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ファロンがシーアン城に招かれて4度目の朝がきた。結局、シェイたちは夕べ戻ってくることができず、そのままティントに泊まることになり、早朝の城内には軍主一行の姿は見えない。
 昨日シェイからファロンの見張りと話し相手を任されたマイクロトフは、朝から歩哨当番のために今日はファロンに付き合うことができないと、まだファロンの身支度も終わらないうちに伝令がそう伝えに来て、ファロンは彼の真面目な性格に改めて苦笑した。
 「おはようございます。」
 朝食をとりにサロンに入ると、やはりそこには軍主の姿はない。
 「おはようございます、ファロン。」
 あの穏やかな微笑でクラウスがすぐに答えてくれる。
 「申し訳ございません、シェイ殿はまだティントからお戻りになれなくて…。」
 いいかけたクラウスにファロンは笑いながら静かに頷く。
 「うん、構わないよ。大事な調印だからおそらく宴会にでもなるんだろうって思っていたし。」
 「そうですか、そう言っていただけると安心しますが。…ご招待したのに申し訳ありません。」
 「かえって堅苦しいお構いされるより、こっちのほうがいいかもしれない。」
 ファロンの言葉にくす、とクラウスは小さな笑いを漏らす。
 「それでは本日はどういたしますか?」
 「えーと…。」
 ファロンは小首を傾げて考える。
 先日、崖のぼりで欲しい商品は既に入手してしまったし、昼さなかから釣りなどをするには今日は天気がよすぎるようだ。かといって兵たちの訓練に付き合うほど元気はない。
 「ファロン殿、もしよろしければ本日は私がエスコートいたしますよ?」
 案が浮かばずにいたファロンに声をかけたのは、元マチルダ騎士団赤騎士団長のカミューだった。
 「カミュー…さん?」
 「ええ。昨日はマイクロトフがいろいろとご案内していたようですので。」
 にこにこと、城内の女性に大人気の王子様スマイルを浮かべたカミューは、ね?とファロンに問いかける。
 「今日はマイクが歩哨当番でお付き合いできませんから、私が。」
 とそこまでいわれてしまえば、ファロンだって無碍に断ることもできずに頷いて。
 「なんだ、ファロン、もてるな。」
 部屋の隅のほうの席のゲオルグからの冷やかしに、恥ずかしそうにぽりぽりと頬を掻きながらファロンは食事を取り始める。
 その様子にシュウは誰にも知られず薄く唇の端で笑っていた。
 
 
 「それではファロン殿、今日はいかがいたしましょうか?」
 まるで姫にお伺いをたてるような大業な仕草でカミューに尋ねられ、ファロンは少しだけ困惑した表情を浮かべる。人の気持ちに聡いカミューはファロンのその様子をすぐに見て取り、肩を竦めて尋ねる。
 「お気に召しませんか?」
 「…そういうの、慣れてないもので。」
 ファロンの言葉に一瞬だけ目を見開いて、それからさも愉快そうにくくくと喉の奥でカミューが笑うのを、ファロンは憮然とした表情で眺める。
 カミューにしてみれば、お姫様扱いされて喜びこそすれ、困惑する女性はそう多くは知らない。しかも、迷惑だと一蹴するわけではなく、慣れていないというのはこちらの気分を気遣ったのか、もしくは自然とそう出てしまったのか。
 しかし、彼女は姫とまでは行かなくても旧赤月帝国の貴族の出身、男性に傅かれて育っても可笑しくない身分だったはずなのに、とも思う。
 どちらにせよ、この年でまだ男慣れしていない、ある意味、生粋のお嬢様なのだ。
 「そうですか、それは申し訳ございません。…それでは改めてお伺いします。ファロン殿、どこか、行きたい場所はございますか?」
 「昨日、マイクにも言ったんだけど『殿』、いらないわ。」
 「承知いたしました。それではファロン。」
 それで納得したのかファロンはようやく考え始めた。
 「ほとんどのところはもう行ってきちゃったから、どこかオススメないかしら?」
