「平和問題ゼミナール」
旧ユーゴ便り
Masahiko Otsuka Presents
-since 1998-
(Since 98/05/31)
   
最終更新 2003/12/06

第75回配信
握手なく踊る会議             次回の更新は2004年2月頃の予定です


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ウィーン中心部
(ケルントナーシュトラッセ)
    14年前ベオグラードに渡ったばかりの頃、在留邦人で現在は日本に帰国されているF先輩に筆者のほうから「スロヴェニアのアルプスからマケドニアのパプリカ畑まで、自分が選んだユーゴスラヴィアという国で見るもの全てが面白い」と満足感を込めて言ったものです。すると先輩も「そうだろう、『地球のXX方』だって『東欧』編なんて一くくりにまとめないで(当時は『ハンガリー』編や『チェコ』編などはありませんでした)、『ユーゴ』だけで一冊にして出版する価値があると思うよ。コソヴォ問題だけがアキレス腱だけど、それさえ乗り越えればもっともっと良くなる国だ」と言っていました。それが2年も経たないうちに国じゅうがアキレス腱だらけ(?)になり四分五裂して消滅してしまったことは読者の皆さんもよくご存知の通りです。しかし一番古いアキレス腱のコソヴォ問題は、今春までユーゴの名を名乗っていたセルビア=モンテネグロで未だに大問題として残されているのは皮肉と言えば皮肉。
    ベオグラードに本拠を置き、アルバニア語の出来ない筆者はなかなかコソヴォ(アルバニア語名コソヴァ)に行く機会もなく、またコソヴォ発のネット情報で英仏セルビア語などで読めるものが大変少ないため、出来るだけ中立の立場から書きたいこのHPでコソヴォを扱うことがほとんど出来ません。無論アルバニア人側、セルビア人側の両方の言い分を切り貼りすれば自動的に「中立」と言えるなどとは思っていませんけれども。しかし10月14日にはオーストリアの首都ウィーンで空爆後初めてのベオグラード・プリシュティナ両政治代表の交渉が始まり、筆者も日本のTVニュースの取材アシスタントとしてウィーンへ行く機会がありましたので、充電期間を頂く(本文末尾参照)前の最後の配信はコソヴォをテーマにしてみます。コソヴォ現地での取材もないまま「大塚は反アルバニア(人)的である」と言われるのは筆者の本心ではありませんが、
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空爆後セルビア人など非アルバニア系住民の人口が激減したコソヴォの州都プリシュティナ(2000年10月撮影)。
どうしてもセルビア人・ベオグラード側の視点が中心になってしまいますので、あらゆる批判を受ける覚悟です。

