「平和問題ゼミナール」
(旧)ユーゴ便り
Masahiko Otsuka Presents
-since 1998-
(Since 98/05/31)

最終更新 1:35 99/01/29

第12回配信
ボスニアの忘れられた半分


旧ユーゴ大地図にリンク
ボスニアヘルツェゴヴィナは薄緑色のセルビア人共和国、深緑色のボスニアヘルツェゴヴィナ連邦の2つから構成される。今回出てくる地名のうち共和国側を橙色の点、連邦側を黄色の点で示す。

  ◆セルビア人以外お断り
   レプブリカ・スルプスカ Republika Srpska。「セルビア(人・語)の」という形容詞を付けたこの自称「共和国」が成立したのは、ボスニアで戦火が拡大していた92年夏のことでした。91年クロアチアで戦争が続きユーゴの解体が避けられないことが明らかになってくる中、セルビア人の幹部会員や国会議員らは「ボスニア独立反対、ユーゴ連邦残留」を主張していましたが、戦火がボスニアにも飛び火しセルビア、モンテネグロが国際的に孤立を深める中で新しいユーゴ連邦を旗揚げすると、ボスニアのセルビア人はサライェヴォ近郊の山村パレを暫定首都とし、カラジッチ幹部会員を幹部会議長(のち大統領)に選出してこの名前の「独立国家」成立を宣言しました。その後デイトン和平の成立によりこの名は現在のボスニアヘルツェゴヴィナを構成する二つの「部分(エンティティ)」の一つとして認められるようになりましたが、名前からして既にガチガチの民族主義を表していると言えるでしょう。
Karadzic 94 in Pale
94年、パレで開かれたセルビア人共和国議会で演説するカラジッチ大統領(当時)。現在は戦犯として訴追され行方をくらましている。
   日本の報道機関の大半は「セルビア人共和国」、政府系機関は「スルプスカ共和国」と訳して現在のユーゴ連邦(私が住むベオグラード)のセルビア共和国 Republika Srbijaと区別しています。英語系メディアでもセルビアはRepublic of Serbia、問題のボスニアの半分はSerb republicとしているようです。しかし、ラテン語の共和国=レスプブリカは本来「人々の、パブリックの PUBLIKA」「もの RES」という意味であったはずです。原理論から言えば、例えば「アイスランド Republic of Icelandという土地=共和国=公共のもの」が先にあり、ここで一定の要件を満たす、あるいは義務を果たす人がこの共和国の公民権を享受できる「アイスランド人 Icelander」であるという考え方の順番になります。ところが「セルビア人の」共和国ということになると「セルビア人である限りは公民だけども、そうでなければ共和国の公民=プブリカとしては最初から認められない(どこの生まれだろうとセルビア人なら受け入れるが、ボスニア人だったらバニャルーカ生まれでも駄目だ)」と言っているようなものではありませんか。「最初にセルビア人ありき」という名前では本末転倒ではないかと思えます(が、私は政治史や政治哲学が専門ではありませんから、読者の皆さんからその方面のご教唆が頂けると幸いです)。これからボスニア人やクロアチア人の難民帰還が本格化しなければならないはずなのに、このオコガマシイ名前はそのままになっています。
   オコガマシイ。けれども92年当初は誰も認めなかったセルビア人共和国は、今やボスニアの半分を構成する現実として動き出しているのですから、やはり平和に向かってどのくらい状況が進んでいるのか、は名前の論議とは別に見ていかないといけないでしょう。そこで次の段落からはこの地域の現状についてのレポートです。