 「それでしたら劇場はいかがでしょう?本日から、アンネリーたちがステージに上がっているはずです。」
 「アンネリー?」
 ファロンが不思議そうに首をかしげて尋ねると、カミューは頷いてから説明をする。
 「ええ、まだ年若い、少女といっても可笑しくないくらいなのですが、かなりの美声の持ち主なんです。」
 「へぇ…。」
 「彼女も私たちと同じ、宿星なのですよ。」
 ファロンはその言葉に興味をひかれ、劇場へと足を運ぶことにした。
 この城には星の元にいろんな人たちが集まっているのだ。これもおそらくシェイの人柄によるものなのだろう。うらやましいとは少しは思うが、そういった種々の人々をまとめる苦労もわからないではないので少々同情したりもする。
 カミューとともに劇場に入ると、そこにはすでにかなりの人が集まっていた。
 アンネリーたちはとても人気があり、公演のあるときはいつも混雑している。だけど今日はいつにも増して混雑しているようで、そんなことをカミューから聞かされたファロンは、おそらくそれはカミューがいるからに違いないとも思っていた。その証拠に混雑は自分たちがここについてからのほうが格段に酷いのだから。
 
 
 「さすがに綺麗な声だね。」
 演奏が終わり、お茶にするためにサロンへと向かう最中にファロンがそう感想を漏らすと、カミューも静かに微笑んでうなづいた。
 「ええ、そうですね。」
 「この間のコボルトダンスも面白かったけれど、ああいうのもいいね。」
 そんな話をしながらサロンに入ると、そこにはようやくティントから帰還してきた軍主とそのお供、軍師殿たちも揃ってお茶をしている。
 「あ、と。…軍議中でしたか?」
 ファロンが遠慮しようとするとシェイが慌てて首を振る。
 「ううん、もう終わってるから気にしないで中に入って。…ファロンもお茶?」
 「うん。」
 改めて中に入るとファロンはすとんと席についた。
 「…ごめんね、招待したのにほったらかしていて。」
 「ううん。好き勝手に遊んでるから気にしないで。」
 ファロンは申し訳なさそうに謝るシェイに笑いながら首を振る。随分と申し訳なく思っていたのか、シェイは安心したようにほっと息をついた。
 「今日は何を?」
 「さっきまでアンネリーさんの歌を聞いていた。…綺麗な声だね。」
 「そうでしょう?僕もそう思うよ。今日は何を歌ってたんだろう?」
 「今日はプッチーニの「私のお父さん」とか、椿姫の「花から花へ」とか。」
 「なんだそりゃ?」
 シェイの隣に座っていたビクトールが不思議そうに首を傾げる。
 「オペラの小曲ですわね。…ハルモニアあたりでは随分と演奏されている曲目ですよ。」
 テレーズが穏やかに答えるとシェイが納得したように大きく頷いた。
 「アンネリーって、元はハルモニアの名家の出身だって聞いたことがある。」
 シェイの言葉にファロンも彼女のもつ気品や礼儀の正しさを思い出す。確かに、一朝一夕で身に付いたものではない優雅さが彼女には備わっている。
 「なんだか、俺にはさっぱりわからねぇや。」
 お手上げ、といった様子でビクトールが、続いてフリックが肩を竦めるのを、カミューが苦笑しながら眺め、ついで言う。
 「でも、曲目の紹介もなかったのに、タイトルを知っているファロンもなかなかのものだと私は思いますよ?」
 その言葉に少々不愉快そうにフリックの眉が上がる。
 「そりゃ、ファロンはトランの貴族の息女だもんなぁ?」
 そんなフリックに気付かないのか、明るく言ったビクトールをファロンは無視するように、無言でお茶を一口飲んだ。
 「そういえばファロンさんも何か音楽を?」
 なにやら険悪になりつつある空気の悪さに、まずいと判断したのか、アップルが慌てて尋ねると普段わりとはっきりしているファロンが珍しく口ごもった。
 「ファロンはバイオリンやってたんだろ?昔、グレミオから聞いたぜ?」
