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もはや『教授ファン』というのは不可能なのではないか
坂本龍一がついにその「思想性」の一端をストレートに提示してきた。97年の年頭に行われた『ryuichi sakamoto playing
the orchestra 1997』で演奏された4楽章構成の大曲『untitled01』で、坂本龍一は、またしてもその作風を大きく転換してみせた。重要なのは、それがこれまでのように音楽的な動機からではなく、ほとんど『回心』とも受け取れるような思想・信条の次元からもたらされたということであろう。そうした変化は彼自身のライフ・スタイルにまで及んでいる。このようなプロセスを踏んで、作風が変化していくというとこは、今までになかったことだ。
『untitled01』の書き下ろしで、救済のヴィジョンを音楽的な表現で伝えるという試みに手応えを得た坂本龍一は、さらに一歩進んで、今『opera』という様式(しかし、彼独自の。)で彼の思想を明確に打ち出そうとしている。そう、それは、まぎれもなく「思想性」のものだ。事によったら、坂本龍一自身は、これは思想ではない、地球存亡の危機に際して、音楽家としてできることを自分なりに実践しているのだと言うかもしれない。しかし。それはやはり坂本龍一独特の「思想」である。「イデオロギー」と言っちゃうと社会通念上、政治性が強くなるので、言葉としてふさわしくないが、思想といえば、それは単なる形而上学に留まらず、生死にまたがる直覚と無意識のうちの理念性をも含むので、そういってかまわないと思う。
坂本龍一がやりだしたことは、時折開かれるバンド・エイドのようなチャリティー・コンサートなど著名音楽家の福祉・慈善活動とは、性質を異にするものだ。チャリティー・コンサートは、あまり込み入った理念性はないまま、膨大な聴衆を動員できるミュージシャンをまとめてステージに登場させることで、効率的に寄付金を集めるというものだ。そこに集まる聴衆の大半は、スターめあてで集まってくるのであって、特別に深い問題意識を獲得して帰るということにはならない。ミュージシャンは手段であり、全体として、極めてプラグマティックな発想に基づくイベントということができると思う。しかし、坂本龍一の『opera』においては、僕らは他ならぬ彼の思想に触れることになる。
坂本龍一は、8月10日付けのdiaryで、ほんの一端ではあるが、彼の「思想性」を明示した。しかも、思いっきり太字(笑)。前後の歯の話は、彼の発言の影響力に配慮してのクッションにすぎまい。事ここに到っては、もはや『教授ファン』というあり方はなじまないのではないだろうか。言い換えれば、好き嫌いとしての音楽の次元だけで、坂本龍一について言及するのは不可能だ、ということだ。勿論、音楽的な好悪や嗜好の問題は、坂本龍一が作曲家である限り存在し続ける。(両者をクリアに分離することは現実には不可能だが、ここでは話の都合上、とりあえず分離する。)それに加えて、僕らには坂本龍一の「思想性」とどう向き合うか、という新たな課題が生じたのだ。これは少々やっかいですぞ・・・・・・
僕個人について言えば、実のところだいたいYMOの第二期以降あたりから、坂本龍一に対してのみならず「ファン」というのは止めている。詳述は避けるが、「ファン」というのは、僕個人の見解によれば、未だ自我の完成していない思春期はやむを得ないとしても、偶像化された者とその崇拝者の双方にとって、あまり精神的に健康な関係の持ち方でないと思うのだ。それでも今だに便宜上「教授ファン」や「ファン・サイト」などといった言葉を自分に向けることがある。しかし、そこには常に前述のような含みがあるのである。ひとくちに言って、距離の取り方が大事だと思う。
僕は、最近の教授の発言はヤバイから、ともかく距離をおいて相対化しろ、といったネガティブなことを言っているので決してない。これまで坂本龍一を単なるポップ・スターとしか思ってなかった人達が混乱しやしないか、とちょっと心配なのだ。(とはいっても、そういうタイプの人ってこのサイトには来ないんだけどね(^^;;)つまり、基本的な前提条件として、いささかなりとも「個」の確立ができているか、どうかということ。坂本龍一は、幼弱な同化の対象としての単なるポップスターであることを完全に脱してしまったが、いずれはそれも不可避なことだと、僕らは暗に予測してはいなかっただろうか。
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