| 
酒場にはいつもデュナン軍の人間がたむろしていて、今日もそれに変わりはない。笑い声があちこちから聞こえる酒場にさえない顔でフリックが入ってきたのをビクトールはすぐに見つけてこっちだとばかりに手をひらひらと振ってみせる。「ありゃ?ファロンはどうした?」
 ジョッキを煽ったビクトールは木のテーブルに空になったジョッキを置くと一人で現れた相棒、フリックに尋ねた。
 「シェイに泣き付かれて持ってかれた。」
 がたん、とやや不機嫌そうに音をたてて座るとレオナにビールを注文する。ビクトールも続いて追加のビールを注文すると笑いながらフリックに言う。
 「さすがにおまえでもシェイには敵わないか。」
 「一応、招待主だからな。」
 本当は引き下がりたくはなかったけれど、ファロンがそうするというから。
 ファロンの意思ならそれに逆らうことはできないから、仕方なくここにきた。本当ならゆっくりと二人で過ごしたかったけれど。
 「で。どうなんだ?おまえ?」
 にやにや、と冷やかすような笑いを浮かべて尋ねるビクトールを無視して運ばれてきたビールをぐっと煽る。
 息が続くまでそれを飲んで、それからジョッキを置くと、大きく息を継ぎ、ついで不機嫌そうな顔でじろりとビクトールをねめつけた。
 「…何が。」
 「プロポーズとか、したのか?」
 プロポーズ、という言葉にフリックはむせ返り、ごほごほと激しい動揺の咳をすると咽喉を押さえながら鎮めるための深呼吸をする。
 「…なっ…ばっ…そんなのっ!」
 「してねぇのか?」
 呆れたような相棒の顔に、なんだか少しむっとして横を向くがその顔がさっきのプロポーズという言葉に反応して酔ってもいないのにほんのり赤い。
 「当たり前だろっ!」
 「暢気なもんだな、おまえ。」
 やれやれとばかりにため息をつくビクトールに、フリックはまだ少し赤い顔のまま再び睨む。ビクトールはフリックににらまれるのは今更痛くも痒くもなく、平然としたまま再びジョッキを煽ってから続けた。
 「おまえ、ライバル何人いると思ってんだよ。みんなキョーレツだぜぇ?まぁ、確かにおまえはちっとは顔がいい。俺には負けるけどな?そこそこに強い。これも俺には負けるけどな?お前の売りがそんだけだったらカミューだってそうだし、ファロンが青いのがいいってんならマイクロトフがいる。」
 フリックはむすっとした顔のまま、したり顔で話すビクトールにつきあっている。黙れとも何も言われないのでビクトールはさらに調子に乗って続けた。
 「さらに頭がいいってのが好みなら年が近くて美青年のクラウスだっているしな。知ってるか?キバ将軍、ファロンの親父さんをすごく尊敬してて、この間、ここで飲んでたときにファロンとクラウスが結婚してくれないかなんてゲオルグに言ってたらしいぜ?」
 「キバ将軍が!?」
 思わずその話にはフリックも驚いてつられてしまう。
 「ファロンは貴族だけど、武人の出、キバ将軍も貴族じゃないけど一軍を預かる身だったからな?似たような家庭環境だから合うかもしれないってな。…ああ、そういえば、二人とも母親を亡くしているしなぁ。」
 家庭環境。
 その言葉にフリックは黙り込む。
 ファロンはかつての赤月帝国の貴族の出、しかも王城前に大きな住居を構える家柄なのだ。自分はグレッグミンスター突入の際にちらりとしか見てはいないが、かなり大きな家だったのを覚えている。
 家庭教師をつけられ、何人もの人間に傅かれ教養豊かに、お嬢様、として育ってきたのだ。マッシュも驚くほどの頭脳を持ち、並みの軍師では敵わない頭と、伝説にさえなっている武術の腕前。
 自分とは違いすぎるのだ。
 同じトランでも田舎の小さな村の小さな家に育った自分。村の中の学校で、基礎的なことしか学んでない。それでも武術に誇りをもち、剣を頼りに生きてきたのに、それさえも未だファロンには勝てなくて。
