「平和問題ゼミナール」
(旧)ユーゴ便り
Masahiko Otsuka Presents
-since 1998-
(Since 98/05/31)

最終更新 2001/01/08 15:52

第40回配信
クムロヴェッツ2000


 

   「平和問題ゼミナール」の木村朗先生から、「ベオグラード便り」というタイトルでネット上の執筆をしないかと打診があったのは98年の春のことでした。それに対して私は、ベオグラードを定点観測しているわけではなく、仕事では報道通訳としてスロヴェニアからマケドニアまでしょっちゅう動き回っているし、ウォッチャーとしての興味から言っても旧ユーゴ全体が自分の「縄張り」だと思っている、だからオコガマシく聞こえるかも知れないけれどベオグラードより外、今「ユーゴ連邦」を自称しているセルビア・モンテネグロより外のことでも自然に書けるようなタイトルにしたい、そうお答えして皆さんがご覧になっている名のサイトが生まれたのです。
   スロヴェニアからマケドニアまで、のユーゴスラヴィアという国は、第1次大戦後に生まれ、1991年に消滅しました。100年前には大国だったオーストリア=ハンガリー帝国やヨーロッパ領トルコの大きさを今実感する人が殆どいないのと同様、21世紀の終わりにはユーゴスラヴィアという名の国を覚えている人は誰もいないのかも知れません。この名の国への私なりの思いを込めて20世紀最後の「(旧)ユーゴ便り」を書こうと思います。まず私の住んでいるベオグラードを離れて、スロヴェニア国境に近いクロアチアの山村クムロヴェッツから話を始めます。

クムロヴェッツへ向かう途中の車窓から。森と畑以外は「何もない」風景が続いた
   8月末から9月下旬まで、約1ヶ月にわたり日本の某テレビ局の文学ドキュメンタリーの取材に通訳として同行しました。スロヴェニアから始まってクロアチア、ボスニア、セルビア、マケドニアと回り、またスコピエから飛行機でリュブリャーナへ。旧ユーゴの様々な文学者の、紛争で変わった人生、自作に及ぼした時代への思いに触れたその仕事は、それだけでも大変印象深いものでしたが、実は1回の取材で旧ユーゴ5カ国を全て回るのは初めてという点でも思い出に残るものになりました。予定より一日早い9月27日にザグレブで撮影終了。疲れもありましたし、一方でベオグラードの連邦選挙後の混乱を取材している別のテレビ局の仕事についている妻イェレナの応援に戻りたいという気持ちもありましたが、1ヶ月を共にした取材班メンバーと28日一日は「半日遠足」で労をねぎらおう、ということになりました。もちろん1週間後の10月5日にベオグラード連邦議会前で濃厚な催涙ガスを吸いながら、ミロシェヴィッチ政権の崩壊を目撃することになるとは、その時は思ってもいませんでしたが(この辺については第36回配信もご参照下さい)。「ザグレブから1、2時間で行ける面白い所ねえ・・・」。オーガナイズを任された私は、ホテルの「ザグレブ近郊ガイド」をめくりながらしばらく考えましたが、どうせなら旧ユーゴを一周した取材の総決算の意味があるところにしよう、しかも11年の旧ユーゴ滞在で私が一度も行ったことのない所だし、と思いクムロヴェッツに決めました。
   トゥジュマン民族主義政治なき後も政治化を避けたいという意図なのか、「ザグレブ近郊ガイド」にはザゴリエ地方(ザグレブ以西、スロヴェニア国境沿いの山岳地域)の温泉、古城など数十の「見どころ」の一つとしてクムロヴェッツは「村全体を野外民俗資料館にしてある」としか書いてありません。知らない人がこれを見て、気が付かないまま半日遠足を済ませてしまうこともあり得るでしょう。しかしこの山村クムロヴェッツこそ共産主義時代のユーゴの「聖地」、J・ブロズ=ティトーの生地なのです。

ヨシップ・ブロズ=ティトー生家。その前にはクロアチア国旗がひるがえる
   スロヴェニア国境に並行して北上する高速ザグレブ=クラピナ線を外れると道が細くなり、やがてカーブのきつい山道に入って行きます。テレビ取材班のディレクターは「緑が多いけど、隣の国に比べるとガサガサしてる感じだよナ」との感想。山ひとつ向こうのスロヴェニアは、同じ山の中でも森や耕地がきちんと整備され、オーストリアやドイツ同様の美しい風景が続くのを取材班も私も見てきています。しかし車窓に見えるザゴリエの奥地は、耕地は狭く、畑の端の雑草と森の境目が判然とせず、まさにクロアチアの中の貧しい地域という印象を強く残します。豊かなスロヴェニアよりも、シュマディヤ(セルビア中部)の風景に似ているな、と私には思えました。
   クムロヴェッツの一つ手前の村クラーニェッツのドライブインで食事にします。メニューはザゴリエ名物が並んでいるのですが、標準クロアチア語半分、スロヴェニア語半分という感じの方言です。ボーイの奨める「ペチェニツァ(標準セルビアクロアチア語ではローストポークまたはこれをベーコン風に干したもの)、キセレ・ゼーリェ(同、小松菜)付」を注文したらソーセージにザワークラウトが付いて出てきました。「何だドイツ料理じゃないか」。因みに生前のティトーのセルビアクロアチア語のアクセントは、私は記録映像や音声でしか聞いたことがありませんが、ベオグラードのセルビア人に言わせると「方言の中の方言でかなり珍妙なもの」だったそうで、まあ推して知るべしというか。

