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ブコバールの過去、現在、そして・・
ブコバルは、旧ユーゴスラビアの戦争の中でも、ボスニアのサラエボなどとならぶ最大の激戦地である。クロアチア共和国の東端、ドナウ川の対岸はセルビア共和国だ。
一四世紀からハンガリー領に属し、欧州の水運のかなめとして栄えた中世都市。ブコバルとは「オオカミ」に由来するスラブ人集落の名を、ハンガリー風に変えたものだ。
一六八七年までの百六十年ほど、オスマン帝国がウィーン攻略戦のついでに占領し、その後またハンガリー領になる。映画ではこうした歴史的背景も「一六八七年以来の家宝の絵」といった小道具で、さりげなく語られる。
旧ユーゴスラビアは日本より狭い国土におもな民族だけで六つ、少数民族をいれると三十近い民族が共存する多民族国家だった。人口八万五千人(九一年)のブコバルも、クロアチア人が四三%、セルビア人三七%、その他二〇%という多民族都市だった。
ところで、クロアチア人とセルビア人は外見では区別できない。
言葉も、いまでこそ、それぞれの憲法で「クロアチア語」と「セルビア語」を公用語と定めているが、かつては「セルビア・クロアチア語」とまとめて呼ばれた同じ言葉だ。
方言の差はあるが、ブコバルではクロアチア人もセルビア人も完全に同じ。捕虜になったものの「自分はセルビア人」と偽り、釈放されたクロアチア人が何人もいたほどだ。
では、クロアチア人とセルビア人はどこが違うのか。もっとも大きなものは宗教(ローマ・カトリックとセルビア正教)の違いだ。
誤解してほしくないが、だからといってこの紛争は「宗教戦争」などではない。民族の違いを理由に自動的におこった戦争でもない。後にのべるが、本質は領土紛争である。
旧ユーゴスラビアでは対立の歴史より、多民族共存の伝統の方がはるかに長い。少なくとも八〇年代後半までは、民族の違いを意識することはほとんどなかった。
映画の主人公たちのようなセルビア人とクロアチア人の結婚式も、ありふれた風景だった。生まれた子どもは「ユーゴスラビア人」と呼ばれるのが普通だった。正確な統計はないが、人口の少なくとも半数は、異なる民族のだれかと親戚だったのではないか。
ちなみに、正教会はローマ時代のユリウス暦を使用しているため、カトリックで使うグレゴリウス暦(西暦)と十三日のずれがある。クリスマスは一月七日、新年は十三日だ。
家によってはクリスマスや新年を二回ずつお祝いする。隣近所の「異教徒」も招かれ、ごちそうになる。お返しに、たとえばボスニアなら、イスラム教徒の家族が断食明けの祝日にキリスト教徒の親戚や友人を招待する。それが当たり前だったのだ。
じつは、クロアチア人とセルビア人を見分ける方法がひとつある。祈るときの十字の切り方が少し違うのだ。
はじめに右手をひたいから胸の中央におろすところまでは同じだが、カトリック教徒は左肩から右肩へと動かし、正教徒は反対に右から左の順になる。
映画の終盤、地下の避難所でアナとラトカが、警報の音が鳴ると十字を切り、そのやり方が違って、顔を見合わせるシーンがある。
そう。ラトカはセルビア人なのだ。この場面で初めて明らかにされる意外な事実。
このシーンの直前、セルビア人狩りの民兵に、アナの声が「ネーマ(いない)」とこたえている。あれも、アナが親友をかばうためについた嘘ということになる。
「民族紛争」の中でクロアチア人の夫が戦死した後も、最後までアナを助け、支えてくれた親友ラトカ。人間と人間のつながりあいに、ほんとうは民族の違いなどどうでもいいはずだ。人間というやつを少しは信じてもいいかなと、ささやかな希望をいだかせる、さりげないが大事なエピソード。
旧ユーゴスラビアには何千、何万組ものアナやトーマたちが生きていた。いや、現在でも、民族主義と戦乱の嵐に翻弄されながら、それぞれの運命を生きているのだ。
わたしが最初にブコバルに行ったのは九一年秋だった。といっても、そのときはブコバルを包囲・攻撃していたセルビア側の兵隊に同行してドナウ川をゴムボートで渡り、郊外から団地群を望遠レンズでながめただけだ。
二度目は停戦後の九二年初夏。世界の終末はこんな感じかと思わせるような、廃墟の街を見て回った。