 「そういや、クラウスはピアノを少し弾くらしくてな。今度、ファロンのバイオリンと一緒になんて言ってたしな。」
 先日、ファロンがバイオリンで演奏した曲はそういうことに疎いフリックでさえもすごい、と思えるものだった。人間、あまりに素晴らしい物を見聞きするとぞくりと鳥肌が立つ。まさにファロンのバイオリンはそれで。
 そこまでの技巧を身に着けるのに、おそらくファロンは小さい頃からやっていたのだろう、それこそフリックが世の中にバイオリンというものがあるということさえも知らない頃から。
 やはり違うのだ。
 ファロンと自分では立っている場所が違いすぎる。
 トラン解放軍の頃にはファロンがリーダーで自分が副リーダーで。だからいつでも隣にいたし、それが当たり前だと思っていた。だから忘れていたのだ、すっかりと失念していたのだ。二人の成り立ちには大きな違いがあるということに。
 オデッサも貴族で、トラン解放軍を組織したばかりの頃には慣れない野営に苦労をしていてそれに手を貸してやっていたし、だからこそ彼女がそういう育ちであるということを忘れたことはなかった。むしろ、分かっていたからこそ彼女に見合う男になりたいと思っていた。
 だけど、ファロンはそうじゃなかった。
 武人の家柄のせいか随分と逞しく育てられ、男でも辛い行軍を平然とやってのけ、だからこそファロンが貴族の、しかも名家の家柄であることを忘れていた。俺たちの間を当然の顔をして立ち回り、弱音を吐く部下を叱咤し、先頭に立ってやってのけたから、俺はずっと彼女の身分を忘れていたのだった。
 同じ貴族でもオデッサよりもずっと勢力の強い家の出身であるということに。強く、そして教養豊かに育てられたお嬢様であるということに。
 「おや?ファロンは一緒じゃないんですか?」
 急に頭上から降ってきた涼しい声にはっとして頭を上げるとそこにはカミューとマイクロトフが立っている。
 「フリック殿が酒場に向かったから一緒かと思って来たのだが…。」
 この二人もファロンがお気に入りなのだ。
 そう思うとなんだか急に悔しくなってくる。
 マチルダを出奔しているとはいえ、以前は名高いマチルダ騎士団の赤騎士団と青騎士団の団長を務めた身分。二人にだって、そういうものがある。
 なのに自分は何もない。
 「俺、部屋に戻る。」
 フリックは酒代をテーブルに置くと早足で酒場から出て行った。
 その後姿を見送りながらマチルダの二人が困惑したようにビクトールを見る。
 「なんでもないよ。ちっと薬が効きすぎたんだ。…ファロンならシェイのとこだ。当分戻ってこないぞ。」
 その返事を聞いて二人はどうするかとばかりに見合わせて、それから椅子を引く。
 「またいじめたんですね?」
 カミューの冷たい視線にビクトールはぶんぶんと首を振る。
 「いや、俺はただ事実をだな…。」
 「あの方は真面目なんですから。そんなことは付き合いの長いあなたのほうがとっくにご存知だと思いましたがね。」
 冷ややかな視線にビクトールはうっと詰まって、ごまかすようにジョッキを煽る。
 「何か、あったんですか?」
 これもまた生真面目なマイクロトフの質問にビクトールは困ってうにゃうにゃとごまかそうとした。
 「…人の恋路を邪魔するような野暮がいたってことだよ。…ファロンもかわいそうに。」
 ファロン、という名詞を聞いてマイクロトフの目が変わる。
 「何をしたんですかっ?」
 「わーっ、怒るなっ、怒るなって!」
 今にも掴みかかってきそうなマイクロトフの勢いにビクトールは顔を引きつらせる。馬に蹴り殺される前にマイクロトフに殺されかねないと、ビクトールは恐怖を覚えながらファロン病進行中のマイクロトフを宥めるのにやっきになっていた。
 
 
 
 
 |