    ミロシェヴィッチ政権によるコソヴォでの少数セルビア人の抑圧的統治は99年ユーゴ空爆で崩壊。北大西洋条約機構(NATO)主導による多国籍軍コソヴォ展開部隊(KFOR)と、民生部門を統括する国連コソヴォ暫定統治機構(UNMIK)が展開し、多数のアルバニア人を中心とする暫定政府が01年に樹立されました。形式論的には今でもセルビア=モンテネグロを構成するセルビア共和国内の自治州ですが、ベオグラードの権力が全く及ばず、セルビアとの公共事業などの協力関係はゼロに近い状態。2000年から使われている独自KSナンバーの自動車がセルビア本国に来ることはなく、セルビアナンバーの車もコソヴォに入ることはありません。セルビアのディナールは通用せず、02年から通貨はユーロを導入。このようにコソヴォは事実上独立した地域として存在し続けています。
    空爆終了時、ユーゴ軍・セルビア警察の撤退と並行して約23万のセルビア人・ロマ人など非アルバニア系住民が難民化。コソフスカ・ミトロヴィッツァ(以下ミトロヴィッツァ)以北の州境地域にはセルビア人が集中して住んでいるものの、面積上大半を占める州中部以南では第39回配信に触れたグラチャニッツァなど、セルビア人が島状に点在する構造となっています。
    少数民族として州に残ったセルビア人にとっては厳しい状況が今も続いています。上記23万の難民のうち帰還を果たしたのはわずかに約8300人(国連難民高等弁務官事務所推計。その約半数がセルビア人、残りがロマ人などの非アルバニア系民族。また共和国側の公式見解では帰還した人はわずか数百)。教会・文化遺産の破壊、誘拐殺人、放火・爆弾テロなどは一時よりは下火になったことは確かですが、依然として不安を増大させ、難民帰還の障害になるような事件が散発しています。
    8月中旬には西部ペーチ(アルバニア語名ペーヤ)市近郊のゴラジュデヴァッツ(同、ゴラジュデッツ)の川で水浴中だったセルビア人住民の少年少女に自動小銃によると思われる発砲があり6人が死傷、ベオグラードでも大きな話題となりました(アルバニア人過激派は犯行を否定し、セルビア人住民による自作自演説を主張)。
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一時より下火にはなったが、依然コソヴォ在住セルビア人の「苦境」の報が絶えない現況では難民帰還は進まない(ベオグラード郊外アヴァラ山の集合施設にて、写真提供:石川郁子氏)
折りしもUNMIKのトップである国連事務総長特別代表がシュタイナー元独外務次官からホルケリ・フィンランド元首相に交代する時期で、新代表には痛烈な「着任歓迎挨拶」になってしまいました。
    10月4日、東部グニラネ(アルバニア語名ジリャン)の家の所有権に関する書類を整えて帰還しようとした73才のセルビア人女性が、99年以降この家に住んでいたアルバニア人住民に銃で撃たれ重傷(後者は逮捕)を負いました。
    10月16日、中南部ウロシェヴァッツ(アルバニア語名フェリザイ)市中心部に住む65才のセルビア人が餓死しました。2日前に衰弱しているところをKFORが発見しミトロヴィッツァの病院に運びましたが、2週間以上外出出来ず、何も食べていなかったこと、近隣のアルバニア人住民が助けることもなかった事実が明らかにされています。この老人はもともと健康上の問題があったため餓死であるかどうか断定できないという説も出ましたが、病院の担当医は空腹による衰弱が原因であると認めています。
    かつて1万を数えたウロシェヴァッツのセルビア人は現在15人ほど。このような「島」で病気になった場合は、安全上の不安や言葉の問題(一定年令以上の多くのアルバニア人はセルビア語を解しますが、逆は少数です)からアルバニア人多数の地元医療機関に通うことは依然少なく、北部のセルビア人本拠地ミトロヴィッツァ市まで一般交通機関を使って行くケースが多いと言います。「KFORの護衛付きコンヴォイは廃止の方向、列車は運行再開されているが不便なまま、セルビア人がまとまって乗ったバスは投石を受けるのが日常茶飯事で、陣痛が起こる数週間前からミトロヴィッツァに来ていなければならない」とあるセルビア人の妊婦は嘆きます(10月30日国営セルビア放送)。
    本稿執筆中の10月25、26日には州都プリシュティナに近いオビリッチ(アルバニア語名カストリオティ)市でセルビア人の一般住宅3軒が集中的に爆弾テロや銃撃を受ける事件も発生。国連オンブズマンのノヴィツキ氏は「セルビア人がアルバニア人過激派の圧力にさらされ、通常の外出もままならない現状を国際社会は認識すべきだ」と警告。UNMIKホルケリ特別代表は赴任3ヶ月の現状を国連安保理に報告しましたが、「民族の相違を基盤とした暴力が両サイドに依然はびこっている」
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欧州主導は譲らず、しかもイラクで軋んだ米欧協調を取り戻す。独シュレーダー首相ら欧州首脳にとってコソヴォ交渉は「始めさせることにまず意義あり」
事実が最大の問題であるとし、「UNMIK、KFORへの信頼を傷つけ、不安が増大することで難民帰還の遅れにつながる」と述べました。