   ティトー時代は旧ユーゴ中の小学校から優等生が選抜され、日本で言うボーイスカウトのような制服を着て「クムロヴェッツ詣で」をする慣例がありました。もちろん優等生でなくとも学校の遠足などでここに来る若い人々は絶えなかったことでしょう。「民俗村」のすぐ外側には共産主義エリート官僚を育てた「クムロヴェッツ政治学校」跡が今も残っています。共産主義ユーゴの聖地。
生家の中はティトーの業績を称える展示があるが、かつての「聖地」であることを思えば本当にささやかなもの
   今のクムロヴェッツは、トゥジュマン政権時代の反共民族主義者から荒らされることもなく、小奇麗に手入れされて「民俗資料村」として十分観賞に堪える状態でした。しかし元共産主義官僚のラーチャン(政治学校元校長)が今春の政変で首相の座に就いたからと言って、ティトー崇拝が復活したわけではありません。数少ない(多くは私たちのような半分野次馬気分の)訪問者を静かに迎えるだけでした。ティトーの生家のすぐ外にはこのページの冒頭にお見せしているティトー像がありますが、それも特別に目立つわけではありません。小さな家の前には現在のクロアチア国旗が立っていて、家の中の展示がティトーと彼の国の栄光をわずかに伝えるだけ、という状態です。
   「民俗村」の他の展示で、製材、鍛冶、畜産、狭い耕地でわずかに獲れる麦などを営むしかなかった山村の暮らしがよく分かるようになっています。村の周辺が今でもあまり冴えない景色なのは上にも書きましたが、ティトーの生まれた19世紀後半は本当に貧しい村だったことを想像するのはそれほど難しいことではありません。
   1892年、貧農の倅としてオーストリア=ハンガリー領クムロヴェッツでクロアチア人の父とスロヴェニア人の母の間に生まれたヨシップ・ブロズは小学校を終えた後シサク(クロアチア中部)で錠前工として修業、1910年頃左翼思想の影響を受けたとされています。その後ハプスブルグ帝国領内で職を転々としながら第1次大戦に従軍。のちロシア十月革命にも参加。大戦後に誕生した国ユーゴ(セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人連合王国)で徐々に地力を付けて行った共産主義運動の中核となり、非合法時代のコードネームTITOの名で第2次大戦のパルティザン運動を指揮することになる・・・。

   第2次大戦後に誕生した共産主義ユーゴの名を、世界の特異な位置に輝かしめたのはスターリンにもケネディにも組せず非同盟・第三世界戦略を取ったブロズ=ティトーその人であり、ティトー=共産党=国家であるユーゴスラヴィアだったことは間違いありません。
   それは確かに、民主主義と呼ぶにはほど遠いシステムでした。政治・経済改革の動きは(旧ユーゴでは不幸にも民族主義的要素を多く伴った改革要求になりがちでしたが)弾圧され、思想犯はゴーリ島の強制収容所に送られました。70年代までは西側世界からも注目されていた自主管理社会主義は、確かにソ連圏東欧よりは遥かにマシな暮らしをもたらしたものの、重工業が優先されるあまり石油ショック後の西側世界の工業ソフト化と国際化への波は明らかに乗り遅れました。地方分権化を推進した結果、ティトーの死後深刻化した不況とあいまって国内の経済格差が拡大、スロヴェニアやクロアチアの独立運動の直接要因が育って行きました。

ヨシップ・ブロズ=ティトー(1892−1980)(写真提供:Tito's Home Page)
   でも、そんな国でも自分が選んだのは「あの」ユーゴだったんじゃないかな。スロヴェニアからマケドニアまで何の問題もなしに行ける、広く多様性に富んだ美しい国だったんじゃないかな。

