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「諸見さん、出ていかれるのですね」
そこにいたのは諸見と茅であった。茅は諸見の母親萩の死後、粃の後妻になった人であった。
「茅さん、それはどうしてです」
諸見はそれをまだ粃に言ってはいなかった。綾歌以外の誰も知るはずはないのだ。そして、綾歌が茅に言うはずはない。茅が哀しそうに微笑んだ。
「私は夢見ではないけど、諸見さんがこの家からいなくなるような気がして」
諸見の顔が少し強張っている。
「そうでした。あなたにだけは、時前に判ってしまうのではないかと。他のこともすべて何もかも」
茅がそっと首を振った。
「他のこと? 私にはそのことしか判らないというか、そう考えられないのです」
「茅さん、私の母が死んであなたが当麻家に入ってきました。私はあなたを母とは呼べませんでしたが、でも、母と同じぐらいに愛していました。出来れば当麻家に入ってきて欲しくありませんでした。母と同じように……」
諸見はふうっと溜め息をついた。
「諸見さん、私は嬉しいわ。当麻も子供たちも、私を当麻家に必要な人としか見ていません。芳宜だけは少し違うけれど……。あの子はあなたに似ているのでしょうね、諸見さん。それが、私の支えですわ」
茅が優しく笑った。諸見が茅をジッと見つめた。
「諸見さん、出ていかれるあなたに、どうしてもお話ししたいことがございましたの。だからこうしてお会いしたのですわ。当麻がいない今だから」
「何でしょう」
諸見が首を傾げた。
茅が少しの間、口を噤んだ。
「諸見さん、萩さんは、あなたのお母様は、当麻粃に殺されたのです」
諸見が目を見張った。
「父に?」
茅が頷いた。
「何故、そんなことを」
「それは……」
茅が言い淀んだ。
「それは、当麻に私の血筋が欲しかったからなのです」
そう言って、茅は淋しそうに笑った。諸見は言葉を失って茅を見つめた。
沈黙が流れた。
やがて、諸見の口から言葉が洩れる。僅かでも声が震えていなかったのは、茅に対する思いやりであった。
「茅さん、話してくださってありがとうございます。やはり、父はそういう人だったのですね。心のどこかで私は、そうでないことを祈っていたのですが。哀しいことですね。父は当麻としてしか生きられない。父にとって当麻家がすべてなのです」
諸見は茅に頭を下げた。
「私は明日、父に言います。父はきっと私を生かしてはおかないでしょう。父は私に期待していましたからね。私は父を裏切ったことになるのですから……それでも、私は出ていかなければなりません。当麻13代として生きるのではなく、ただの当麻諸見として生きるために。茅さん、私は母を殺された、と聞いても、父を恨むことは出来ません。私は当麻として生きるには、優し過ぎるのかもしれません。それを父に気づいて欲しかったのです。……でも、それは父に伝わりませんでした。いや、これは私が気づかせなかっただけなのですが」
諸見はフッと笑いを浮かべた。
「茅さん、私には守るべき人がいるのです。そして、その人との子供も。彼女のお腹には二人目の子供も宿っています」
茅が驚いた目を諸見に向けた。
「諸見さん、私にそんなことを話してもいいのですか。私が当麻に言うかもしれませんよ。当麻は、あなたの家族を皆殺しにしますよ」
諸見は笑って首を振った。
「いいのです。あなたになら裏切られても構いません。それに、父にはすぐに判ってしまうことでしょうから」
茅が複雑な表情を浮かべた。
「茅さん、私の妻の名は石蕗。鳶尾は3歳になりました。もうすぐ生まれる二人目は菖蒲と名づけようと思っています」
「諸見さん」
諸見はそれ以上何も言わずにただ微笑んだ。
それは、諸見が粃に出ていくと言った前日。今から20年前の秋。諸見22歳、茅29歳の年だった。
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