 アップルの手前、なんとかファローをしてやろうとシーナが父から聞いた情報をファロンの代わりに答えると、本人であるファロンの困ったような表情はさらに深くなるが、アップルに気に入られたい一心のシーナは気付かずにさらに続けた。
 「しかもかなりの腕だって、昔自慢していたぜ?」
 やれやれ、といったふうにファロンは小さくため息をついてようやく口を開いた。
 「昔のことだよ。…もう随分触っていないし…第一グレミオは私のことに関してはかなりの親馬鹿だからな。」
 「バイオリンならそこにある。」
 シーナとファロンの会話に突然、低い静かな声が割り込んでくる。
 「シュウ…?」
 普段はあまり人の会話に割り込むようなことをしないシュウの言葉に、ファロンだけでなくシェイも、居合わせたほかの者たちも驚いて静かにお茶を飲んでいるシュウを見つめた。
 「弾いて見れば本当にうまいかどうかわかるだろう?」
 そういって彼が顎で示した先には、ピアノの横に無造作に立てかけてあるバイオリン。おそらく何かの戦利品に混じってこの城に運ばれてきたものだろうが、ここにあるというのは楽器を演奏するためにではなく、サロンのオブジェとしての役割であろう。
 「これ、調弦できてんのかよ?」
 「それは平気。このあいだピコさんたちが調律して行ったから。」
 アップルの言葉に、ファロンはそれでも動く気配は見せなかったが、末席にいたテレーズがそのバイオリンを取り上げてファロンの元へと運ぶ。
 「…私も聞いてみたいです。」
 グリンヒル市長代行にそういわれてしまって、招待客であるファロンは仕方ないといったようにバイオリンと弓に手を伸ばした。
 「……ツィゴイネル・ワイゼン。」
 ファロンはそう呟いてからバイオリンを構え、静かに深呼吸をして弾き出した。
 こうしてバイオリンに触るのは本当に久しぶりだった。
 グレミオはファロンにさまざまな教育を施したが、その中でもファロンが特に興味を持って学んだのは音楽と武道であり、それはやはり音楽を愛した母と将軍である父からの血であろうと思う。
 音楽は声楽もバイオリンもやっていたがファロン自身、武道ほど熱中することなく、そのうちに稽古もしないようになってしまったのを音楽の家庭教師はこぞって残念がっていた。ファロンの音楽の素養は素晴らしいものがあり、真面目にやればきっと成功するはずだと、将軍の娘だからというおべっかではなく、真実そう思ってグレミオに続けるように嘆願していたのはファロンの知らない話である。事実、ファロンの最も得意とする曲は難曲といわれるツィゴイネル・ワイゼンである。前半部の物悲しい旋律と後半部の力強い烈しい旋律のギャップが好きで好んで練習も演奏もしていたのだが、そのほかにもこの曲を選んだのには訳があった。
 ジプシー音楽であるこの曲をようやくマスターして父の前で演奏したときに、父は嬉しそうに目を細め、演奏の上手なことを褒め、そうして最後にぽつりと独り言のように漏らしたのだ。この曲にこめられた流浪の民の悲嘆と力強さを忘れるな、と。
 今になってみれば、その言葉に民衆の気持ちを知れという父のメッセージが、同時にバルバロッサ皇帝への想いもこめられていたのだとすぐに思いつくが、当時のファロンはその父の言葉の意味があまりよく理解できずにいた。
 難曲、といわれる後半の烈しい曲調をファロンはひとつの間違いもせず、驚くべき表現力を持って弾き、弾き終わるとほう、とひとつため息をついてバイオリンを元の位置に戻した。
 「疲れた。…休憩。」
 おどけたような声音で、いかにも悪戯っぽく笑って、ファロンはそそくさとサロンから出て行った。
 やはり、ここに来るべきではなかったかもしれない。そんなことを思いながら。
 
 
 「こんなところにいらっしゃったのですね。」
 ぼんやりと、風が湖面にさまざまな模様を描いていくのを木の上から眺めていたファロンにカミューが下から声をかける。
