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ガタン、と電車は動きだした。川水流駅で上下線の擦れ違いを行ったのである。すでに来ていた上り線は倭たちが乗った下り線が動きだしても、まだそこに止まっていた。倭は漠然とそれを見ていた。今まで何もなかった。この電車が高千穂に着くまで、あと一時間しかない。その間に奈半利が手を出さぬわけはない。
「倭」
と朝熊の手が倭の肩に触れた。倭の緊張が即座に解れた。
「ごめん」
倭が少しだけ笑って謝る。朝熊は頷いて手を離した。
電車の中は、座席は一杯で立っている人がぽつぽつといるぐらいであった。朝熊と倭は一番後ろの車両の一番後ろのドアのところに立っていた。朝熊が何気なしに車内を見渡す。何も引っ掛からなかったが、何かが目の端に残った。それが気になってもう一度見渡す。だが、何も見つからない。倭は窓の外を見つめている。
それはいきなりであった。僅かに電圧が下がったように蛍光灯が暗くなって、すぐに元に戻った。それを異常と判断したのは、朝熊と倭だけであった。
「朝熊」
二人には、この電車を包み込んでいる深緋の靄が見えた。回りの景色は動いているから、電車は動き続けているのだろう。そして、乗客たちは何も気づいていない。まだ仕掛けた相手の姿を朝熊は見つけていなかった。電車の中にいるのか、それとも、外から仕掛けているのか。いや、きっとこの中にいるはずであった。さっき何かを感じたのは、間違いではないはずだ。
ガタ、ガタ、と乗客たちが席を立つ。ハッと朝熊は倭をかばった。乗客たちの目は一様に虚ろであった。誰かに操られているのは必至であった。仕掛けた相手は、乗客たちを操って朝熊たちを襲わせているのだ。朝熊の合わせた両手の間に、紫紺の《気》が高まる。乗客たちは操られているだけである。それに自分たちに関係のない普通の人間たちである。まさか、殺すわけにはいかない。せめて、気絶させるぐらいに止めなければならない。朝熊の紫紺の《気》がカッと光って、乗客たちはバタバタと倒れる、はずであった。
「何?」
朝熊が目を見張る。普通の人間たちなのに、彼らは何事もなかったように近づいてくるではないか。
「無駄ですよ」
すぐ後ろから声が響いた。ハッと二人は後ろを向く。すると、また後ろから声が響く。
「彼らを止めるには、殺すしかありませんよ。気絶しても動きますからね。性能がいいでしょう、私の人形たちは」
朝熊が向き直る。目の前に集まっている乗客たちの上に、彼は浮かんでいた。朝熊はその顔に見覚えがあった。
「奈半利の祖谷? ではないな」
祖谷に似ているが、こちらは完全に男であった。
「私は双海。祖谷は私の妹でした。お会いしたかったですよ、朝熊」
祖谷と同じように妖艶な笑いを浮かべて、双海は言った。倭はそれを見て、背筋をぞくっとさせた。その笑顔は、本心を隠す仮面ではないか。朝熊は迫ってくる乗客たちから倭を守りながら、
「乗客たちを楯にして、自分は高みの見物か。それほど自分に自信がないのか」
と皮肉気に言った。双海はククッと笑った。
「駄目ですよ。私を挑発しようとしても」
「双海! お前、普通の人間たちを巻き込むなんて、よくそんなことが出来るな。正々堂々と戦おうとは思わないのか」
倭の言葉に、双海は一瞬以上目を見張っていた。
「倭、奈半利とはそんな奴ですよ。使えるものなら、一族の王であっても、楯にする。それが奈半利です。その点では私たちは、朝熊に礼を言わなければならない立場にあるのでしたね。魚梁瀬を始末してくださったことを。そのお陰で、私の計画が実行に移されたのですからね」
「計画?」
「中身は内緒です。でも、魚梁瀬が殺されることによって、それが始まったのですから」
クスリ、と双海は笑った。倭は言葉を失くして双海を見つめていた。朝熊は無言で双海を見つめる。朝熊の紫紺の《気》がさっきより高まるのを、倭は気づいた。
「駄目だ。朝熊、駄目だよ。この人たちは普通の人たちなんだ。それをやれば、本当に死んでしまう。そんなのは許さないからね」
「倭、では、このまま双海の思惑通り我らが死ぬのか」
倭がニッと笑った。
「私たちがここで死ぬはずはない」