    まず同じ席に着かせることに意義あり。国際社会は、米英独仏伊露の連絡グループを中心に、対話の開始に先立ち「スタンダード(治安、経済など実生活に影響する具体的問題)をステータス(州をセルビアの中にとどめるか、独立を認めるかなどの政治的地位の問題)に優先させる」基本方針を打ち出し、10月14日の第1回交渉以降は難民帰還、行方不明者捜索、交通・通信、エネルギーの4部門で具体的な話し合いを進める方向をセットしました。良く言えば「話し合える分野から」、悪く言えば「当たり障りのないところから」対話開始のお膳立てを整えることが先進国にとっては重要な実績誇示になります。
    米ブッシュ政権の軍事プレゼンス主力がバルカンからイラク、アフガンなどにシフトする一方、これ以上国境を変更するなど不安定要因を欧州内に作りたくないのが欧州連合(EU)の先進諸国の本音です。KFORからの米軍撤退、NATOから切り離したEU軍創設も取り沙汰される中、「欧州の問題は欧州主導で」を基調に、とは言えイラク介入でギクシャクした欧米関係を再び協調路線に取り戻したい。そんなEUの思惑が「ベオグラード・プリシュティナの対話枠組みでは米露とも態度を一致できた」(10月29日付日刊ポリティカ紙
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セ共和国政権内部はコソヴォ放棄という「危険」な結論が出され得る協議開始には及び腰だったが、早期EU加盟を狙う故ジンジッチ前首相の英断で方針転換 (写真提供:吉田正則氏)
と独シュレーダー首相も後日ベオグラードを訪れた際に述べている通り、何とか今回のウィーン交渉で実現出来たと考えられます。

    セルビア当局にとって、コソヴォはきわめてデリケートな問題です。右派野党はもちろん、連合政権内にも右派を抱え、さらに政権が安定多数確保にはほど遠い現状(前回第73回配信参照)では、政権をリードする親欧左派も国賊扱いされる危険を賭して「コソヴォ放棄」を口にすることは出来ません。触れないで済むなら触れたくないテーマ。しかしその中で、敢えて地位問題も一気に話し合いに向かうべきだと方針転換したのが故ジンジッチ共和国前首相だったことを、スヴィラノヴィッチ共同国家外相が明らかにしました。「(1)難民帰還もままならぬ現状で地位にタッチするのは非現実的(2)ハーグ戦犯法廷への協力不十分など、国際的にセルビア=モンテネグロの評価が良化していない(3)来04年にはEU拡大、米、コソヴォで選挙など状況が変わる可能性がある、などの理由から政権内部でも地位問題を視野に入れた対話開始には時期尚早論が強かったが、ジンジッチは『コソヴォのステータスが不明瞭ではEU加盟レースに不利になる』と主張し、今年初めから地位を含めた交渉開始に踏み切る方向が打ち出されていた」(週刊ニン誌10月16日号)。コソヴォの広範な自治を前提としながらも独立問題を凍結した国連安保理決議1244の完全実施を要求する共和国議会宣言を通し、
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ホルブルック前大統領特使ら米民主党が「応援団」として独立要求に一定理解を示し交渉参加を呼びかけたが、アルバニア人代表の出席を巡り直前まで大モメ(写真は10月上旬ボスニア訪問時に撮影)
コソヴォ独立阻止を主張する野党右派と、国際社会に柔軟な姿勢を見せるセルビア民主野党連合(DOS)政権のコンセンサスが一応出来上がった中でのウィーン交渉となりました。

