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「エグザイル・イン・サラエボ」とその背景
    千田 善


 最初に、映画の冒頭で出てくるスレブレニツァ虐殺について、少し説明しておこう。
 ボスニアは、三年半で死者二十数万、難民三百万人、組織的なレイプや非戦闘員虐殺、追放など「民族浄化」(他民族撲滅)の悲惨な経験をした。その中でも、一度に七千人が殺されたスレブレニツァ虐殺は、国際社会に大きな衝撃を与えた。戦争初期にボスニア潜入を試み、負傷で断念していたタヒール(タヒアの現地読み)が再度サラエボ行きを決意したのも、この虐殺事件がきっかけだった。
 ボスニア東部のスレブレニツァはムスリム人(イスラム教徒)の町で、一九九五年七月に陥落した。その際、未成年者を含む男性約七千人が、女性や老人から引き離され、セルビア人勢力軍に連行されたまま行方不明になった。十日後、隣接するジェパ村も陥落し、男性約千七百人が、同じように消えた。
 「危害は加えない。あなた方はわれわれの保護下にある。家族はいずれ再会できる」とセルビア人勢力のムラディッチ司令官(冒頭の実写映像に出てくる)は住民をだました。実際には、男たちはほぼ全員が数日のうちに殺害され、近くの山中に埋められた。ムラディッチは、ボスニアの「セルビア人(ルビ=スルプスカ)共和国大統領」のカラジッチらとともに戦争犯罪容疑(大量虐殺)で国際法廷に起訴されているが、逃走中。集団埋葬地は現在、国連の調査団が発掘中だ。
 スレブレニツァやジェパは国連が「安全地域」に指定していた。しかし配備された国連平和維持軍はたった数百人で、最初から守れるはずがない。しかも国連部隊を援護するはずのNATO(米軍)は、セルビア人勢力の攻撃準備を偵察衛星で事前に知りながら、国連部隊にも知らせず、陥落を事実上黙認した。
 ジェパの隣に位置し、同じ「安全地域」だったゴラジュデ(映画後半で出てくる)は陥落をまぬがれたが、四年近くの地獄の苦しみは、絶望した市長が「助けてくれないなら、ひと思いに殺してくれ」と、自分たちへの空爆をNATOに要請したほどだった。
 スレブレニツァはサラエボなどと並んで、ボスニアの悲劇の象徴である。悲劇とは、人間がたくさん死んだことばかりではない。決議や声明ばかりで、有効な対策を打たなかった国際社会の無力さの象徴でもある。二〇世紀の「国際正義」に対する絶望と憤り。筆者は最近、夫や息子を亡くしたスレブレニツァの女性たちとサラエボで会ったが、口々に訴える難民を前に、ジャーナリストとしての贖罪の方法をあらためて考えさせられた。
 ボスニア戦争そのものは九五年八月末〜九月中旬のNATOの大規模な空爆を経て、十一月の米オハイオ州デイトンでの和平協定調印(デイトン合意)で一応、終結した。しかしこれもまた、やはり武力には武力なのか、やはり超大国アメリカに頼るしかないのか、という、別の意味での違和感を残した。
 映画の舞台は、以上のように、九五年夏のスレブレニツァ虐殺から、デイトン合意、そして九六年春のセルビア人勢力撤退、サラエボ包囲解除までのボスニア。現場で撮影されたドキュメンタリーである。サラエボでの暗殺事件をきっかけにした第一次世界大戦によって幕を開けた二〇世紀が、同じサラエボでの殺戮で閉じようとしているその終幕を、自分の背丈に合わせて切り取った映画だ。
 九五年当時の日本は阪神大震災や地下鉄サリン事件が起こり、国際社会とは別の文脈にいた。日本でこの映画を見る際、現地の人や、ボスニアに兵士を派遣している欧米諸国、あるいはタヒールの故郷オーストラリア(旧ユーゴ諸国からの移民が多い)の観客と同じ感慨を共有するには、この問題での「国際的常識」の欠落を補う知的努力が必要だろう。そうでなければ、少なくともこの映画を、問題を考えるきっかけにしてくれればいい。遅すぎることは決してない。
 ともあれ、主人公タヒールにとってのボスニアは「外部」から潜入する未知の場所であると同時に、自分自身がその「内部」にルーツを持つという特別の場所だ。「エグザイル」とは亡命、追放、流刑など、やむを得ず本来とは別の土地に滞在する意味がある。彼にとってサラエボは、母の故郷という運命的な場所なのだが、みずからの意志によって定めた滞在の地でもある。トリップ(旅行)でもアドベンチャー(冒険)でもなく「エグザイル」である。「自分は何者か。どこから来て、そしてどこへ行くのか」と自問する「さまよいの場」でもあっただろう。


