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トラン義勇軍の腕はみるみるうちに上がっていて、今日などはもう1時間以上もかかってしまっている。これだけ強ければもうデュナン軍の足を引っ張ることもないだろう。
 逆にあまり表立って稽古を続けてしまっていてはデュナン軍に危機感を抱かれる恐れがある。無論、幹部連中はシェイも含めてそんな変な勘繰りをするような輩はいないことはわかっているが、そうではない、下級兵士や城内に住む一般人の方が疑り深いのだ。もともとジョウストン都市同盟と赤月帝国、トラン共和国は長い間いがみあってきたから、その不信感が互いに一朝一夕で消えるわけはない。たとえフリックがデュナン軍の創立メンバーとして最前線で戦っていても、だ。
 もうこの辺で稽古を見るのを止めたほうが良さそうだなどと、そんな余計な事を考えていたからだろう、一兵士の無謀ともいえる体当たりをかわすのが遅れ、だから、力加減ができなくなって思い切り殴ってしまったのだった。
 
 「意外と心配性なんですね、ファロンさん。」
 びっくり、という大きな瞳で、いや、もとから大きいのだが、ともかく顔の半分はありそうな大きな瞳をくるくるとさせてトウタがファロンを見つめている。
 ここは医務室。
 さきほど間違って思い切り殴ってしまった兵士を抱えてファロンはすぐさまここにやってきた。顔面蒼白で、普段は冷静な彼女があまりに慌てていたので、ホウアンは何ごとかと驚いて急いで兵士を診察したが、結果、なんの心配もなく、ただの打ち身だということが判明した。
 おろおろとするファロンにトウタもホウアンも微笑しながらほら、とばかりにその兵士の背中を見せた。そこにはくっきりとファロンの棍の痕が残っていて、これは数日彼の背中に残るであろうことは簡単に予想される。
 でも心配性、とレッテルを貼られたファロンはやはりそのレッテル通りに眉を寄せてホウアンに尋ねる。
 「でも、ほんとに平気でしょうか?」
 「ええ、大丈夫ですよ。これが頭だったらあるいはどうにかなったかもしれませんが、幸い背中でしたからねぇ。」
 ファロンの眉間の皺がそれ以上深くならないように、と穏やかな笑顔を浮かべたホウアンは傍らにいるトウタに兵士の背中に湿布を貼ってそれがずれたりしないようにテープで固定するように、と指示を出す。
 「よかった…。」
 ほっとしたように胸をなでおろすファロンは、本当に普通の少女で。
 ホウアンはようやく彼女が納得してくれたのに安堵して、隣の診察室へと次の患者さんの治療をするために戻っていく。
 残ったトウタはホウアンの指示通り、シップを作るため、布に湿布薬をパレットナイフで塗りつけながら、それでもなお心配そうに眉をひそめる彼女を伺い見る。
 トウタから見ると、この人が偉い人なんだよ、と言われてもいまひとつ実感がわかない。
 トウタもよく見知っている、デュナン軍の前身となったミューズの傭兵部隊の隊長、副隊長二人を従えて、トラン解放戦争を戦ってきた人だって聞いたけど、とてもそんな風にはみえない。腕なんかとても華奢で、ビクトールの丸太のように太い腕をもっているわけでもなく、背中にくくりつけてあるのは棒1本で、フリックのように綺麗に手入れされた切れ味のよさそうな剣というわけでもない。
 棒1本しか持たないこの人が、あの二人や、ハンフリーさん、タイ・ホーさん、シーナさんなどを従えていたなんて到底信じられない話なのである。
 「…ほんとにごめんね。」
 ファロンはうつ伏せでベッドに寝かされている兵士に謝った。
 「い、いえ!私のほうが悪いのですから!」
 「そんなことないよ。…なかなかいい攻撃だった。」
 「お褒め頂き光栄であります!」
 兵士はどう見てもファロンより年上で、その年上が緊張した面持ちでファロンにいちいち馬鹿丁寧な言葉を使って返事をしているのがトウタには不思議で仕方がない。
 でも、こうした風景をみるとやはりファロンは偉い人なんだなぁと実感する。
 「何か?」
 治療の手が止まったトウタをファロンが不思議そうに小首を傾げて見た。
 「あ、ごめんなさい!」
 トウタは慌てて手を動かし始める。
 「大丈夫?まだ痛む?」
 「いえ、もう大丈夫でありますっ!ご迷惑をかけて申し訳ありません!」
 ファロンと兵士とのやり取りは相変わらず不思議なもので、加害者であるはずのファロンに被害者であるはずの兵士がしきりに謝っているのもトウタにとってはなんだかおかしかった。
 「…ファロンさんって偉い人なんですねぇ。」
 湿布を兵士の背中にペト、と貼り付けながらトウタが言うとファロンは思い切り首を振る。
 「偉いって言うなら、ホウアン先生の方が偉いでしょう?」