  ◆戦争はもうコリゴリ

   昨98年9月には報道の総選挙取材で、11月には日本政府のインフラ援助関連の仕事でセルビア人共和国に滞在しました。昨年1月まで暫定首都だったパレでは旧友ページャ(セルビア人男性、30代)に会いました。彼と知り合ったのは戦争中で、ベオグラードからパレに入り、サライェヴォを包囲する側から取材する報道機関の拠点として何度か泊まらせてもらって以来の付き合いです。サライェヴォ郊外の出身で、奥さんのビリヤナさんと知
「よし、粘土細工ならお父さんに任せろ!」 ページャの息子サーシャ(左)は戦争中に生まれたが、もう幼稚園に上がる年になった。パレにて
り合ったのもサライェヴォでしたし、戦争が始まる前は普通の町っ子だったのですが、92年に一家でパレに移りました。一時は動員され軍服を着て工兵隊として道なき道を行ったりしたこともあった彼も、和平後に動員解除。一昨年からは家の近くに小さな食料品店を開業して商売の方で忙しくしていますが、家庭ではすっかり今ではいいお父さんになっていました。
   「一時は向こうの連中を憎んでいたと思うよ。本当に自分たちの国を守らなきゃ、って真面目に考えて軍服を着てた。でも今はどうかな。また戦争になったら家族を連れてどこかへ逃げ出すだろうね。もう戦争はこりごり、っていう気持ちだよ。政治の話はもういいんだ、それより経済が何とかなってくれないと。」
   戦争中のパレでは「悪虐非道の敵」(ボスニア・クロアチア勢力)について、ページャの家でもずいぶん「キレた」意見を聞かされたものです。まあ今でもややイスラム化したサライェヴォの現状を快く思っていないことは確かですが、やはりサライェヴォはサライェヴォ、この山村からは自動車で15分で行けるところですから、ナンバープレートも変わった最近(第9回配信参照)は時々出て行って買い物もしているようで、セルビア人共和国とは大きな差の見える復興ぶりに羨望を覚えていました。
   昨年1月から共和国の首都になったバニャルーカは人口20万(うち難民・国内避難民6・5万)、ボスニアではサライェヴォに次ぐ大きな町です。戦争による直接の被害はないし、中心部には立派な並木道が多く、経済的にしっかりしてくればもっともっと垢抜けた町になるはずです。私が初めてこの町に行ったのは戦争が始まってからでしたが、ボスニア人の駆逐(民族浄化)とともに町にあったモスクは当時既に全て破壊されていました。モスクがまだあった戦争前に、多民族共存が曲がりなりにも実現していた時期にこの町を訪れたかった、という思いはその後も私の中でバニャルーカに行くたびにあったのですが、中でも文化的な価値が高いとされていたフェルハディヤ・モスク(16世紀建立)がどこにあったのかが気になっていました。
バニャルーカ南郊外の公園から
ヴルバス川の作る平地に開けたセルビア人共和国の首都、バニャルーカの遠景
しかし戦争中や和平直後にセルビア人に聞くわけには行きませんでした。
   11月の仕事の時知り合ったシーニッシャ(セルビア人、20代)という青年はバニャルーカの地元っ子で、私たち一行の運転手を務めてくれたのですが、彼にモスクのことをそっと、と言うよりもこわごわと切り出したら、いとも問題なげに「ここにフェルハディヤがあったんだ」と今は土台だけになった中心部からほど近い一角を示してくれました。
   サライェヴォの包囲、バニャルーカにいくつもあったモスクの爆破。セルビア人共和国の人々がそういった蛮行のために糾弾される理由はいくつもあるでしょう。しかし戦争が終わり、少しずつではあっても平和に向かって状況が変化する今、こうしたページャやシーニッシャのようにごくノーマルな会話が出来る人々と雰囲気が増しつつあることは評価すべきだと思います。
   仕事で後述のB市を訪れてバニャルーカに帰る時、シーニッシャは道を間違えて連邦側に入ってしまいました(デイトン和平によって両「部分」間にチェックポイントを設けることは禁止されています)が、何も問題はありませんでした。当のシーニッシャも遠回りになったことには平謝りでしたが、かつての敵が支配している地域に入ったことについては「高校生の時以来7年ぶりにこの道を通ったよ、別に怖いとは思わなかった」と涼しい顔。こんなところにも戦争が次第に遠くなりつつあることを感じました。