   私は世界のいろいろな国に、「第2の祖国」を見出して、そこで日本よりものびのびと仕事や暮らしを続けている日本人がたくさんいるのを知っています。私もそんな国になればいい、と思いながら89年にユーゴに流れ住んでしまったわけです。ところが自分の選んだ国が戦争とともになくなってしまった。
   私が自分の目で見ている社会主義ユーゴは89年春から91年夏のわずか2年間ですから、上のように偉そうな「まとめ」を書いても、キザな感傷を書いても旧ユーゴの人々はもちろん、木村朗先生をはじめ日本の先輩研究者の失笑を買ってしまうだけかも知れません。
   しかし両親がセルビア人でありながら本人はユーゴ人を称している私の妻は、旧ユーゴというかつて現実に存在した国をもう少し切実に自分の生まれ育った「祖国」として受け止めています。彼女と了解し合っている最小公倍数はおよそ次のようなものです。@私たちは共産主義者ではないし、共産主義型の「大ユーゴ」のあり方を良いとは思っていない。スロヴェニア、クロアチアやボスニアで、自分の国の独立を善しとし愛国心をもって語る人たちとも、私たちは「大ユーゴ」を主張することなく普通に話をすることが出来る。A一方でセルビアの民族主義も嫌いだが、自分たちのベースになる場所はベオグラードであり、セルビアであることは動かせない。
   スロヴェニアからマケドニアまで、のユーゴは、たとえ今現実に存在しないとしても妻にとっての祖国です。まあユーゴ主義者の共産主義でない部分と、セルビア愛国者の排他的民族主義でない部分を、つまり自分たちにとってオイシイ部分だけを大事にしながら「架空の祖国」にしてしまっているわけですが、私たちは政治家や哲学者ではありませんからそれは庶民の図々しさだと思ってご勘弁頂きたいと思います。


10月5日の政変で今年の話題を独占した感があるコシュトゥニツァ・ユーゴ大統領(写真提供:伊藤健治氏)
   20世紀最後の年、旧ユーゴ圏にとってはモニュメンタルな出来事が二つ起こりました(私にとっても仕事の合い間に結婚式と新婚旅行、という感じの忙しい年でした)。99年暮れのトゥジュマン大統領の死去に伴う大統領選と議会選で反民族主義野党勢力が圧勝。10月5日にはミロシェヴィッチ政権を退陣に追い込んだユーゴ政変が起こりました。91年旧ユーゴ解体前夜の各共和国元首(「ティトーの不肖の息子たち」)は、紛争が一段落した数年前も依然として元首の座に残っていましたが、99年秋にマケドニアでトライコフスキ新大統領が選出され、2000年にはボスニアのイゼトベゴヴィッチ幹部会員も引退、スロヴェニアのクーチャン大統領を除いてみな政権を去りました(最も社会主義官僚のイメージが強いクーチャンが最後に残っているのは皮肉な気もしますが)。民族主義の時代が終わり、新しい世紀とともに新しい政治と経済の方向へ、旧ユーゴ各国も向かい出そうとしています。
   10月政変でユーゴ(セルビア)が「ヨーロッパのガン」ではなくなったことから、旧ユーゴ圏でも対話と交流を促すような新しい動きが起こっています。
   社会主義ユーゴの資産分割は92年のスロヴェニア・クロアチア独立承認直後から続けられていましたが、セルビアとモンテネグロが国際的経済制裁下にあったことがネックとなり、進展がないまま推移していました。しかし新しい状況を受けて国際決済銀行(BIS)は3月末までに分割合議のアウトラインが成立することを義務付け各国政府に通達。各論ではまだ各国の意見対立がありますが、最終合意に向け議論が今後加速される見込みです。
   旧ユーゴ各国はサッカーだけでなく男子バスケの強豪としても有名ですが、スロヴェニア、クロアチアなど「西半分」の国々から「モンテネグロやボスニアの上位チームと共同クラブリーグ(仮称アドリアリーグ)を結成してはどうか」という提案が先ごろ出されました。クロアチアの強豪ツィボーナ・ザグレブのノヴォセル会長は、どちらかと言えばトゥジュマン前大統領旧体制に近く、民族主義色が強い人物として知られていますが、「パルティザンやレッドスターなどセルビアのクラブも交えた人気カードを作った方がいい」と積極論を表明しています。パルティザン・ベオグラードのディヴァッツ会長も「各国レベルの維持向上のためには良い案だ」と歓迎。「事務的に来秋実施が難しいというのなら我々はアセらない。今までも待ち続けていたのだから気長に待つ」。

