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『現代音楽の終焉』から坂本龍一の『オペラ』へ
「LIFE−坂本龍一オペラ 1999−NEWS! VOL.16」で、朝日新聞紙上で現代音楽論みたいなものを語ると告知された。生憎、僕は朝日新聞をとっていない。図書館で閲覧するか、知り合いにみせてもらおうと思っていたら、割と早くasahi.comに掲載してくれた。そうこなくっちゃ。朝日の販売員は傍若無人な野郎が多いので(少なくともウチのエリアでは)、今後、朝日新聞を購読する可能性は低いと思われるので、asahi.comの存在はとても助かる。

「現代音楽は終焉した」と語る、などと大仰な前置きがあったので、とうとう坂本龍一が「現代音楽」にとどめの一撃を加えたか、とさっそく興味津々に読んだ。・・・・しかし、そういう類のものではなかった。坂本自身が独自の一撃を加えたのではなかった。一般的な概略が語られただけだった。あいや〜、またジャーナリストの初歩的な戦術にひっかかっちゃた。それはともかく。

『僕は若いころ、バッハ以来250年の音楽の歴史を駆け足で勉強した。そしてやっと追いついてみたら、追いかける対象自体が消えてしまっていました。』

ひとくちに「現代音楽」といっても、現在では種種雑多で、煩瑣を極めている。この場合は、西欧音楽の論理や理念の変遷を受け継いだ形での「現代音楽」ということだ。それなら、確かに「現代音楽は終焉した」のだ。といっても誰かがとどめを刺したから、そうなったというよりも、論理や理念としての西欧音楽が自ら窒息状態に陥って、息絶えたのである。諸行無常。無論、「古典」としての西欧音楽は、今でも人々に大きな喜びを与えている。

坂本龍一も、論理や理念としての西欧音楽の継承者たることは辞退したが、やはり「古典」としての西欧音楽の大きな影響のもとで、音楽的営為を続けてきた作曲家であったことに変わりはない。彼に限ったことではないが、そのように論理や理念としての西欧音楽のくびきを黙殺して、音楽を生み出しつづける(ある意味では野蛮な)行為自体が、「現代音楽を終焉」させている。正面きって対立概念をぶつけるのだけが革新ではない。また、ぶつける相手がもやもやとはっきりしないので、正面をきる方法が不可能だということもある。

3部構成らしい「オペラ」のうち、1部では、20世紀のクラッシック音楽がなぞらえられる。たぶん、坂本龍一は20世紀のクラッシック音楽を回顧してみることで、自分が現在立っている位置を改めて確認したのだろうと思う。しかも、実際にそれぞれの節目を代表する作曲家の方法に習って作曲してみるなかで、実感的に検証したのだと思う。そうした作業を通して、21世紀の音楽のヴィジョンも浮かび上がってくるだろう。従来の方法から一歩踏み込んで、「現代音楽の終焉」を超える、という手続きをとって「オペラ」の曲が野心的に提示されるのだとしたら、果たして彼はどんなふうにやるんだろう?とても楽しみだ。

『現代音楽の歩みは、いってみれば西欧のローカルな出来事に過ぎない。そこで第2部では空間的な広がりに進みます。』

坂本龍一は、オペラという西欧音楽の古典形式を適用するに際して、オペラが、作品の複数形を表す言葉であることに可能性を見出した、という趣意の発言を繰り返してきた。今回の記事でも、彼がオペラをあくまで作品の複数形として捉え、その他の伝統的属性を顧みない感じがよくあらわれている。それは特に第2部の『共生としての地球』でダイナミックに展開されるようだ。総合舞台芸術ともいわれるオペラは、坂本龍一の手によって現代が獲得したあらゆる表現とメディアを混在させるものとなろう。

もっとも、そこにある種の懸念を抱かせるものがないではない。坂本龍一は、diaryで『多時間性、多焦点性などが、21世紀の芸術のキーになると思われる。多時間的、多焦点的な、自律的生成。(Wed.19990319 )』といっているが、「オペラ」が単なる総花的な馬鹿でかいイベントに堕する可能性をつい想定してしまうのは、僕だけではないだろう。もし、そうなったら街の喧騒や雑踏とほとんど変わらない。ちゃんと彼の共生系のイメージが現出するのだろうか。これまた、とても楽しみだ。

『第3部では、ここまで破壊された地球をどう救済するかが語られます。とはいっても、明快な答えがあるわけではない。2つの祈りを音楽で表現します。』

割とストレートに言語的なメッセージ性を打ち出すのは、第3部となりそうだ。しかし、単純にいって、なぜ「明快な答え」を示さないのか?そうした態度は、まず現代人の通俗的な感性に耳障りがよい。70年代以降、統一的な主張の類は、反射的に、イデオロギー対立を想起させ、排他的とうつるからだ。もし安直な現代人の通俗的感性に媚びずに、異次元的に「複数の声」が発せられる必然性が生じるとするならば、それはどんな思想をはらんでいるのであろうか。よく考えてみるべきだ。ゆめゆめ「人それぞれだからね」的になんとなく納得して、都合よくかたづけてはいけないのだ。

『「LIFE」に盛り込まれる情報量は膨大なものです。会場の客席にいても、すべてを体験・理解するのは難しいでしょう。ライブを収録する予定のDVDなどの映像・音声情報で初めて全体像がつかめる。逆にいえば会場にいなくても、「LIFE」体験はかなりの程度、可能なのです。』

これは、今回のチケット完売騒動のあおりをくってチケットを取り損ねた方には、朗報だ(笑) 僕は幸運にもチケットを手に入れることができたが(武道館の初日っす)、まあ、当日はわけわかんないだろうから、ビデオが発売されたら、それをよく観ようと最初っから決めていた。もうひとつ付け加えると、これは僕個人の見解だが、今回の「オペラ」よりもその後の坂本龍一の身の振り方の方がはるかに重要だ。今回の「オペラ」はテーマが広すぎる。また、大新聞社の創刊120周年記念イベントでもある。どうしても総花的なスペクタル大巨編の空虚さを完全に回避することは困難だと思う。

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