「ああ、やはりここにいたんですね。」
そういって隣の空いた席に座ったのはグレミオで、穏やかに、傷の残る顔を綻ばせた。
座る前に注文を済ませておいたらしく、すぐに彼の前にはジョッキが置かれる。
酒場は最も混む時間帯をすぎ、もう深夜近くになってきて看板も近い。あいている席はここだけではないのに。
何杯も重ねた杯をさらに煽って、われながら酒臭いと分かる息をグレミオに向かって吐き出した。
「ここにはファロンはいないぞ?」
そういうと、当然とばかりにグレミオは頷いた。
「フリックさんと少し話をしたくて参りました。」
その顔は笑っているけれど、瞳は決して笑ってはいず、否も何も聞き入れない、という強い意志が揺らめいている。
いつもは穏やかなこの男がこういう目をするときにはファロンでさえも敵わない。
俺は仕方なく頷くことにした。
話の内容は大体予想がつく。
「大変にお世話になりましたが、明日トランに帰ることになりました。」
知っているでしょう、という含みを持たせた言葉に俺はああ、と短く返事をする。
今日の昼、トランからの正式な使者としてアレンとグレンシールの二人がシーアン城に到着した。ファロンを迎えに来た、と言っていたから当然付き人であるグレミオも一緒に戻ることになる。
グレッグミンスターでは建国記念日に合わせてミルイヒ元将軍主催で舞踏会を開くから、それにファロンも出席させるんだと二人が言っていたのを思い出した。
「ファロン様はしばらくグレッグミンスターにいるおつもりです。」
「………。」
無言でいると、グレミオはジョッキを仰いで、ふぅとため息をついてからまた話し出す。
「ねぇ、フリックさん。あのときの約束、覚えてますか?」
約束?
俺は一瞬なんのことか分からず、何か約束なんかしたっけかと思い出そうとして目が宙を彷徨ってしまった。
そんな俺の様子にグレミオは盛大にため息をついてじろりとこちらを睨む。
「グレッグミンスター突入前夜、と言えば分かりますか?」
そこまで言われて俺はあの時のことをようやく思い出した。突入前夜、ワインを持って現れたグレミオと一緒に飲んだときのことだ。
ファロンを守ってほしいと、グレミオに言われたのだ。
しかし、そのときの約束の話をなぜ今になって持ち出すのだろう。あの突入作戦は成功し、バルバロッサは倒れ、トラン共和国が建国した。俺はソウルイーターの力を、ひいては自分の魔力を使い果たしたファロンを無事にグレミオの元に返したのだ。
「…約束は…守ったろ?…ファロンはちゃんと生きておまえの元に帰った。」
「体だけは、ですがね。」
グレミオの酷く棘のある言い方もそうだが、体だけ、という言葉にひっかかりを覚える。
「どういう意味だ?」
グレミオは何か嫌なものでも飲み込んでしまうように、ごくり、と喉仏を上下させてビールを嚥下する。
「あなたが無断でトランを出奔してから、ファロン様は抜け殻のようになってしまいました。戦いの疲れとショックからしばらくは寝たきりでしたし、トランを出てからも、ファロン様はずうっと心に深い傷を負ってしばらくは笑うことさえもできなかったんです。」
寝たきり、という言葉に酷い衝撃を受けた。どんなに倒れそうになっても、危ういところで踏みとどまっていたファロンがよもや倒れるなどとは到底考えても見なかったのだ。
いや、そういうことがあったとしても少しも不思議はない。
ずっと無理をしていた。常人ならばとうに倒れていてもおかしくない状態で、ずっと戦ってきた。
でも、いつも大丈夫だったから、きっと元気ですごしていると思っていた。
戦争が終わって、グレッグミンスターに入城して、みんなに囲まれて、きびきびと解放軍を動かしているものだと思っていた。だからファロンがトランを出たのをいまひとつ理解できなかったのだ。
「どうして…。」
「それを私に問うのですか?」
グレミオの厳しい目はまっすぐフリックを射抜いていて、それは決して許さないと、物語っていた。
「ファロン様をそんな風にして、約束は守ったと、そういうのですか?」
グレミオの優しい口調ではあるが、厳しい質問にフリックは言葉を失う。
自分一人がいなくてもファロンは変わらないだろうと、そう思っていたから。
「…オデッサさんの悲願を叶えたかったあなたのために、あんなに傷ついてぼろぼろになりながら、戦ったんです。何よりも大好きなあなたがそう望んでいたから。ファロン様には大統領なんてどうでも良かった、フリックさんさえいてくれたら、それだけでよかったんです。」
グレミオは悔しそうに唇をかんだ。
そんなこと、何も言ってなかった。ファロンはいつだって笑ってて。つい先日、再会した時でさえ何も言わないで、会えて嬉しかったとだけ。
そうなのだ。
いつだって笑ってて、苦しいことだってなんだって一人で抱え込んでしまうんだった。
そして他の人が幸せならばそれでいいと、自分を犠牲にするんだった。
そんなの自分が一番知っていたはずなのに。
「それでも、あなたが約束を守ったというのなら…私はもう遠慮はしません。これからは私がファロン様を守りますから。」
グレミオはそういうとジョッキに残っていたビールを一気に煽って、だんっ!と勢いよくテーブルに置き、ポケットからコインを数枚とりだしてその横に置いてから席を立つ。
「今度は、負けませんから。」
そういい残してグレミオは酒場から出て行った。
「…くそ!!」
フリックは思わず頭をかきむしる。
ファロンを守ったつもりだった。
飛んでくる矢から彼女を守り、外へ逃がしてやった。それで彼女を守りきったと思っていたのに。
実際は守るどころか体を壊してしまうほど悲しませていた。
どうしたらよかったのだろう。どうすればいいのだろう。何を間違ったのだろう。
頭の中をぐるぐるといろんなことがよぎっていく。
なぁ、ファロン。おまえは何をしてほしかったんだ?
ぼんやりと笑顔を思い浮かべながら考える。
大勢に傅かれているのは幸せじゃなかったのか?地位も名誉も財産も、どんなものでも望める立場にいたのに、それはおまえの幸せではなかったんだろうか?
なぁ、ファロン?俺はおまえが幸せになってほしいと思っていた。
どうしてこんなことになったんだ?
どうして…?
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