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第12回配信 ◆戦争はもうコリゴリ 昨98年9月には報道の総選挙取材で、11月には日本政府のインフラ援助関連の仕事でセルビア人共和国に滞在しました。昨年1月まで暫定首都だったパレでは旧友ページャ(セルビア人男性、30代)に会いました。彼と知り合ったのは戦争中で、ベオグラードからパレに入り、サライェヴォを包囲する側から取材する報道機関の拠点として何度か泊まらせてもらって以来の付き合いです。サライェヴォ郊外の出身で、奥さんのビリヤナさんと知
「一時は向こうの連中を憎んでいたと思うよ。本当に自分たちの国を守らなきゃ、って真面目に考えて軍服を着てた。でも今はどうかな。また戦争になったら家族を連れてどこかへ逃げ出すだろうね。もう戦争はこりごり、っていう気持ちだよ。政治の話はもういいんだ、それより経済が何とかなってくれないと。」 戦争中のパレでは「悪虐非道の敵」(ボスニア・クロアチア勢力)について、ページャの家でもずいぶん「キレた」意見を聞かされたものです。まあ今でもややイスラム化したサライェヴォの現状を快く思っていないことは確かですが、やはりサライェヴォはサライェヴォ、この山村からは自動車で15分で行けるところですから、ナンバープレートも変わった最近(第9回配信参照)は時々出て行って買い物もしているようで、セルビア人共和国とは大きな差の見える復興ぶりに羨望を覚えていました。 昨年1月から共和国の首都になったバニャルーカは人口20万(うち難民・国内避難民6・5万)、ボスニアではサライェヴォに次ぐ大きな町です。戦争による直接の被害はないし、中心部には立派な並木道が多く、経済的にしっかりしてくればもっともっと垢抜けた町になるはずです。私が初めてこの町に行ったのは戦争が始まってからでしたが、ボスニア人の駆逐(民族浄化)とともに町にあったモスクは当時既に全て破壊されていました。モスクがまだあった戦争前に、多民族共存が曲がりなりにも実現していた時期にこの町を訪れたかった、という思いはその後も私の中でバニャルーカに行くたびにあったのですが、中でも文化的な価値が高いとされていたフェルハディヤ・モスク(16世紀建立)がどこにあったのかが気になっていました。
11月の仕事の時知り合ったシーニッシャ(セルビア人、20代)という青年はバニャルーカの地元っ子で、私たち一行の運転手を務めてくれたのですが、彼にモスクのことをそっと、と言うよりもこわごわと切り出したら、いとも問題なげに「ここにフェルハディヤがあったんだ」と今は土台だけになった中心部からほど近い一角を示してくれました。 サライェヴォの包囲、バニャルーカにいくつもあったモスクの爆破。セルビア人共和国の人々がそういった蛮行のために糾弾される理由はいくつもあるでしょう。しかし戦争が終わり、少しずつではあっても平和に向かって状況が変化する今、こうしたページャやシーニッシャのようにごくノーマルな会話が出来る人々と雰囲気が増しつつあることは評価すべきだと思います。 仕事で後述のB市を訪れてバニャルーカに帰る時、シーニッシャは道を間違えて連邦側に入ってしまいました(デイトン和平によって両「部分」間にチェックポイントを設けることは禁止されています)が、何も問題はありませんでした。当のシーニッシャも遠回りになったことには平謝りでしたが、かつての敵が支配している地域に入ったことについては「高校生の時以来7年ぶりにこの道を通ったよ、別に怖いとは思わなかった」と涼しい顔。こんなところにも戦争が次第に遠くなりつつあることを感じました。 ◆立ち遅れる経済と各国の援助
バニャルーカ・プレスセンターのヴラシュキ職員は、「もう戦争のことを語りたがる人はほとんどいない。今は連邦より遅れている経済発展だけが皆の気がかりだ」と言います。実際、和平履行会議上級代表事務所(OHR)の経済レポートを見ても、ボスニア連邦の平均給与が98年6月の時点で319マルクなのに対し同時期のセルビア人共和国では半分以下の128マルクと、かなりの経済格差が生じています。バニャルーカへ向かう途中の小さな町からは「冴えない」印象を受けざるを得ませんし、戦争の傷がないはずの首都バニャルーカ自体、店の品揃えは貧弱(地理的に近いボスニア連邦やクロアチアとの結び付きはまだ弱くユーゴ製品がほとんどですが、当のユーゴが経済制裁こそ解除されたもののまだまだという状態ですから)、停電や断水もしばしばという状態です。第10回配信の「難民を助ける会」インタビューでも触れられていましたが、欧米の人道援助や経済援助は「まずボスニア連邦が先」というポリシーがかなりはっきりしており、サライェヴォで見られるほどの国際機関・援助機関のプレゼンスはセルビア人共和国にはありません。