この映画をみて、そのことをあざやかに思い出した。あのときブコバルで、それまでのイメージとは別の戦争の実像にふれ、わたしの戦争観は大きく変わったのだ。
戦争とは、もちろん、大規模な殺人の別名であり、ブコバルでもたくさんの人間が死んだ。破壊もすさまじい。ブコバルで無傷だった建物はたった二%にすぎない。
しかし、当時、つよく印象に残ったのは、楽しみにしていた老後の生活設計を台なしにされた老女の泣き顔。あるいは、明らかに物盗り(ルビ・ものとり)に荒らされた形跡のある無人のアパートの部屋のがれきの中に散乱するモノクロの結婚式の写真だった。
極限状態の中で考えたありふれた日常生活の意味、というか、かつてはそこにしっかりと存在していた人間のいとなみの名残や残骸にふれて感じた−−戦争とは、いのちや財産だけでなく、愛や希望、人間のきずなや楽しかった思い出など、形はないけれど一生大切にしたいものを、無残に手からむしり取られ、奪われることではないのか。
映画を見て、当時のわたしの直感と、この映画の制作者たちの感覚とがかさなりあうような気がして、わたしは少しほっとした。すぐにまた、ブコバルやボスニアでの現実の記憶がオーバーラップし、感傷的になってしまったのではあるのだけれど。
消息の途絶えたトーマをアナたちが車でさがしまわるシーンがある。クロアチア軍が連邦軍の基地を封鎖した九一年夏。この当時はまだ、クロアチアをふくめ旧ユーゴスラビア全国に連邦軍の基地があった。おもなところをひとつひとつたずねたのだ。
アナたちが行く先々にインサートされているのは、旧ユーゴスラビアでも特別に風光明媚、有名な景色ばかりである。
湖に浮かぶ島の教会(スロベニア・ブレッド湖)、町の象徴・緑のドラゴン像(同リュブリャナ市)、複雑に入り組んだ海岸線の空撮(クロアチア・アドリア海)、屋根に紋章のある教会(同ザグレブ市)、古い石橋(ボスニア・ビッシェグラード市=ノーベル賞作家アンドリッチの『ドリナの橋』の舞台)、赤い市電と城跡の空撮(セルビア・ベオグラード市)、アーチ型の石橋から飛び込む少年(ボスニア・モスタル市=一五六六年建造のこの橋は九三年十一月、クロアチア人勢力に爆破され、もうない)・・
これらの印象的な映像を、廃墟が長く長く続くラストシーンにかさねあわせてほしい。つい数年前まで多民族が共存していた「記憶」を惜しみ、ブコバルの破壊を憎む製作者の気持ちが伝わってくるはずだ。
八〇年代後半からさまざまな民族主義が広がり、旧ユーゴスラビア連邦は戦争に突入、崩壊した。つぎのように、いくつかの異なった戦争が並行し、からみあっている。
@スロベニア戦争(91年6〜7月)、
@クロアチア戦争(第一次=91年8月〜92年1月。第二次=95年5月〜8月)、
@ボスニア戦争(92年4月〜95年10月)
ブコバル包囲戦は第一次クロアチア戦争の一部で、連邦からの独立をめざすクロアチア政府軍と、連邦残留(セルビア共和国への合併)をめざすセルビア人勢力の対立という構図である。独立か残留か−−ひとつひとつの村や町がだれのものになるのかをめぐる領土争いである。くわしく知りたい人は講談社現代新書『ユーゴ紛争』を参考にしてほしい。
クロアチア国民の十八歳以上の男子は、従来の旧ユーゴスラビア連邦軍の徴兵に応じるか、新しく結成されたクロアチア軍に志願するかの選択を迫られた。
映画の中で、トーマが徴兵されたのは旧連邦軍(セルビア人中心)、アナの父スティエパンにしつこく入隊を迫ったのは、クロアチア政府側の徴兵係だ。
ブコバル包囲戦がはじまるのは九一年九月。中立的だった旧連邦軍が、セルビア人側に加担し、本格的な戦闘を開始したのだ。
旧連邦軍司令官は「十日で陥落させる」と豪語したが、前線ではきのうまでの隣人を敵にした戦闘を前に脱走兵が続出。圧倒的な火力差にもかかわらず、長期戦になった。
ブコバルは三カ月間、よく持ちこたえた。しかし、クロアチア政府は「ブコバルを救え」との宣伝を国内外で続けながら、裏でブコバル向けの武器をボスニアのクロアチア人勢力に回していた。ブコバルは意図的に見捨てられ、クロアチア独立への国際的支援を得るための犠牲、宣伝材料にされたのだ。
