ジャン・ピエールは夜の喧騒の去った後の、酒臭い空気のたゆたった場末の酒場にいた。ピアノの前に座っている。左手には酒瓶。カウンターの中には、葉巻をふかしながら文庫本をめくるバーテン。照明をそのカウンターとピアノの側だけに落として、時折、バーテンがページをめくる音しか聞こえない。ふと、ジャン・ピエールはすぐ近くの椅子に誰かが座っているのに気づいた。顔をそちらに向けたジャン・ピエールに、相手は笑いを浮かべた。
「ミッシェル!」
 立ち上がった拍子にガタンと椅子が倒れる。ジャン・ピエールの目の前の相手が、若い男の姿に変わった。そして、さっきまでこの男と話していたことにジャン・ピエールは気づいた。
「ジャン・ピエール」
 ジョルジュはそう言って立ち上がった。ジャン・ピエールの思い出の中のミッシェルの声が、ジョルジュの声に重なる。
「やあ、すっかり思いだしたようだね、ジャン・ピエール」
 そう言ってジョルジュは持っていた包みを開けると、中身をジャン・ピエールに差し出した。ジャン・ピエールはそれを暫くジッと見つめる。そしてジョルジュに視線を移した。
「ジョルジュ?」
 ジョルジュはニッと笑った。そしてカウンターのほうへ行き、バーテンがさりげなく差し出すワイングラス三つにそれを注いだ。一つはカウンターにそのままに、ジョルジュは両手にワイングラスを持って、ジャン・ピエールの側に戻った。
「さあ、ミッシェルのために弾いてくれない、ジャン・ピエール。生きていれば」
 ジャン・ピエールはワイングラスを受け取って、ジョルジュの言葉尻を取った。
「今日はミッシェルの誕生日だ」
 ジョルジュはワイングラスを少し上げた。同じようにジャン・ピエールも上げる。カウンターの中でバーテンも、それにならった。
「ミッシェルが生きていた時は、必ず誕生日には弾いていたでしょ」
 ジョルジュの言葉にジャン・ピエールはワイングラスを見つめているだけだった。ジョルジュが少し苛立たしげにそれを見る。やはり、十年も酒浸りだった男に、昔の姿に戻って欲しいと思うのは、間違いなのだろうか。ジョルジュの目の前には、やはり場末の酒場にふさわしい、落ちぶれたピアノ弾きがいるだけなのだろうか。
「昔のあなたはどこに行ったんです?」
 ジャン・ピエールはジョルジュに向かって下卑な笑いを浮かべた。
「昔? 昔って名は、今まで持ったことないさ」
 ジョルジュのワイングラスを持つ手が震える。暗い灰赤の液体が揺れる。ジョルジュはぐいっとワインを飲み干すと、クルリとジャン・ピエールに背を向けた。そして足早にドアのほうへと向かう。勢い良く出ていったジョルジュの心を現しているように、いつまでも扉がキィキィと動いていた。
「Chatear Latour……」
 バーテンがその声にふと文庫本から顔を上げる。目の前にジョルジュが置いていったワインの瓶があった。確かにジャン・ピエールが今呟いた名前が瓶に刻まれている。バーテンはジャン・ピエールのほうを向いて、そのまま彼を見つめていた。背筋をしゃんと伸ばし、彼はピアノの鍵盤に向かった。
 甘いセンチメンタルな旋律がテーブルの間を縫って、扉の外へと流れ出る。ふと扉の側の黒い影が動いて、それが人の形を作った。
 ジョルジュのアンバーの瞳が、持ってきてしまったワイングラスを見つめる。そしてそっとそこに置くと、ジョルジュは立ち上がった。だが歩きだすためではない。ジョルジュは扉近くの壁に背をもたれる。
「乾杯、ミッシェル」
 ジョルジュは小さく呟くと流れ出る甘い調べに心を委ねた。



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