  ◆立ち遅れる経済と各国の援助

   バニャルーカ・プレスセンターのヴラシュキ職員は、「もう戦争のことを語りたがる人はほとんどいない。今は連邦より遅れている経済発展だけが皆の気がかりだ」と言います。実際、和平履行会議上級代表事務所(OHR)の経済レポートを見ても、ボスニア連邦の平均給与が98年6月の時点で319マルクなのに対し同時期のセルビア人共和国では半分以下の128マルクと、かなりの経済格差が生じています。バニャルーカへ向かう途中の小さな町からは「冴えない」印象を受けざるを得ませんし、戦争の傷がないはずの首都バニャルーカ自体、店の品揃えは貧弱(地理的に近いボスニア連邦やクロアチアとの結び付きはまだ弱くユーゴ製品がほとんどですが、当のユーゴが経済制裁こそ解除されたもののまだまだという状態ですから)、停電や断水もしばしばという状態です。第10回配信の「難民を助ける会」インタビューでも触れられていましたが、欧米の人道援助や経済援助は「まずボスニア連邦が先」というポリシーがかなりはっきりしており、サライェヴォで見られるほどの国際機関・援助機関のプレゼンスはセルビア人共和国にはありません。
小規模下水処理施設
A市は小さな町だが、しっかりした下水処理施設が出来ていた。前に立つのはUSAIDの看板
   しかし、98年1月に民族派を抑えて成立したドディック首相の親欧米派政権になってから、状況はかなり好転していることも確かです。「ここのセルビア人は戦争中アメリカやドイツを敵視していたが、今ではアメリカの政府系援助団体USAIDが頑張っているし、ドイツの団体も最近事務所を開いて難民帰還の仕事に携わっている。人それぞれの思いはあるだろうが、誰も表立ってこれらを排斥しようとはしない。それだけみんな経済不振で疲れている」とヴラシュキ氏。
   実際私が訪れたバニャルーカに近いA市(人口2万)では従来下水を川にそのまま流していたため下流の水質劣化が問題になっていましたが、最近USAIDが小規模ながら近代的な処理施設を設けたためかなり状況が改善されていました。まだ連邦のようにビジネスベースでの経済復興とまではいきませんが、国連国際復興開発銀行(IBRD)の融資を始め各国の援助は確かに増えています。ドディック首相本人の言によれば、96年の総選挙後最初の1年半には援助額にして5万マルクも集められなかったけれども、親欧米色の強い自分の政権になってからは10ヶ月足らずで500万マルクの援助マネーが共和国に入ったとのことです。
   ボスニア連邦との交流も徐々にではあれ始まっています。バニャルーカ市水道局の浄水場主任は、「ヴルバス川の上流のヤイツェ(ボスニア連邦、クロアチア人支配地域)のアルミ工場やダムの稼動状況によって水の濁度が大きく変化し飲料水の水質に影響するので、ヤイツェ側と協定が結べるように努力しているところ」だと言います。また共和国北西部B市の道路維持管理公社は、冬の路面凍結防止のための塩(塩害に敏感な最近の日本では酢などを使っていますが、当地ではまだ塩と砂の混合物が一般的です)を連邦のトゥズラから購入しています。別の道路建設会社でも、ある種のアスファルト原材はヤイツェから買っているとのことでした。統一通貨ボスニアマルクの普及、そして統一ナンバーによる移動の自由化もこうした連邦・共和国間の経済交流に役立っていることは容易に想像できます。
路面凍結防止用の塩
B市道路公社の倉庫に搬入されていた塩は連邦のトゥズラから買ったもの
   日本政府の援助も進められています。既にサライェヴォでは日本政府の無償援助による市内バスがJAPANというシールを貼って走っていますが、セルビア人共和国でも複数の案件が進行中です。昨秋関わった仕事も含めまだ未了の案件が多いためはっきりしたことを書けないのが残念ですが、上下水道、送電線、道路建設維持などインフラ関連の援助が今のところ主です。発展途上国向けの政府開発援助(ODA)については批判的なことも様々なところで言われています。私はここでは批判も賛美もするつもりはありませんが、インサイダーとして見ると、他の国の大型援助に比べやや案件の開始から終了までに時間がかかり過ぎる難点はあるけれども、ニーズ調査やアフターケアなどに日本的なキメの細かさが活かされているという印象を受けました。

セルビア人共和国だけではなく、連邦を含むボスニア全土を対象に日本外務省は「観光旅行延期勧告(危険度2)」を出していますので、このページで観光の宣伝めいたことを書くのは差し控えたいのですが、風光明媚なボスニアの中でもヤイツェからバニャルーカへ進む道は取りわけ素晴らしい景色でした。  
初雪
   この辺はヴルバス川の中流域と下流域の境い目の渓谷地帯で、川沿いに切り立った崖が10キロ以上も続くのは見事な眺めです。深秋の紅葉ならぬ黄葉が川面に映え、あるいは初雪が稜線を白くするのを、仕事での移動とはいえ十分楽しむことが出来ました。  
   もう一つの魅力は鱒(ます)料理です。ヴルバス流域には川の水を引き込んで養殖に使っているところが多く、街道沿いにも「鱒(セルビア語でPASTRMKA、ヤイツェではクロアチア語でPASTRVA)」と書いた看板で直売しているのをたくさん見ました(ヤイツェのアルミ工場さん、あんまりヴルバス川を汚さないでね)。バニャルーカのレストランではソースにあまり凝らず殆ど焼いただけ、という鱒のグリルが肉料理に飽きた口にはピッタリ。上記の勧告が解除になったアカツキにはお勧め、です。