わたしの日誌には「11月17日ブコバル陥落(クロアチア側認めず)。18日午前、連邦軍ムルクシッチ司令官最後通牒。15時、ブコバルのクロアチア部隊が降伏」とある。
映画はここで終わるが、現実には九二年春、ボスニアに戦火が拡大する。セルビア、クロアチア、ムスリム人(イスラム教徒)の「三つどもえ」で三年半、死者二十数万人、難民三百万人を出したすえ、アメリカの強引な工作で九五年十一月に和平協定が結ばれた。
停戦協定が一応守られていたクロアチアでは九五年夏、クロアチア軍が停戦違反の奇襲攻撃をかけ、ブコバル周辺を除くセルビア人地域を完全制圧(第二次クロアチア戦争)。
おいつめられたブコバルのセルビア人たちは、国連を仲介にした交渉で、一定の自治と復興援助などを条件に「平和的再統合」に応じることにした。
順調にいけば、映画が公開中の九七年四月に自由選挙実施、七月中にもブコバルはふたたび「クロアチア領土」になる。
ブコバルはいまだ復興からほど遠い。そのすさまじい破壊の跡はサラエボなどと並んで、民族主義の恐ろしさ、人間の愚かさを象徴する「二〇世紀末のモニュメント」である。
(ちだ ぜん=ジャーナリスト)
【ブコバール関連資料】
89年11月 | 「ベルリンの壁」崩壊。続いて、東欧諸国の政変が連続して起きる。ユーゴスラビアでも各地で民族主義がつよまる。このころ、トーマとアナたちの新居が完成。 |
90年1月 | ユーゴスラビア共産主義者同盟(共産党)解体。自由選挙の実施決定。 クロアチアでは、ユーゴスラビアからの独立をめざす民族主義政党結成。 |
春 | トーマとアナの結婚式。民族主義者のデモ隊にぶつかる |
4〜5月 | クロアチアで自由選挙、民族主義政権が発足。クロアチア国営企業のセルビア系住民解雇など、迫害はじまる。 |
91年4月 | クロアチア内のセルビア民族主義者が武装し、13町村がセルビア本国への統合を宣言。クロアチア政府が独自の軍隊(国民防衛隊)結成。 |
5月2日 | ブコバル近郊のボロボセロで銃撃戦、15人死亡。 |
5月6日 | クロアチア沿岸部の港湾都市スプリットで10万人がデモ。連邦軍と衝突し、兵士1人(マケドニア人)が死亡。トーマが連邦軍に徴兵される。 |
6月25日 | クロアチア議会が、スロベニアとともに独立宣言採択。27日未明より、連邦軍がスロベニアに戦車部隊など出動、スロベニア軍(領土防衛隊)と衝突。10日後の7月7日、ECの仲介で停戦。このころトーマの両親がセルビア本国に移住。表通りでの銃撃戦の後、アナも、ブコバル市内の実家に移る。 |
8月 | トーマからアナへ電話。妊娠していることを告げるが、切れる。クロアチア各地で本格的戦闘。クロアチア軍が連邦軍基地を封鎖。アナは父スティエパンと、ユーゴスラビア各地をまわり、トーマをさがす。 |
秋 | アナが職場を解雇される。父スティエパンが徴兵される。 |
10月 | ブコバルへの連邦軍の攻撃が激化。ブコバルは包囲され、孤立状態に。食料など不足。人びとは防空壕や地下室に避難。トーマもブコバルに配置される。 |
11月18日 | ブコバルが「陥落」。連邦軍が支配。大量の難民が流出、民族籍や希望にしたがって、クロアチア本国やセルビア本国に移送される。 |
92年1月3日 | バンス元米国務長官の仲介で、クロアチアでの停戦が発効。 |
1月15日 | ECがクロアチア、スロベニアのユーゴスラビアからの独立を承認。 |
4月 | ECなどがボスニアの独立を承認。戦火がボスニアに拡大 |
95年5月 | クロアチア軍が西スラボニア地方のセルビア人地域に奇襲攻撃、制圧。8月にはクライナ地方のセルビア人地域を制圧。 |
8月 | NATO軍がボスニアのセルビア人勢力を大規模空爆。 |
10月 | ボスニア各派が停戦で合意、3年半にわたる泥沼の戦闘がやむ。 |
11月22日 | アメリカ・オハイオ州デイトンで各派が和平協定に調印。ブコバル周辺のセルビア人地域の「クロアチアへの再統合」も決まる。 |
[ブコバルの歴史](『ユーゴスラビアの歴史遺産−−観光百科ガイド』より)