 ファロンの言葉に今度はトウタの方がきょとんとして。
 「…ホウアン先生?」
 「うん。」
 そう頷いた仕草さえもトウタにはやはり偉い人には見えなくって。
 でもやっぱりその言葉には納得ができない。
 別にホウアン先生が偉くないってわけじゃない。でも、ここでホウアン先生とシェイのどちらが偉いかって言われたらシェイだし、似たような立場にいるファロンのほうがやっぱり偉いんじゃないかって思い、トウタはもう一度尋ねてみる。
 「でも、僕、ファロンさんはとっても偉い人なんだって聞きました。トランで一番偉い人なんだって。」
 すると、ファロンさんは少し困ったような顔をする。
 「私、今はただの一般人なんだよ?」
 その言葉に兵士が慌てて首を振る。
 「そんなことはありませんっ!」
 それを目線だけで制しておいて、ぐ、と兵士が言葉に詰まるとよろしいとばかりに頷いてからもう一度トウタを見た。その視線の鋭さが先程まできょとんとしていた目と同じものだとは到底思えなくって、トウタは初めて彼女がやはりリーダーだったんだと少しだけ実感する。
 「トランの国で一番偉いのは国民。その国民を代表しているのがレパント。…レパントは代表しているけど、だから偉いってわけじゃない。」
 わかる?とたずねられ、トウタがこくんと頷くとにっこりとしてさらに続ける。
 「そういった意味では私も国民の一人であるから偉いといえば偉い。だけどね、誰より偉い、というのではないんだよ。」
 噛んで含めるような説明にトウタは頷かざるをえず、だけど、それはトウタの思っていることとは少し違う。だから勇気を出してもう一度聞いてみた。
 「でも。ファロンさんはリーダーだったんでしょ?みんなの先頭にたって一生懸命に仲間を集めて、戦ったんでしょう?」
 それは今、デュナン軍でまさにシェイがそうしていて、それがゆえにシェイはここでは一番偉い軍主という立場に立っている。
 そのことは目の前で寝ている兵士もそう思っているらしく、わずかに首が上下に振られている。それに助けられたようにさらに言葉をつなぐ。
 「だって、フリックさんもビクトールさんもファロンさんの部下だったって。僕、ビクトールさんもフリックさんもすっごく強いの知ってるもん。」
 勢い込んでそういうと、ファロンはまた少し困ったような顔をしていた。
 「それは偉いんじゃない。…戦うことが偉いなんて思っちゃいけない。戦わずに済めばそうするにこしたことはないんだ。…いいかい、トウタ。戦いは何も生まない。私は確かに先頭に立って戦ってきたけれど、何も生んではいなかった。…人の命を奪っただけで…。」
 そういったファロンの顔が少し辛そうに見える。
 「それよりも、ホウアン先生みたいに、人の命を救うことができる人のほうが私は偉いと思う。傷ついたり、病んだりしている人々を治すことができる。それはね、戦争よりも遥かに偉いことなんだ。ホウアン先生の仕事は命を繋ぐことができる。奪うしかできなかった私とは大違いだ。」
 そうしてからファロンはぽん、とトウタの頭にその手を置いた。
 手は意外なほどに小さかったけど、ふわふわとなんだか心地のいい暖かさだ、と思った。
 「だから、トウタ。君はホウアン先生の下で一生懸命に勉強するんだ。ホウアン先生はいい医者だ。きっと、君にいろいろなことを教えてくれる。」
 そういってにこ、と笑うとファロンは椅子から立ち上がる。
 「じゃあ、悪いが私はそろそろ戻らせてもらうよ。本来ならば君を兵舎まで送っていったほうがいいのだろうが、君もほかの兵士の手前、まずいだろうからね。」
 そう兵士にいうと、うつ伏せになったまま、兵士はぴっと敬礼をしてみせる。
 「お心遣い、ありがとうございますっ!」
 「じゃあ、大事に。」
 そういってファロンは医務室のドアから出て行こうとする。
 「あ、そうだ。トウタ。」
 ドアノブに手をかけたところでファロンは立ち止まってトウタのほうを振り向いた。
 「はい?」
 「立派なお医者さんになりなさい。…人の体の痛みだけでなく、心の痛みもわかるような、ね。」
 そういってから、にこ、と微笑むと医務室の外へと出て行った。
 「…立派な、お医者さん…。」
 いつかはなれるんだろうか?トウタは口の中で小さく呟いた。
 ホウアン先生みたいな立派なお医者さんに、いつかはなれるだろうか。
 いつかは…なりたい。…きっと、なれる。だから、今は少しでもがんばってお手伝いをしなくちゃいけない。
 そう思いながら湿布を固定するべくテープを兵士の背中にぺたりと貼り付けた。
 
 
 
 
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