   共和国政府のヨヴァノヴィッチ対日顧問官は「欧米の援助ももちろん歓迎だが、連邦に比べて大幅な援助の伸びは期待できない分、連邦にも共和国にも公平に援助しようという日本政府の方針は特に評価されている」と言います。「こちらの閣議で、せっかく市や公社から挙がってきた援助要請案が省庁間の争いなど官僚主義的な理由でつぶれてしまうことがあるが、反省できるところは反省してこれからも積極的に日本大使館や国際協力事業団(JICA)に働きかけを続けていく。」
   功罪が取り沙汰されているとは言え、日本国民の税金が戦後復興に使われる以上ボスニアは決して遠い国ではないと改めて実感しました。私はこれからも政府援助関係の仕事を受ける可能性がある一通訳に過ぎませんが、自分の仕事をきちんとすることが皆さんの税金をボスニアでより効果的に活かすことになる、くらいの心構えで今後も臨んでいくつもりです。

  ◆政治の先行き不透明

   と言うわけで、ドディック首相になって曲がりなりにも援助マネーの流入と戦後復興を経験したセルビア人共和国ですが、西側が期待したような選挙結果にはならなかったことは第9回配信で書いた通りです。9月の総選挙の結果大統領は民族派のポプラシェンが当選。議会は民族派と親欧米派が拮抗し、ともに難民票で議席を獲得した
バニャルーカ大統領府・議会合同庁舎(ベーリ・ドゥヴォール)
バニャルーカの中心部にある共和国大統領府・議会合同庁舎
クロアチア人、ボスニア人の協力なしには多数を取れないという伯仲した状況で、ドディックの後継首班が選挙後4ヶ月以上経った今も選出できない空転状態が続いています。ポプラシェン大統領はまず民族派のカリニッチ元議会議長を新首相候補に推薦しましたが議会で賛同多数を得られず、暮れになってドディックと同じ政党のミリューシュ氏(9月の選挙では中央議会議員に立候補して落選)を推薦しました。しかしドディック現首相はすぐに「ミリューシュの個人的な裏切り行為」として党から除名、他の親欧米派政党も同調したため、この原稿の出稿間際の1月25日にミリューシュ首班が議会に掛けられましたがやはり多数を得られませんでした。ポプラシェン大統領は第3の首相候補を選ばなければならないことになりました。
   OHRを中心とする欧米は、民族派による政府が成立した場合はドディック時代の援助トレンドは止めざるを得ない、また議会多数を取れる首相候補者を推薦しないとポプラシェン自身が有権者の信を失うことになる、と圧力を掛けていますが、まだしばらくセルビア人共和国の政治的対立は続きそうです。もう戦争オプションが復活することはあり得ないと私は思っていますが、こと経済成長に関してはまたも先行き不透明です。
   ボスニアのセルビア人は戦争中世界から悪者視されました。私も上に書いたように、戦争中の蛮行のためにこのオコガマシイ名前の共和国の人々が糾弾される理由は少なからずあると思います。しかし全ての共和国住民が戦犯ではありません。ページャやシーニッシャのようなノーマルなセルビア人は、再び帰ってきたボスニア人やクロアチア人を隣人として普通に暮らして行けると思います。ましてページャの子どもたちは戦争をほとんど知りません。そんな風にして実際にボスニアの「忘れられた半分」でも「戦後」の現実が動き出している以上、やはりバニャルーカも、他の小さな町ももっともっと経済的に発展して行ってほしいと思っています。皆さんはどうお考えでしょうか。(99年1月下旬)


  このページでの政府援助関連の掲載に当たっては私の通訳上のクライアントから了解を得ていますが、未了の案件に関係する内容については地名等を伏せて書いている場合があることをお断りしておきます。

バックナンバーの訂正、追記

  前回の第11回配信「冬はやっぱり煮込み!」の料理の説明は少し舌足らずでした。旧ユーゴにはクロアチア料理、セルビア料理、というように各地域を代表する料理はあっても「ユーゴ料理」というものはない、ただそのクロアチア料理やセルビア料理にしても前者ならイタリアやハンガリー、後者ならトルコの、つまり旧宗主国や隣接国の影響を強く受けている、ということが上手に説明し切れませんでした。
  それから少し古い話ですが第9回配信「ゆっくり前進するボスニア」でボスニアマルク紙幣の最小単位は1マルクと書きましたが、50フェニングの誤りでしたので訂正します。


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