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午前中の稽古のときのファロンの宣言で城内は静かな興奮に包まれていた。あの、今はもう伝説となりつつあるトランの英雄が、己の全力をかけてデュナン軍につくそうというのだから。同時にデュナン軍擁する若きリーダーは、門の紋章戦争を戦ったときのファロンと同じ年であることからも、また、そのトランの英雄が彼をとても気に入っているらしいことからも、きっと彼はデュナンの英雄になるに違いないといった期待も含めてのことだった。
 随分と戦況は持ち直しているとはいえども少し先の予想もできず、ともすれば悲観的になりがちだった城内に、興奮と熱狂に近い勝てるに違いないという想いが満ちてきたのはやはりファロンのおかげといわざるをえない。俄かに活気づいた城内に、シュウは満足げに唇の端で笑い、シェイは素直に嬉しそうに笑い、ビクトールとフリックの二人はようやくなんとかなりそうだと笑いあった。
 そうして、ファロンは昔馴染みの面々に酒場に連れ出され、昔話と、今の話と、酔っ払った男たちの饒舌なまでの話に付き合わされて、ようやく抜け出したのは日付も変わろうかという頃。
 部屋に戻って、グレミオは今日も遅くなりそうだなと呟いてから窓を開ける。
 月明かりに照らされたシーアン城は静かで、この時間になると酒場で飲んだくれている連中以外のほとんどのものは寝静まっているようだ。
 ファロンはまだ眠る気にもなれず、散歩でもしたいところだったが各所に兵が配置されていて移動もままならない。
 しかし、月が誘うように煌々と明るく輝き、ファロンの後ろに長い影を落としている。
 「…いけるかな?」
 ふと思い立ち、窓に手をかける。
 身軽なサルよろしく、ファロンは窓枠の上側をしっかり掴み、足をかけて体を窓から出してしまうと、あとはするするとロッククライミングよろしく、石組みの壁を登り始める。
 オデッサ城にいたときも時折こんなことをしてマッシュに叱られていた。
 もちろん、堕ちればタダの怪我では済まされない。
 「ふー。」
 ようやく屋上庭園まで上ってくるとファロンは息をつく。
 「おんしはまるでサルのようじゃの。」
 「わっ!」
 急に耳元に飛び込んできた声にファロンは酷く驚き、思わず声をあげて後ずさってしまう。目の前に立つ影は月の光に逆行になって見えにくいけれどよく目を凝らせば、独特のシルエットと、怪しいまでの白い肌からそれが誰であるかすぐにわかった。
 その声の主はくくくっと喉で笑い、可笑しそうにそんなファロンを見つめている。
 「…脅かさないで下さいよ、シエラさん。」
 憮然としながらもファロンがいうと、シエラは腕組みをしたまま平然と言い放つ。
 「あれぐらいでそんなに驚くとは、おんしもまだまだじゃ。」
 「そりゃ、まだ20年そこそこしか生きていませんから。」
 ファロンの目の前に立つこの美少女は齢800を超える。真の月の紋章の保持者で、真の紋章の持つものの特長、肉体的には加齢しないという状態のまま長い年月を生きてきた。
 「ふふふふ。」
 シエラは笑いながらまだ烈しい鼓動の収まらないファロンを見ている。
 「どうしたんですか、こんな夜更けに。」
 「愚問じゃ。…夜更けだからこそ、であろう。」
 月の紋章の保持者は夜に活動をするようになる。そう、まさに今がシエラの一番活発に動ける時間であるのだ。
 「そうだった。…ではお散歩ですか?」
 「まあそんなところじゃ。…途中でサルを見つけての。後をついてきたのじゃ。」
 「サル…。」
 ファロンが憮然とするのに再び可笑しそうにシエラが肩を揺らす。
 「で、そのサルに何用ですか?」
 「別に用というわけじゃないのだが…。」
 シエラはその綺麗な顔の眉根を寄せた。
 「…ビクトールがうるそうて叶わない。先ほどもワインを持ってやってきてな。…悪い奴でないのはわかるが、どうにもあのクマのようなのはわらわの好みとはちと外れておる。…おんし、どうにかならぬか?」
 ファロンは笑い転げそうになるのをどうにか我慢して首を振る。どうやらビクトールはファロンたちと別れた後、シエラのところに行っていた様だ。