 慌ててファロンが降りようとするのをカミューは穏やかに制止すると、普段のあの優雅な物腰に反して、いかにも慣れたといった風に彼も木の上にするすると登ってきた。
 その様子に驚いているファロンに、彼女の隣の太い枝に納まった彼はにっこりと笑って言う。
 「私はね、グラスランド出身なんです。…こんなの、お手のものなんですよ?」
 悪戯っぽく笑う彼に、最初驚いていたファロンもやがてくすくすと声を漏らして笑い始めた。その様子に安心したように、カミューも微笑んで、そうしてからゆっくりと口を開く。
 「…ファロン殿。本当はバイオリン、弾きたくなかったのでしょう?」
 にこにこと微笑んだままの彼からそんな言葉が出て、ファロンは少し困ったような表情になる。
 肯定も否定もしないまま、カミューもその答えを聞こうともせずに目の前の湖に目を向ける。天気の良い今日は濃い青の湖面がきらきらと陽光を反射して綺麗な眺めである。
 「シェイ殿が心配していますよ。何か気に障ったのだろうかって。」
 まだまだ幼さの残る顔立ちの軍主は、みんなにいつだって心配をかけてしまうけど、でも時折鋭いときがある。ファロンは迂闊だったなと、内心で舌打ちをして、それでも表情には出さずにカミューに尋ねる。
 「それで探しに?」
 「いえ。…個人的な興味であなたともう少し話をしてみたくて。」
 カミューの言葉の真意を測りかねたファロンが一瞬困惑したような表情を浮かべる。
 「ああ、別にね、トランの英雄だからじゃなくて。…マイクが、あなたのことをとても気に入っていたみたいだから。」
 「マイク?」
 どうしてマイクのことが関係あるのかと視線で尋ねれば、あの王子様スマイルではなく、それはもう本当に可笑しそうに笑いながら答える。
 「マイクはね、とても真面目でその上不器用なんです。だから女性には今まで関心もなかったし、彼にとっての女性は守るべきもの、だけだったんですよ。だけどね。」
 そこで再びカミューは可笑しそうに笑う。
 「あなたに対してだけは違うみたいです。…だから、マイクがあなたの何を見てそう思ったのか、私は知りたいと思うんです。」
 「なんでそんなにマイクのことを?」
 「さぁ、なんででしょうねぇ?負けず嫌い、なのかもしれませんね。」
 にっこりと笑うカミューにファロンはやれやれと肩を竦めて。
 「別に大した話はしていない。昨日だって、どんな本を読むのかとか、あとサロンでお茶を飲んだり、崖のぼりに付き合ってもらっただけで。」
 「崖のぼり?」
 「とても興味ある賞品があったから。それだけ。」
 「…ふぅん。…なるほど。」
 でも、それだけでカミューにはなんとなくマイクロトフが彼女を好きな理由が分かりかけていた。
 初めて会ったとき、迎えに行ったとき、そしてシーアン城に来てからの行動で、マイクロトフがどうして頑ななまでの考えを変えるに至ったのか、カミューには分かる気がする。
 そして彼女のその言動が、マイクロトフだけではない、先の門の紋章戦争を戦った仲間達、それだけでなくデュナン軍のメンバーをもとっくに魅了しているのだと、カミューには分かった。
 いや。もしかしたら。
 くす、と小さく笑うと隣の枝の佳人は不思議そうに首を傾げる。
 「なんでもないのですよ。」
 カミューの返答に再び視線をデュナンの光る湖水に目を移した少女は。
 トランの英雄と呼ばれ、覇業を成し遂げた人物とは思えないほど普通の、ごく普通のなんでもない人間であろうとする。
 強すぎる腕と、怜悧な頭脳と、痛々しいまでのプレッシャーと、優しい少女の心が、何かひとつの小さなきっかけで崩れてしまいそうなバランスのもとに合わさるその危うさに保護欲を駆り立てられ、心を乱されているのだ。
 そう、人事ではない。
 きっと、自分も彼女に魅了された人間の一人になる日も遠くないとカミューは一人ごちた。
 
 
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