(新星堂情報誌『ミュージックタウン』原稿)

東西文明の交差点 旧ユーゴスラビアの民族と文化

               千田 善

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 たとえば荻窪あたりの喫茶店で、ボスニア出身のヤドランカとわたしが世間話をしている。あなたは、隣のテーブルに偶然すわっていて、こう、たずねてくる。

 「すみません。いったい何語(ルビ・なにご)で話してるんですか?」

 ボスニアの人びとのユーモア好きは有名だが、ヤドランカは茶目っ気たっぷりに、

 「ドブロ・ピーターニェ」

 と応答するに違いない。いい質問ね。いったい、何語だと思う?。

 旧ユーゴスラビアでは人口の八割が、日常語として「セルビア・クロアチア語(セルボ・クロアチア語ともいう)」を使っていた。ヤドランカも、この言葉が日常語だ。

 ちなみに、「ユーゴスラビア(旧)」は五つに分裂・崩壊したが、セルビアとモンテネグロの二共和国はいまでも、領土・人口とも半分弱ながら「ユーゴスラビア」(九二年四月建国)の国名を使っている。通称で新旧をつけるのは、これらを区別するためだ。

 さて、ヤドランカは、あなたの質問にこう、答えるかも知れない。

 「同時に三カ国語で会話しているのよ。ボスニアの人間はバイリンガルを越えた、トリリンガル(三カ国語使い)なの・・」

 それには次のような事情がある。

 「セルビア・クロアチア語」は地域によって方言はあるが、四〇〇キロ離れているベオグラードとザグレブでも、日本語の関西弁と関東弁の違いよりはずっと近い。京都弁と大阪弁、あるいは茨城弁と栃木弁ほどの差でしかない。ボスニアでは、三民族とも同じボスニア方言だ。

 ただし、読み書きになると、セルビアではロシア語に似たキリル文字、クロアチアでは英語などと共通のラテン文字を使う。カタカナとひらがなの違いに似ている。

 では、セルビア人とクロアチア人、ムスリム人(イスラム教徒)の三民族が住んでいるボスニアではどうだったのか。今回の戦争前、新聞は偶数ページをカタカナ、奇数ページをひらがなで印刷。翌日はその逆、といった具合にバランスを取っていた。

 ところが、九一年以来の戦争で旧ユーゴスラビアが崩壊・分裂すると、言葉の呼び方までバラバラになってしまった。

 セルビア共和国は「セルビア語」を、クロアチア共和国は「クロアチア語」を、それぞれ憲法を改定して公用語とした。

 ムスリム人が中心のボスニア政府も「ボスニア語」を公用語にする、と少しあとになって決定した。

 こうして、もともとおしゃべりのボスニアの人びとは、自動的に三カ国語を話す「トリリンガル」になってしまったのである。

♯♭♪

 冗談はさておき、旧ユーゴスラビアには「セルビア・クロアチア語」のほか、スロベニア語、マケドニア語と、公用語が合計3つあった。標準語があれば「ユーゴスラビア語」とでもいうのだろうが、そんな言葉はない。

 連邦議会では同時通訳がついたし、テレビドラマにも字幕がついた。

 各地方(共和国と自治州)の放送局は、地元の言葉で番組を制作していた(ニュースも方言で、なまって読んでいた)。青森の放送局が津軽弁で収録したメロドラマを、九州の放送局が鹿児島弁の字幕をかぶせて放送する、という事態を想像すればよい。

 旧ユーゴスラビアには、アルバニア系、ハンガリー系、イタリア系など二十以上の少数民族がいたが、そうした人びと向けの放送もあった。なかでも、ジプシー(正式には「ロマ」と呼ぶ)の言葉(ジプシー語)でテレビ・ラジオ番組が定期的に放送されていたのは、世界中で旧ユーゴスラビアだけだったろう。

 大変めんどうに思われるが、これは民族の平等を守るための政策だった。言葉だけでなく、さまざまな伝統や文化(とくに、民謡や民族舞踊など)も手厚く保護されていた。

 そういう民族平等のための努力をしていた国が、なぜ戦争になり、分裂してしまったのかは、拙著『ユーゴ紛争』(講談社現代新書)などを参考にしてもらいたい。

#♭♪

 旧ユーゴスラビアは「モザイク国家」と呼ばれたほど、多様な民族、文化、伝統を抱えていた。

 その複雑さをあらわすのに、次のような「数え言葉」が有名だった。

 ◇7つの国境(イタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャ、アルバニアと接している)

 ◇6つの共和国(スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニア)

 ◇5つの民族(スロベニア、クロアチア、セルビア、モンテネグロ、マケドニア)

 ◇4つの言語(スロベニア語、クロアチア語、セルビア語、マケドニア語)

 ◇3つの宗教(ローマ・カトリック、セルビア正教、イスラム教)

 ◇2種類の文字(キリル文字、ラテン文字)

 ◇1つの国の独立を守ろうという国民の堅い意志

 −−というものだ。実際には「数え言葉」ができたあとに、イスラム教徒が「ムスリム人」という民族として公認されるなど、少し違うところもあったが、複雑さ、多様さをあらわす点では、よくできている。

