外で江戸風鈴が乾いた硝子音をたてていた。
 堂士はしばらく心葉の顔をジッと見つめていた。
 44歳の伯母……堂士は彼女に会う時はいつも石蕗を思い出していた。石蕗が死んだのは4歳の時だった。石蕗は25歳。それまでの記憶しか堂士にはなかったが、堂士にとっては、石蕗は心葉であり、心葉は石蕗であり、その思いは交差していた。
 堂士の右手が心葉の額に触れる。その手は少し震えていた。
「伯母様、しばらく我慢していただきます」
 心葉は返事をしようとして開いた口をハッと噤んだ。そのまま唇を噛み締める。額が燃えるように熱い。堂士の右手の先が白く輝いた。その光が心葉の額から頭の中に入ったように見えた。そこで堂士は一つ深呼吸をした。
 心葉が目を開いていれば、その顔にじっとりと汗をかいていることに気づいただろう。だが、堂士の言う通りに目を閉じていた心葉はそれには気づかなかった。
 堂士の右手が心葉の頭の上に翳された。その手からまた白い光が放たれた。心葉の上にそれが注がれる。声もたてずに心葉がソファの上に倒れ込んだ。
「伯母様、すみません」
 堂士は、心葉を抱き起こして背もたれにもたれさせた。堂士の顔には汗の片鱗さえ残っていない。だが、その顔色は異常に青白かった。
「この姿では伯母様が心配するな」
 堂士は頬を触って言った。だが出ていくことはしなかった。すぐに気がつくとはいえ、堂士のせいで心葉は失神したのだ。そのまま放っておくことは出来なかった。
「伯母様が気づく頃には、少しはましになっているだろう」
 堂士はそう呟くと、ソファに座り直して目を閉じた。
(後悔しているのだろうか)
 と堂士は思った。胸が痛むのだ。心葉を巻き込んでしまったことは、堂士にとって辛いことであった。だがこれで、菖蒲のことで少しは安心することが出来る、それだけはホッとした。
(伯母様が、本当のことを知ったら、お怒りになるでしょうね……)
 堂士がフッと笑った。
(でも、嘘も方便といいますから)
 堂士が心葉に施したのは、実は菖蒲の封印を解く鍵ではなかった。堂士は絶対に菖蒲の封印を解くつもりはなかったのだ。
 今から自分は当麻家に向かう。そこで何が起こるか判らない。だから自分に何かあった時に、自分の痕跡を土師家と、ここにいる三人に残らないように術を施したのだ。彼女たちと自分との接点を無くすという、つまりは、彼女たちから堂士の記憶を取り除く、ということであった。
 風鈴がまたカラカラと音をたてた。
 心葉が身動きした時、堂士は目を開いた。
「伯母様、大丈夫ですか」
 そっと堂士は心葉の額に触れた。心葉が微笑んで、
「大丈夫ですよ、堂士さん」
 と答えた。
「でも、私は何も変わっていませんね。堂士さんたちのことで何か新しいことを判ったわけでもありませんし……」
 堂士はその言葉に微笑んだ。
「ええ、何も変わっていません。私の意志が伯母様の中に入ったことを除けば……。それは、私が望まない限り、伯母様には判らないのです」
 心葉は堂士の顔色には気づかなかった。先程よりは回復していたこともあったが、心葉自身、精神的に疲労していたからだ。堂士にはありがたいことであった。
「堂士さん、行くのですね」
 心葉が言った。堂士は無言で立ち上がった。
「それを止めようとは思いません。でも、帰ってきてくださいね。菖蒲さんのためにも、私のためにも。ここでなくてもいいのですよ、北の国でも……」
「伯母様、心配しないでください。何も私は死地に行くわけではありません。戻ってきますよ、必ず」
 堂士は心葉の肩に手を置いて頷くと、部屋を出ていった。心葉がその背を見つめて、そっと溜め息をついた。
(死地か……)
 堂士は心の中で呟いた。
(戻ってこられるだろうか、本当に)
 堂士は門を出たところで振り向いた。そして右手を見る。心葉に対して気を放出したことで、堂士の《力》は半分にも満たなかった。
(これでは、死にに行くようなものか)
 堂士は右手をギュッと握って、菖蒲がいるだろう部屋のあたりをジッと見つめた。
(お前だけは、幸せになって欲しい。私のことを忘れても、それだけが私の唯一の願いです)
 堂士はくるりと背を向けた。そして、ゆっくりと歩き出した。
 その姿を菖蒲がジッと見ていたのに、堂士は気づかなかった。そして、自分と心葉の話を聞いていたとは、それこそ夢にも思わなかったのである。


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