    逆風が吹いた、と言うか出席を最後まで渋ったのはコソヴォのアルバニア人州当局でした。9月には米クリントン前大統領が、また10月上旬にはユーゴ空爆の一方の立役者であるホルブルック前米大統領特使がプリシュティナを訪れ、独立要求に一定の理解を示すなど、政権時代の延長で米民主党が「応援団」を形成しましたが、交渉への代表団出席は直前まで危ぶまれました。州政権は穏健派のコソヴォ民主同盟(ルゴヴァ大統領)、右派のコソヴォ民主党(サチ党首、レジェピ首相)、コソヴォ未来連合(ハラディナイ党首)の三頭体制ですが、どの勢力も独立を主張していることに変わりはありません。そして独立をみなが強硬に唱えるゆえに、「成り行き次第ではあたかもコソヴォがセルビアの枠内にとどまっているかのような印象を与えかねない交渉」には出席しにくいことになってしまったわけです。来秋の総選挙をにらみ、欠席した側が出席した側を「ベオグラードに歩み寄った」と攻撃しやすいことは目に見えています。直前の議会では討議が出来ず、党首レベルでの話し合いも空転。ホルケリ特別代表の圧力でルゴヴァ大統領、彼と同じ政党のダツィ議会議長が出席を決めましたが、コソヴォ民主党はサチ党首が交渉開始を支持する声明を前々日にやっと発表したものの、レジェピ首相は「時期尚早」と出席を拒否。
    ベオグラード側からは、セルビア人少数民族枠の閣僚(トドロヴィッチ難民帰還担当相)も出席することが期待されていましたが、政府の長であるレジェピ首相が欠席するとなると大臣を出すわけには行かず、ホルケリ特別代表がストップを掛けました。当初ベオグラード側は、プリシュティナ側が「国家代表レベルで話し合うべきだ」と主張する可能性を先読みしてマロヴィッチ共同国家大統領の出席を予定していましたが、この動きにマロヴィッチ不出席を決定。ジフコヴィッチ共和国首相、チョーヴィッチ同副首相だけの出席となり、当日の記者会見でも2人は「トドロヴィッチが出席できないプリシュティナ代表団では(プリシュティナ側が主張しているような)多民族コソヴォとはとても言えない」と述べるなど、ボタンの掛け違いとも言うべきギクシャクがありました。

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開始に先立ち(左)ホルケリ特別代表とルゴヴァ州大統領らコソヴォ側代表団が握手、(右)ジフコヴィッチ共和国首相らセルビア側代表団も握手したが
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本会議ではホルケリらを挟んで両代表団は横並び。握手もなく真の「対話」もない交渉開始となった
    ともあれ10月14日、ウィーン中心部ホーフブルク宮に隣接する首相官邸で交渉は始まりました。ベルルスコーニEU議長国(伊)首相の出席こそ実現しなかったものの、ホルケリ特別代表をホストに、主催国シュッセル首相、NATOロバートソン長官、EUソラナ上級代表(共通外交安保政策担当)、欧州委員会パッテン対外関係委員、全欧安保協力機構(OSCE)デホープスヘッフェル議長国外相(オランダ。因みにデ氏は次期NATO長官に決定していますので、ソラナ前長官とともにNATO長官が3代並んだことになります)など錚々たる顔ぶれが揃いました。
    しかし「ボタンの掛け違い」感は、当日もどこかに残りました。独立国であることを主張するコソヴォ側と、これを認めないセルビア側の双方に配慮してか、交渉の公式名称は「直接対話(Direct Dialogue)」だけで、事情を知らない人にはどの国の何の「対話」なのか分かりません。オーストリア首相官邸でホストのホルケリ代表が、本来ならこの建物のホストとして客人を迎える立場であるシュッセル首相を「迎え」ました。建て前は国連主催ながら国連旗とともに万国旗よろしくNATO、EU、OSCE、オーストリア政府などの旗が並ぶ、ちょっと不思議な国際会議でした。
    冒頭のシュッセル主催国首相の挨拶以外は密会で行われ、報道陣(会議開始後は一旦首相官邸を追い出され、何も情報の入らない別のプレスセンターで待機させられるなどマスコミへの対処は最低レベルでした)はソラナ、ルゴヴァ、チョーヴィッチらの演説原稿を後刻プリントで入手できるだけで、実際にどの程度突っ込んだ内容の話があったのかは不明ですが、第1回の交渉ですから各サイドが自分の立場を表明したにとどまったと推測されています。
    写真でもご覧のようにジフコヴィッチらセルビア代表団がホルケリと握手。ルゴヴァらコソヴォ代表団がホルケリと握手。しかし「両代表団どうしの握手はあったのか」という報道陣の質問に対し、ホルケリ特別代表は「今日は喜ばしいことに多くの人が多くの人と手を取り合った」とまず自画自賛含みのオトボケ。「具体的に誰と誰が握手をしたかは覚えていない」と答え、握手がなかったことを示唆しました。ボスニア包括和平に至る95年の米デートン交渉の開始時点では、トゥジュマン(クロアチア)、イゼトベゴヴィッチ(ボスニア)、ミロシェヴィッチ(ユーゴ)の三「主役」が握手を周囲から要求され、渋々手を差し延べ合う映像が世界に流れたものでしたが・・・。会場内では長円卓にホルケリら国連代表を挟んで両サイド代表団が横並びに座り、「対話」と呼ぶにも疑問の残る「直接対話」でした。
    会議の終了を待ちながら、プリシュティナの通信社コソヴァプレスの記者たちと雑談する機会がありました。
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(左から)ソラナ、デホープスヘッフェル、パッテンと大物が揃ったが、対話を始めさせた国際社会の「自画自賛」に終わった感は払拭できない
先方から今会議の感想を求められて、筆者は「政治ショーという感じがするねえ、結局国際社会側は『(自分たちが仕切って)対話が始まったので良かった』と自画自賛するのは分かりきっているが、本質的な問題解決への道は遠いと思う」と言うと、アルバニア人の同業者たちも「まさにその通り、同感!」と言っていました。