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 サラエボは三年半の間、セルビア人勢力に包囲された。盆地を囲む丘には約四百の戦車や大砲が配備され、大小数千の機関銃とともに銃口を市街地に向けていた。映画の中では十分説明されていないが、セルビア人側の包囲とともに、ボスニア政府(ムスリム人主導)が一般人の市外への脱出を禁じたため、市民は「セルビア人側の標的」かつ「政府の人質」として、二重に苦しむことになった。
 八四年には冬季オリンピックが開催されたサラエボ(人口約五〇万)は、ムスリム人とセルビア人、クロアチア人の主要三民族が共存する近代都市だった。
 五百年のオスマン帝国支配の後、オーストリア・ハンガリー帝国に併合された歴史があり、サラエボはアジアとヨーロッパが併存、融合した独特の景観がある。
 中世には西欧で迫害されたユダヤ人を受け入れるなど、民族や宗教の違いに寛容な伝統があった。戦争前には(戦争中も)近所同士、クリスマスやバイラム(イスラム歴断食月明けの祝祭)などの祝日に、お互いを招待しあった。民族・宗教の違いを越えた結婚も珍しくない。おそらく人口の過半数は、「他民族の親戚」がいるのではないか。
 かつて「欧州の火薬庫」と呼ばれ、第二次大戦のナチス占領下でも民族間の殺し合いが起こったが、共存の歴史の方がはるかに長い。ところが、八九年の「ベルリンの壁崩壊」など東欧の激動を前後し、隣のセルビアとクロアチアで民族主義政治家が台頭した。その結果、旧ユーゴ連邦は分裂・解体するのだが、ボスニアは九二年春に独立を宣言し、その直後に民族勢力ごとの領土分割戦争に突入した。今世紀で三度目の大きな戦争だ。
 サラエボも争奪戦の対象になり、少なくないセルビア人があらかじめ町を脱け出してセルビア人勢力軍に加わり、サラエボを包囲する側に回った。一方、みずからの意志でサラエボに残り、町を守る側にたったセルビア人もかなりの数に上る。ちなみにボスニア政府軍の参謀総長はセルビア人だった。
 そうした意味では、サラエボはムスリム人一色の町ではない。戦争が「民族紛争」だったのはたしかだが、「民族主義」対「多民族共存」の理念の衝突という側面もあった。
 現実には、サラエボの人口の多数を占めるムスリム人(もっとも犠牲者が多い)の民族主義も強まった。最近、豚肉の入手がむずかしくなったり、年末にはサンタクロース姿の宣伝マンが殴られるなど、問題がないわけではないが、サラエボの多民族共存の伝統は、まだ(かろうじて?)健在である。
 戦争中の包囲下でも、町に残ったサラエボ市民は民族の違いを越えて助け合った。
 戦争でガスも水道も出なくなり、水を汲みに出るのも命がけだ。攻撃を避けるために建物の間の細い路地を選んで歩く。見通しのいい交差点は狙撃されないよう、重いポリタンクを下げて走る。停電でエレベーターが動かないので階段で運び上げる。一杯の洗面器で顔、体、足の順で洗い、その水も捨てずにトイレの水洗タンクへ。冬は街路樹や家具、蔵書を燃やして暖を取る。攻撃が激しい晩は、地下室や階段で眠る。テレビは停電で映らない。ラジオの乾電池は塩水でゆでると一時的に回復することを発見。生野菜と動物性蛋白が極端に不足する、非日常的な日常生活。
 ほぼ完全に国際援助物資に依存しつつ、それすらも十分に回ってこないため、サラエボ市民は平均で二〇キロもやせたという。
 電話局が焼け落ちたので、電話は不通。親戚や知人の安否確認など「外部」との連絡は、アマチュア無線と国際赤十字の手紙便だけが頼りだった。「外部」のボスニア関係者がインターネットで膨大な量の情報交換をしていたのと比べれば、まるで原始時代。
 まるでドブネズミの生活だ。しかし市民たちは、本当にドブネズミのようになることは断固として拒否した。
 ふだんどおりの生活を続けることが、サラエボ市民にとっての「抵抗」だった。ふだんどおり化粧をし、きれいなドレスを着て、ハイヒールをはいて出かける。市電は動いていないので徒歩通勤だが、仕事が終われば、奇跡的にやっている劇場や映画館、美術展に出かけたり、カフェで友人とおしゃべりを楽しむ。それが非日常的な戦争に対する精いっぱいの抵抗なのだと市民たちは考えた。
 極限状態の中でも、あり合わせの材料で、たとえば、小麦粉とマカロニだけで「ポテトパイ」を作り、隣近所で分け合って食べた。おしゃべりしながら、アネクドータ(小話)を作って戦争を笑い飛ばした。それが戦時下で「戦争を忘れる」方法でもあった。
 タヒールはそうしたサラエボ市民たちの誇りやユーモア、悲しみや痛みを描きながら、それを共有しようとしている。その姿勢があって、この映画は作品として成立した。
 筆者は停戦後、サラエボを四回訪れているが、まだまだ復興にはほど遠い。難民の帰還も遅れているうえ、学校の教科書や通貨は、勢力範囲ごとに異なるものが使われている。
 深刻なのは、戦争をすすめた当事者(政治家たち)がいまだに政権に居座り、民族主義や戦争が悪いことだったと認めていないことだ。このままだと、戦争の教訓をあいまいにしたまま二一世紀に突入することになる。
 映画を見ながら、ユーモア好きでしたたかなサラエボの人びとの笑顔を思い出した。筆者も同時代のジャーナリスト、人間として、もっと何かできるはずだと考えている。(ちだ ぜん・ジャーナリスト)

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