実際私が訪れたバニャルーカに近いA市(人口2万)では従来下水を川にそのまま流していたため下流の水質劣化が問題になっていましたが、最近USAIDが小規模ながら近代的な処理施設を設けたためかなり状況が改善されていました。まだ連邦のようにビジネスベースでの経済復興とまではいきませんが、国連国際復興開発銀行(IBRD)の融資を始め各国の援助は確かに増えています。ドディック首相本人の言によれば、96年の総選挙後最初の1年半には援助額にして5万マルクも集められなかったけれども、親欧米色の強い自分の政権になってからは10ヶ月足らずで500万マルクの援助マネーが共和国に入ったとのことです。 ボスニア連邦との交流も徐々にではあれ始まっています。バニャルーカ市水道局の浄水場主任は、「ヴルバス川の上流のヤイツェ(ボスニア連邦、クロアチア人支配地域)のアルミ工場やダムの稼動状況によって水の濁度が大きく変化し飲料水の水質に影響するので、ヤイツェ側と協定が結べるように努力しているところ」だと言います。また共和国北西部B市の道路維持管理公社は、冬の路面凍結防止のための塩(塩害に敏感な最近の日本では酢などを使っていますが、当地ではまだ塩と砂の混合物が一般的です)を連邦のトゥズラから購入しています。別の道路建設会社でも、ある種のアスファルト原材はヤイツェから買っているとのことでした。統一通貨ボスニアマルクの普及、そして統一ナンバーによる移動の自由化もこうした連邦・共和国間の経済交流に役立っていることは容易に想像できます。
共和国政府のヨヴァノヴィッチ対日顧問官は「欧米の援助ももちろん歓迎だが、連邦に比べて大幅な援助の伸びは期待できない分、連邦にも共和国にも公平に援助しようという日本政府の方針は特に評価されている」と言います。「こちらの閣議で、せっかく市や公社から挙がってきた援助要請案が省庁間の争いなど官僚主義的な理由でつぶれてしまうことがあるが、反省できるところは反省してこれからも積極的に日本大使館や国際協力事業団(JICA)に働きかけを続けていく。」 功罪が取り沙汰されているとは言え、日本国民の税金が戦後復興に使われる以上ボスニアは決して遠い国ではないと改めて実感しました。私はこれからも政府援助関係の仕事を受ける可能性がある一通訳に過ぎませんが、自分の仕事をきちんとすることが皆さんの税金をボスニアでより効果的に活かすことになる、くらいの心構えで今後も臨んでいくつもりです。 ◆政治の先行き不透明 と言うわけで、ドディック首相になって曲がりなりにも援助マネーの流入と戦後復興を経験したセルビア人共和国ですが、西側が期待したような選挙結果にはならなかったことは第9回配信で書いた通りです。9月の総選挙の結果大統領は民族派のポプラシェンが当選。議会は民族派と親欧米派が拮抗し、ともに難民票で議席を獲得した
OHRを中心とする欧米は、民族派による政府が成立した場合はドディック時代の援助トレンドは止めざるを得ない、また議会多数を取れる首相候補者を推薦しないとポプラシェン自身が有権者の信を失うことになる、と圧力を掛けていますが、まだしばらくセルビア人共和国の政治的対立は続きそうです。もう戦争オプションが復活することはあり得ないと私は思っていますが、こと経済成長に関してはまたも先行き不透明です。 ボスニアのセルビア人は戦争中世界から悪者視されました。私も上に書いたように、戦争中の蛮行のためにこのオコガマシイ名前の共和国の人々が糾弾される理由は少なからずあると思います。しかし全ての共和国住民が戦犯ではありません。ページャやシーニッシャのようなノーマルなセルビア人は、再び帰ってきたボスニア人やクロアチア人を隣人として普通に暮らして行けると思います。ましてページャの子どもたちは戦争をほとんど知りません。そんな風にして実際にボスニアの「忘れられた半分」でも「戦後」の現実が動き出している以上、やはりバニャルーカも、他の小さな町ももっともっと経済的に発展して行ってほしいと思っています。皆さんはどうお考えでしょうか。(99年1月下旬) このページでの政府援助関連の掲載に当たっては私の通訳上のクライアントから了解を得ていますが、未了の案件に関係する内容については地名等を伏せて書いている場合があることをお断りしておきます。 |
前回の第11回配信「冬はやっぱり煮込み!」の料理の説明は少し舌足らずでした。旧ユーゴにはクロアチア料理、セルビア料理、というように各地域を代表する料理はあっても「ユーゴ料理」というものはない、ただそのクロアチア料理やセルビア料理にしても前者ならイタリアやハンガリー、後者ならトルコの、つまり旧宗主国や隣接国の影響を強く受けている、ということが上手に説明し切れませんでした。 |
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