    「しばしば旅路の初日には最大の困難に出くわすことがあるのは私も承知している。しかし一度物事が動き出した時に困難は軽減することも確かだ。この対話もそうなると私は確信している」(事後発表の演説原稿)とEUソラナ上級代表は述べています。具体的に話し合える4テーマ(前述)について今後は分科会、実務レベル協議に移るのだから何とかなるだろう、という調子ですが、実際の実務協議(早ければ年内、恐らく来年前半開始)でもかなりの困難が予想されます。

    難民帰還問題に関しては、全く帰還が進んでいない(数百)というセルビア側に対し、ルゴヴァ州大統領は「コソヴァは民主政治の原則に基づき、多民族共存を実現するべく前進している。既に非アルバニア系住民7000以上の帰還が実現し、わが憲法体制への統合と政治参加が進んでいる」(会議後記者会見)と述べるなど見解に大きな隔たりがあります。
    コソヴォでは電気料金の不払いで給電差し止めになる住民があまりにも多く、一方で発電インフラは故障が頻発、電力公社の赤字は毎日1000万ユーロとも推計される、と言います(日刊ダナス紙10月18・19日付)。
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ダツィ州議会議長は「難民帰還も進み、多民族コソヴァとして独立へ向かう」と述べ共和国側の見解とは大きな相違が。実務交渉も前途多難を思わせる
セルビア本国南部の電力事情にも影響するコソヴォのインフラでの相互協力は不可欠なはずですが、結局公共料金ですから、プリシュティナ、ベオグラードのどちらがどういう形でカネを払うべきかという問題も「コソヴォは独立国なのか、セルビア共和国の内部なのか」という地位問題抜きでの解決は難しいでしょう。
    セルビア共和国議会でコソヴォ問題委員を務めるトライコヴィッチ議員の言うように「政治(地位問題)を抜きにして語り合える実務問題などは存在しない10月7日付タンユグ通信)」というのが本当のところなのではないでしょうか。
    実務協議の直接のテーマではありませんが、共和国側コソヴォ連絡協議センター(共同国家・共和国両政府に属する特別機関で、チョーヴィッチ共和国副首相が長を務める)のヴァシッチ経済担当官らは10月7日の記者会見で重要な問題の存在を指摘しました。セルビア共和国からの経済的自立を進めるため、UNMIKはシュタイナー前特別代表在任中の昨年から各企業の民営化に動き出しました。この事業の運営を任されたコソヴォ融資公団(KAP)によれば、入札型民営化により第1期の6社売却が完了、第2期18社の入札が現在準備されている段階で、05年半ばまでに500社の民営化を目標としています。しかしこれらコソヴォ在企業の多くはセルビア共和国側政府・企業や外国金融機関などに対する債務を抱えており、これらコソヴォ企業の債務返却のために共和国政府が負担した額は過去2年だけでも4700万ドル、セルビア=モンテネグロの対外債務でコソヴォ分推計額は16億ドルに上っています。
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ベオグラード側政府・企業などへの「借金踏み倒し」で動き出した州の民営化は、ヴァシッチ担当官(左)ら連絡協議センターの指摘で凍結された
民営化の基本方針にベオグラードは反対しないが、借金の踏み倒し、債権の押し付けは認めない(対象企業評価額に債務もカウントしなければダメ)、ということです。さらに99年以前に(ベオグラード当局が)従業員持ち株方式により部分的に民営化した部分についても、KAPが無視して100%再民営化を図り、従業員の株主としての権利が消滅してしまうケースや、ベオグラード在企業に所有権のあるはずのコソヴォの工場を独立した企業であるかのように扱い民営化が進められているケースがあるとのことです。
    このセルビア共和国側からの指摘を受けてUNMIKは10月8日、コソヴォ州内の民営化を当分の間凍結する命令を下しました。「命令は当然のことだが、このままでは『独立国』コソヴォはセルビアへの国家賠償請求などに動く可能性もあるし、
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「介入」次第ではコソヴォ問題を複雑にしかねないモイシウ大統領(右)らアルバニア公式筋だが、現在のところ静観の構え
そうでなくても直接外国投資の滞っているセルビアの『不安定ぶり』を示すマイナス効果になってしまう危険もある」とベオグラードのある経済アナリストは言います。いやはや、実務協議とて前途多難なことは目に見えていますね。