ブコバル(Vukovar) すでに新石器時代から人間が住んでいた形跡があるが(郊外のブーチェドール遺跡)、中世以降の都市は、スラブ人の集落ブーコボ(Vukovo)を基礎にして発展した。13世紀には同名のブーコボ県の中心地となった。
当時のブコバルは、城壁で囲まれたグラード(ワルツォフ城)と、ブーカ川がドナウ川に注ぐ河口付近の居住地との、2つの部分からなっていた。1231年には租税上の特権を与えられ、その少し後にはドナウ川およびブーカ川の通行税を徴収する権利も得た。
14世紀から15世紀にかけてブーコボ(ブコバル)は、ホルバート家、ゴリャンスキー家、タロブツィ家の3家族の領地だったが、1526年から1687年にかけてオスマン・トルコに占領された。ピファゲットという紀行作家によると、1567年当時のブーコボには通商上重要な橋がかけられ、かなり大きな都市だったという。
1737年以降、ブーコボはドイツ出身のエルツ伯爵家(Elc,ドイツ名Eltz)の領地となる。「ブコバル」という名前は、スラブ語での中世の呼び名「ブーコボ」をハンガリー風に改めたもので、17世紀末頃から使われるようになった。
ブコバルの考古学的遺跡は、新石器時代(ブーチェドル式土器を含む)から青銅器時代(いわゆるパンノニア式土器などを含む)にいたるものが発見されている。
ブコバルの旧市街でもっとも目立つのはフランシスコ派の修道院(1727年)で、聖フィリップ・ヤコブ教会が付設されている。修道院は、絵画のコレクション(「エマウスのキリスト」ほか、多くの聖人の絵、肖像画など)で有名である。教会内部には、「ピエタ」(1692年)をはじめ、「最後の審判」などの絵画が飾られている。
聖ニコライ洗礼教会(1732-1737年)にはバロック様式のイコノスタシスが、また聖ロカ教会には古代のヘラクレスの像(2世紀)がある。
県庁舎は1777年建設。ドナウ川沿いの市街地には、ブコバルの領主エルツ家の城(屋敷)がある(19世紀初め改装)。現在の大通りには、1階にアーケードを備えた後期バロック様式の家屋が多く保存されている。
市立博物館は旧中央郵便局にあり、考古学、歴史・文化、民族学の資料のほか、人民解放戦争(第2次世界大戦のパルチザン戦争)の記録が展示されている。同じ博物館に、歴史的古文書館も付設されている。
(訳注 この記述は1983年当時のもの。エルツ屋敷をはじめとするブコバルの歴史的建造物、絵画など文化遺産は、1991年秋の戦闘でほぼ全面的に破壊された)
[映画「ブコバルに手紙は届かない」]登場人物
トーマ ブコバル育ちのセルビア人。結婚後、ユーゴ連邦軍に徴兵される。
アナ トーマの妻。幼なじみ。クロアチア人。
ドゥシャン トーマの父。セルビア人。紛争激化で、セルビア本国に妻とともに避難
ヴェラ(ベラ) トーマの母。セルビア人。
スティエパン アナの父。クロアチア人。家具職人。クロアチア軍に徴兵される。
ヴィルマ(ウィルマ) アナの母。クロアチア人。
ラトカ アナの親友。セルビア人。夫のブルーノはクロアチア人。戦闘が激化し、地下室(避難壕)にアナとともに避難する。
ブルーノ ラトカの夫。クロアチア人。スウェーデンの出稼ぎ先から帰国し、家族を連れていこうとするが、クロアチア軍に徴兵される。
レンカ ラトカとブルーノの娘
ヨバン(ヨワン)とミルカ トーマたちの家の向かいに住むセルビア人の夫婦。クロアチア民族主義者に自宅を爆破される
ファディル 連邦軍でのトーマの戦友。サラエボ出身のムスリム人(イスラム教徒)。駐屯地に実家からのボスニア風パイのさし入れに、大喜びする。くだらない冗談が好き。
タシェフスキー ファディルと同じ戦友。マケドニア人。美容院で「ユーゴで一番美しい、死体にして差し上げます」などと冗談をいう。
ヴィンコ(ビンコ)とペータル クロアチア軍の動員係。クロアチア人。執拗に、アナの父スティエパンをクロアチア軍に志願させようと訪れる。
強盗の親玉 「戦争の犬」を自称。クロアチア人。戦闘が激化し、アナたちのいる避難壕にもぐりこむ
クロアチア軍部隊司令官 アナたちの家の屋根を戦車で破壊するが、修繕させる。部下に命じ、アナに自動小銃の撃ち方を教えさせる。
魔女たち 負傷したトーマの幻の中にあらわれ、傷の手当をし、ヒッヒッヒと笑う。