 かつて、各地の民謡の特徴を織り混ぜて作られた「ユーゴスラビアよ!」という歌があった。民族の友愛のシンボルとして「第二の国歌」ともよばれていた。

 ♪南は、エーゲ海にそそぐマケドニアのバルダル川から、北は、スロベニア・アルプスの最高峰トリグラウ山まで。

 ♪東は、ドナウ川の急流ジェルダップ渓谷から、西は、風光明媚なアドリア海まで

 −−という意味の一節ではじまる。自然の多様さ、美しさを豊かに歌い上げたものだった。ちなみに、この歌は8分の7拍子。マケドニア民謡に多い、独特のリズムだ。

 歌詞のとおり、旧ユーゴスラビアは自然や風土も変化にとんでいた。温暖な地中海気候、厳しい山岳気候、夏暑く冬寒い大陸気候。いうまでもなく、そこに住む人間(民族)の文化や伝統も多種多様だった。

 旧ユーゴスラビアは東西文明がぶつかり、まじわりあう交差点に位置していたからだ。

 その昔、東西ローマ帝国の境界線は、旧ユーゴスラビアの真ん中を通っていた。

 その後、一九世紀までこの地域は、ハプスブルク(オーストリア・ハンガリー)帝国とオスマン帝国(オスマン・トルコ)という、当時の超大国に支配されていた。

 この二大帝国が崩壊した後に誕生した旧ユーゴスラビア(建国当時は王国だった)は最初から、政治的に複雑な民族問題を抱える反面、文化的には豊かな多様性をもっていた。

 東欧は「民族舞踊と民謡の宝庫」と呼ばれていたが、その中でも旧ユーゴスラビアは別格で、西欧風からオリエンタルな旋律まで、あらゆる要素がある。「欧州大陸の縮図」とか「小ヨーロッパ」と呼ばれていた。

 たとえばスロベニアの民謡や流行歌は、隣接するオーストリア・チロル地方やスイスなどの民謡と非常によく似ている。スロベニアはヨーロッパ・アルプスの東端にある。ヨーデルはないが、民族衣装もうりふたつの「アルプス文化圏」の一部といえる。

 クロアチアも、ハプスブルク帝国の支配下にあったが、アドリア海沿岸地方はイタリア・カンツォーネ風の民謡、平野部はハンガリーに少し似たスラボニア民謡など、それぞれの地域に「お国自慢」がある。

 一方、オスマン帝国領土だったセルビアやモンテネグロ、ボスニア、マケドニアでは、まったく違った民謡、民族舞踊が伝えられてきた。

 メロディはアジア的なものと、もともとのスラブ的なものとが混然としている。

 有名なのはセルビアの「コロ・ダンス」で、コロ(車輪)という名のとおり、男女が輪になって手をつなぎ、複雑なステップを競い合う。下半身だけを激しく動かす「足踏みの踊り」といっていい。

 丸い輪や横一列になってステップを踏む踊り方は、ブルガリアやギリシャの民族舞踊とも共通する。列の一番端がリーダーで、ハンカチやスカーフをくるくる回して調子を取るスタイルも共通している。

 しかし、セルビアでは男女が交互に手をつなぐのに、バルカン半島を南に行くにしたがって、どういうわけか、男女が別の輪(列)になる。。

 民謡以外でも、セルビアやボスニアなどで新しく作曲される流行歌(歌謡曲だ)は、日本や韓国などの「演歌」にそっくりなものが少なくない。アジアとヨーロッパの両方の音楽の要素を融合させてできたという点が共通しているのかもしれない。

♪♯♭

 旧ユーゴスラビアの中でも、もっとも複雑なのがボスニア・ヘルツェゴビナだ。

 約五百年間のオスマン帝国支配の間にイスラム教が入り、次はハプスブルク帝国が一八七八年から四十年間にわたって支配した。ハプスブルクの皇太子がサラエボで暗殺され、第一次大戦の発火点となった(サラエボ事件)ことは有名だ。

 当時の二つの超大国に相次いで支配されたことで、サラエボにはトルコ風の下町と、ヨーロッパ風の近代建築とが共存している。この独特の町並みが、サラエボの美しさを作り出していた。

 中心街には半径数十メートルの範囲に、カトリック教会、セルビア正教の教会、イスラム教のモスク(寺院)が立っている。それぞれの教会は朝晩、鐘の音や礼拝の時間を告げる朗唱が重ならないよう、数分ずつずらして鳴らしていた。

 三十万人近くが死ぬ戦争が起こってしまった今となっては、想像するのも難しいが、ボスニアの長い歴史から見れば、共存の知恵が生きていた時期の方が長い。

 ボスニアの三民族それぞれが、近代的な意味での「民族」になったのは、それほど昔のことではなく、一九世紀になってからだ。

 百年ほど前に書かれた旅行記にも、言葉はもちろん、服装(民族衣装)もほとんど同じだったと書いてある。

 お互いに対立するようになったのはごく最近で、今回の戦争も、政治家たちが民族主義をあおったことが最大の原因だ。

 サラエボなどの都市部では、民族の違いを越えた結婚も当たり前だった。戦争は家族や友人のきずなをむごたらしく引き裂いた。

 現在、NATO軍を中心にした多国籍軍の駐留で、なんとか平和が保たれている。一日も早く、武力に頼らない本当の平和がボスニアに戻ることを願わずにはいられない。

 親友のヤドランカが歌うように、ボスニアの民族共存の伝統は「憎しみよりも古い」のだから。(ちだ ぜん/ジャーナリスト) 



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