    10月27日アルバニアの首都ティラナを訪れたクロアチア・メシッチ大統領はモイシウ大統領と会談。ベオグラード・プリシュティナの「対話」開始にも触れました。民族主義盛んなりし頃ならば、すわ反ミロシェヴィッチ/セルビア包囲網、あるいはコソヴォ独立応援団形成かと思われる組み合わせですが、今や両国ともEU加盟へ向かって少しでも優等生ぶりを見せなければならない時代です。「戦争よりも対話が重要、話し合いによってのみコソヴォ問題は解決に向かう」という「対話支持」表明で一致した模様です(ポリティカ紙28日付)。
    また前述のニン誌へのインタビューでスヴィラノヴィッチ共同国家外相は「欧米のどこもコソヴォ問題の特効薬となる解決案を持っていない。当事者の我々が決めた通りになるチャンス」だとも述べています。
    ですから問題の解決へ、国際的な枠組みでは順風が吹いていることは間違いないのですが、当の当事者間で今後進展が見られるかどうか、むしろプリシュティナ・ベオグラード双方で右派野党の伸長さえ懸念される現在、筆者を含めウォッチャーはおおむね悲観的です。

    残念ながらアキレス腱は今もアキレス腱のままですよ、F先輩。

(2003年11月上旬)


画像を提供して頂いた石川郁子氏、吉田正則氏に謝意を表します。画像の一部は、2000年10月、2003年10月に複数の報道取材に同行した際筆者が撮影したものです。また本文もこれら取材のスタッフとして業務上知り得た内容を含みます。これらの本ページへの掲載に当たっては、各クライアントから承諾を得ています。画像・本文とも無断転載はかたくお断りいたします。


※第50回発表後同様、また勝手ながら少々の充電期間を頂きます。次回第76回配信は来2004年2月頃の発表を考えています。掲示板はこの間も運営を続けますし、バックナンバー等も従来通りアクセス可能です。読者の皆さんの応援で第75回まで書き続けることができましたから、第99回か第100回までは頑張ってみるつもりでいます。今後とも引き続きよろしくお願いいたします。


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