雰囲気は子供時分のそれではない。時間が止まっていなければもう20歳。それに相応しい雰囲気を感じさせるときがある。
だからこそ、こういった服装も似合うようになったのだろう。
だけど、同時にあの明るい笑顔も消え去ってしまった。作り笑いや愛想笑いなんかじゃない、私たちが大事にしていたあの屈託のない、見るものを幸せにする笑顔。
「そんなことはありませんよ。…さあ、こちらに。」
髪のセットと化粧のために鏡台に移動した。よく練られたシルクのシンプルなドレスはファロン様の動くとおりに形を変えてつき従う。薄い青のそれは彼女をより細く見せる。
鏡の前に座ったファロン様はそれでもまだ納得していないようで、少しだけ口を尖らせていた。
そんなところだけが、子供の頃のままで。
「ええと。まず、髪を結いましょうか。」
洗いっぱなしの髪を一房とる。それはもう随分と長くなってしまい、肩の辺りを越えていた。
元来、そういったことに執着を見せないファロン様は、昔からいつも無造作に束ねてバンダナの中に入れているので髪なぞついぞちゃんと結ったことがない。
今、こうして伸びているのだってただ旅の途中切っていなかっただけで、おそらく伸ばしているわけではない。
こだわりがあるわけではないから私のするに任せてくれて、やりやすいのは有難い。
あまり凝ったものは嫌がるだろうし、ドレス自体もシンプルであることからアップにして、両サイドに一筋づつ、耳の辺りから落とすだけにとどめておいた。アップにした部分にはあらかじめ用意しておいた小さな花をあちこちに挿していく。
「髪はこれでいいですね。…それじゃあ、次は…。」
用意をしておいたアクセサリーを手にして、それをつけようとしてふと首のあたりで視線が止まった。そこにかかっているのは、ファロン様がとても大事にしているネックレス。青い石のついたもので、それがファロン様のものになって以来、ずっとそこにある。
他にそういったものを持ってないということもあるが、もう一つ、それは重要な意味があった。
その意味を知っていても私は声をかけてみた。
「…ファロン様…お母様の形見の…ブルーダイヤのネックレスを用意しているのですが…。」
その言葉にファロン様は静かに首を振る。
「これでいいわ。」
「でも…。それは…。」
私が言葉を選びながら言おうとしていることが分かったのか、ファロン様は苦笑してからもう一度首を振る。
「ごめんなさい。…これがいいの。」
首にかかっているのはラピスラズリとトルコ石のついたネックレス。細工も石のクラスもお粗末で、決してお世辞にも高いとはいえないそれは、どう見てもシルクのドレスには不釣合いで。
だけど私は何も言えず、頷いて、逆にそれにあわせるように慌てて奥様の形見の宝石箱から小さなトルコ石のイヤリングを取り出した。
「それでしたらこちらのイヤリングの方が似合います。」
ファロン様は頷いてからそれを受け取って自分で耳にとつけた。
首に片時も肌身離さずつけているのは、トラン解放戦争のさなかにフリックさんに貰ったネックレス。それがファロン様とフリックさんをつなぐ唯一のもの。
ファロン様にとって何者にも替え難い大事な物。
それをつけて舞踏会に行く意味を何人の人間がわかるだろう。
化粧の準備をしながらそう思う。
あれが解放戦争中、フリックさんから贈られたものであることは解放軍の中では有名な話だった。フリックさんがどういう意味を込めて贈ったのかは定かではない。ただ単にカクで踏んづけてしまったからとか、愛情を込めてだとか、人によって言うことはさまざまである。
だが、受け取ったファロン様はそれを後生大事にし、貰ってからずっと肌身離さずつけ、最終決戦もそれをつけていた。
以後、トランを出奔するまでファロン様の首にはあのネックレスがあったのだ。
そして、先日、トランに戻ってきたときも。
それほど大事にしているのだからやはり今でもフリックさんのことを大切に思っているのだろう。
それに、もうひとつ、ファロン様が肌身離さず抱いているアレ。
おそらくアレをファロン様がネックレス同様に大事に持っていることや、どういった物でどうしてファロン様が持っているかを知っているのは私とグレミオ、パーンぐらいなものであろう。
しかし、それがフリックさんのことをどれだけ好きでいるかを証明しているようなものである。
ファロン様はまだ、フリックさんを忘れてはいない。
なのに、どうしてここにフリックさんがいないのか。
私は少し口惜しい気がした。
デュナン軍の戦況がまだまだ予断を許さないものだということは分かっている。だけど、ファロン様がこれだけの思いを持っているのに、どうして放っておくのだろうか。
なぜファロン様の思いをわかってやらないのか。
「クレオ。…何か怒ってる?」
不意にファロン様に尋ねられて思わず瞠目する。
鏡に映ったファロン様の表情は私を責めたりするようなものではなく、むしろ労わるようなものだった。
「いえ…なんでもありませんよ。」
勤めて明るく言うとわかったというように小さく頷いてまたパウダーが入らないようにきゅっと目を瞑る。
ファロン様にパウダーをはたき、ファンデーションを入れ、アイシャドウ、マスカラと順番に化粧を施していく。ファロン様はもうすっかりと観念したのか大人しくされるがままになっていて、ずっと口も利かないでいる。
「できましたよ。」
やはりあの時とは随分雰囲気が違う。
艶が出て、もはや貴婦人と言っても差し支えのない様子に、私は小さくため息をついた。
解放軍当時からかなり人気があったのに、これでは当時、ファロン様のファンだった者たちはまた煽られるだろう。
いっそのこと、トランにいるものを婿にしてしまえばどんなに楽なことだろう。
マクドール家は安泰し、ファロン様はグレッグミンスターから離れることはない。
だが、それは所詮ありえない話。
ファロン様が苦しむだけなのだ。
時間が来て、玄関には迎えがやってくる。グレミオが応対しているのを聞きながらファロン様はケープを外して鏡台の前から立ち上がる。
すぅ、と静かな動作で玄関に出て行くファロン様の後について見送りをする。
「行ってらっしゃいませ。」
頭を深く下げると、笑うこともなく小さく頷いてから外へと歩み出る。
そのまま冷たい横顔を残して城へと向かうファロン様。
私は閉じられたドアを見つめながら心の中で繰り返す。
フリックさん、どうかファロン様の気持ちを分かってください。
ファロン様がまた心から笑えるように、泣かなくてもいいように。
幸せになれるように。
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