独立に向かい出したジュカノヴィッチ・モンテネグロ大統領にとって「ユーゴスラヴィアはもはや事実上存在していない」
   しかし現在セルビアで最も注目を集めており、2001年の動きの中でキーになりそうなのがモンテネグロの政治的動向です。1年ほど前、第28回配信にもまとめたように、モンテネグロ・ジュカノヴィッチ大統領はミロシェヴィッチ・ユーゴ前政権の覇権主義に対抗、独自の通貨・関税政策などを進めて「ユーゴ離れ」の足場を固めてきました。セルビアでの政変後、ユーゴ連邦議会で民主野党連合(DOS)がジュカノヴィッチの政敵、旧親ミロシェヴィッチ派(社会主義民族党=SNP)とのねじれ連立政権を発足させたことから、与党連合内モンテネグロ独立強硬派の社民党(SDP)がジュカノヴィッチに揺さぶりをかけて事態が紛糾してきました。
   12月28日、与党連合政権は「セルビアとモンテネグロを2つの国際的に承認された独立国家の連合とする」など、旧案より独立色を強く打ち出した新綱領を発表、2001年前半に独立を問う住民投票を実施する方針を打ち出しました。

モンテネグロとセルビアの関係見直しに関する新綱領要旨
  • モンテネグロとセルビアは2つの独立国家の連合とする。
  • モンテネグロとセルビアは独自の軍と警察を持つ。連合の省庁はその統括を担当する。
  • モンテネグロとセルビアは独自の外交を行う。連合の省庁はそのコーディネートを担当する。
  • モンテネグロとセルビアは共通の通貨政策を行う。

    独立強硬モ自由連合
    独立強硬社民党
    独立支持社会主義者民主党30
    不支持民族党
    独立反対社会主義民族党29
    アルバニア人政党
    モンテネグロ共和国議会構成(定数78)。与党連合(背景色=白)から民族党が離脱、逆に99年に離脱していた自由連合が閣外協力の意思を表明しているが、独立派(与党)と反対派(野党)は数の上でもほぼ拮抗することになった
       独立に消極的な民族党はこれに伴い、与党連合を離脱。ここにきて予想通り、モンテネグロ国内は独立をめぐって賛成派と反対派に真っ二つに分かれてしまいました。「住民投票強行前に選挙で国民の信を問え」「まずセルビア新政権と徹底した話し合いを」などのいろいろな声が上がっています。一方セルビアではミロシェヴィッチ政権時代と異なり、「モンテネグロ独立許すまじ」という強硬論はまだ表立っては出てきていませんが、現ユーゴが消滅するのではないか、という点は興味を集めています。「クマノヴォ協定でコソヴォは『ユーゴ連邦の内部にとどまる』と定められているが、ユーゴ連邦がなくなることで形式的にコソヴォ独立の余地を作ることにならないか」という、モンテネグロとは直接関係ないはずのコソヴォに絡んだ法形式論上の議論もジンジッチ次期共和国首相などは指摘しています。12月下旬のセルビア共和国議会選ではDOSが大勝し、1月上旬にDOSによるセルビア政府が成立した後、モンテネグロとセルビアの話し合いが始まると見られていますが、住民投票の成り行きとともに大きな注目を集めそうです。

       既にスロヴェニアからマケドニアまで、のユーゴスラヴィアは91年に消滅しています。セルビアとモンテネグロでは、両国を仕切ったミロシェヴィッチ前政権が92年以降も「社会主義ユーゴの継承国家」を自称し続けたために、名前の上では現在のユーゴ連邦共和国が残ってきた、というのが本当のところです。しかし「事実上セルビア・モンテネグロ連合と呼ぶべきだろう」とコシュトゥニツァ新連邦大統領もこの「継承国家」路線はほぼ放棄しました。2001年、モンテネグロ次第で「実」のないユーゴスラヴィアの「名」も消滅する可能性が出てきています。

       私たち、ですか? --- そりゃあ名前に対する感情的なこだわりはありますが、現実的、平和的な対話が進むことの方が大事だと思います。いつかはバスケだけでなくサッカーで、音楽で、演劇や映画でアドリアリーグが出来てくればいい。政治経済の交流がさらに活発化し、妻イェレナがヴィザで苦労することなくスロヴェニアやクロアチアに行ける日がまた来ればいい。取りあえずそれを私たちの「反応」とさせて下さい。

       ユーゴスラヴィアの名はなくなるかも知れませんが、「(旧)ユーゴ便り」は2001年も続きます。執筆方針について考えるところはいろいろとありますが、取りあえず第50回までは今まで通り書き続けて行きたいと思っていますので来年もよろしくお願い致します。皆様よいお年を!

    (2000年12月下旬)


    Tito's Home Page、伊藤健治氏に謝意を表します。写真の一部は2000年6月、9月に日本のテレビ取材に通訳として同行した際筆者が撮影したものです。また本文の一部にもこの取材の通訳として業務上知り得た内容が含まれています。これらの掲載に当たっては、私の通訳上のクライアントから許諾を得ています。画像・本文の無断転載はかたくお断りいたします(Tito's Home Page はパブリックドメインですが、「(旧)ユーゴ便り」からの副次的転用はご遠慮下さい)。


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