 「…どうにかって…いいじゃないですか。ビクトールみたいな人に好かれるなんて、やっぱりシエラさんすごいですよ?」
 「ふん。…どうせならもっと…。」
 「もっと?」
 ファロンが興味津々と言ったふうに身を乗り出した。
 「…美々しいほうが好みじゃ。」
 それでファロンはとうとうこらえきれずに爆笑する。
 「そんなに笑うでない。…まったく、3年前はあれほど憔悴しておったのが嘘のようじゃ。」
 呟くシエラの言葉にファロンはふと笑いを止めて、少し驚いた顔でシエラを見つめなおす。
 ファロンはシエラとは面識がないと思っていた。いつか、どこかで会っていただろうか。慌てて脳の中にある人物リストを繰るが、該当するデータなど出てこない。
 「なんじゃ、覚えておらんか。…無理もあるまい。…おんし、酷く憔悴しておって周りのことなど全く目に入っておらんようだったからの。」
 「どこで?」
 「…群島諸国じゃ。…おんしがトランを出奔して間もなくの頃じゃろう。…たまたま同じ船に乗り合わせたのじゃ。」
 「そうか、気付かなかったな。」
 あの頃のことを言われるとなんだか気恥ずかしくてぽりぽりと頭をかく。
 トランを出奔して間もなくの頃、まだファロンは全く気持ちの整理はついていなかった。だから闇雲にただあちこちを彷徨い歩くだけで、何を見たいのか、どこへ行きたいのかもわかっていなかった。
 「そうじゃろう。それにまだ、その頃はソレを使いこなせなかったであろう?」
 そういってシエラはソウルイーターをつつく。
 「今だって自信ないけど。」
 少し情けない顔でファロンが返事をすると、シエラは優しく微笑んで返す。
 「真の紋章はなかなか厄介じゃ。…継承してすぐには新しい主人には従わない。…時間をかけてゆっくりと紋章を従え、そうして初めて真の紋章の力が使いこなせるのじゃ。…おんしはもう随分時間をかけたであろう?」
 シエラの言葉にファロンは少し俯く。
 まだ4年、もう4年。それが果たして長い年月であったのか、短い年月であったのかファロンには判断できない。
 「…わからない。」
 「おんしにはもうその紋章を使いこなせる力は備わっておるはずじゃ。…紋章を恐れるな。…紋章は主人なのではない、紋章の主人たれ。」
 シエラの言葉を聞いて、何かに弾かれたかのようにファロンはぱっと顔をあげる。
 「そうでなければソレは周りの人間を喰らい続ける。…それが嫌なら、紋章を支配することじゃ。」
 にっこりと笑ったシエラに、ファロンはその言葉を復唱するかのごとく口の中で呟き、そうしてからゆっくりと頷いた。
 「うん。がんばってみる。」
 「そうじゃ、それでいい。」
 にっこりとシエラは微笑む。
 「ありがとう、シエラさん。」
 「シエラでいい。…なあに、礼には及ばぬ。…あのクマを引き取ってくれればよい。」
 「…そういうことか。」
 がっくりとうなだれるファロンにシエラはくすくすと笑いながらぽんぽんと頭を叩く。
 「われらの生は長い。…これからいろんなことがある。だから、少しでも前に向かって歩けるようにしなければの。」
 「うん。」
 頷くファロンにシエラはにっこりと微笑んだ。
 「では教授料をもらおうか。」
 「教授料?」
 きょとんとするファロンにシエラはゆっくりと頷く。
 「明日、クラウスと出かける予定だったな。そのときにでも、明日わらわとデートするように言っておいて貰おうか。」
 「クラウス!?」
 ファロンは思わず頓狂な声を上げてしまった。デュナン軍副軍師、シュウの片腕。常に穏やかな微笑を絶やさず、シュウに負けず劣らずの美貌を誇る。
 「シエラって…面食い。」
 呆れるファロンに構わずに、シエラは済まして答えた。
 「あの初々しさがいいのじゃ。顔が良くても腹が黒いのは好みじゃない。尻が青いのも範疇外じゃ。安心するがいい。」
 堂々と言い放ったシエラに、絶対にこの先ずっと叶いっこないだろうなぁと、ファロンは苦笑しているだけであった。
 
 
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