倭は懐から小さな紙の束を取り出すと狙い定めて投げつけた。双海に向かって投げられた紙の束は、瞬時に消えた双海の後で天井に当たり、電車の中で紙吹雪のように舞った。朝熊が目を見張る。乗客たちが次々と倒れているではないか。
「倭、それは」
倭は朝熊にそれを渡した。朝熊が受け取った瞬間、白紙だった紙の上に、何かの文様が浮かびすぐに消えた。
「王が持たせてくださったのだ。品物比礼という、十種の神宝の一つだそうだ。いや、そのレプリカかな。本物ではないが、少しだけその《力》を与えられている紙だと、王は言っていた。おそらく、普通の人間たちには効くのだろうな。安心しろ、彼らは生きている。今は気絶しているだけだ」
朝熊は倭にそれを返した。と、ハッと朝熊は倭をかばった。その右肩にグサッと深緋の槍が刺さった。
「朝熊!」
倭が流れ出る朝熊の血に気づいて、顔色を変えた。
「よくも……」
倭から青藍の《気》が立ちのぼった。それを朝熊が抑えた。
「やれやれ、残念です。大変な計算違いでしたね。まさか、あなた方にそのような札があるとは思いませんでした。やはり、私の手を汚さなければなりませんか」
さきほどと同じところに、双海は浮かんでいた。残念だ、と言いながらも、少しも残念そうな表情を浮かべてはいない。むしろ面白そうに、そして冷淡に、その表情を変えていた。
朝熊が右肩に刺さった深緋の槍をグッと握り締めた。鈍い輝きのそれは、朝熊の手の中でやがて消えていった。双海は再び攻撃することなく、それをジッと見つめていた。倭は朝熊を心配そうに見つめている。《力》の使い方を教えてもらった倭だが、約束をしていた。朝熊が使え、と言うまで、決して《力》を使ってはならないと。だから、倭は朝熊をただ見つめることしか出来なかった。朝熊との約束を破りたくはない。
相変わらず、電車は動き続けている。まだ次の駅に着いていないのだ。
「双海、外に出ないか」
朝熊がゆっくりと立ち上がって提案した。双海はその姿を見つめて、
「そうですね」
と言った。電車がいきなり止まる。何もないところで電車は全てのドアを開いた。朝熊と倭が先に出て、双海はその後に続いた。双海が電車を背にして立っていた。それを朝熊は気に入らない。双海はまだ電車ごと乗客を楯にしているのだ。
「双海、そう言えば、さっき私に会いたかった、と言っていたな。それは何故だ」
朝熊はどうにかして、双海をそこから動かしたかった。朝熊が動いても、双海は微妙にそれに反応している。双海が考え込む仕種をした。
「あなたが気になったからです。あなたに会ったのが、始めてではない気がしていました。それであなたに会いたかったのです」
双海は考え考えそう言った。朝熊がそれにさらに問いかける。
「それは、私に恋愛感情を持っているという意味なのか」
朝熊の言葉に、双海はすぐに反応しなかった。つまり、何に対しても。双海がハッと振り向いた時には、すでに双海の肩先を紫紺の槍が貫いていた。電車を覆っていた深緋の靄がさっと晴れる。朝熊の紫紺の槍は電車を回り込み、開いていたドアを通り過ぎて、双海の肩先を貫いたのであった。双海はすぐに立ち上がったが、攻撃出来る状態ではなかった。それよりも自分のほうが危険であった。だが、双海に対する攻撃はなかった。朝熊も立っていたが、さきほどの双海の攻撃による出血と、今の双海に対する攻撃で《力》を消耗していたのだ。倭は崩れ落ちそうになる朝熊を支えていた。
「朝熊、今ならあいつを殺せる。私に許可して欲しい」
朝熊は首を横に振る。
「何故? 朝熊をこんな目に合わせた双海を、このまま逃がすと言うのか。朝熊には今、あいつを倒せるだけの《力》が残っていないだろ」
「倭、約束だろう」
朝熊が倭を見つめて言った。電車のドアが閉まって、ゆっくりと動きだした。何事もなかったかのように。双海が肩先に朝熊の槍を突き刺したまま、その右手に深緋の《気》を高めさせた。朝熊がハッと顔色を変える。双海は電車を攻撃するのではないか。
「双海! それは……」
朝熊の叫びと爆発が一緒に響いた。電車はゆっくりと遠去かっていく。双海の姿も消えていた。朝熊と倭の目の前の線路を粉々にして。ホッと朝熊は気を抜いた。ともかくも、双海は電車を攻撃しはしなかった。最初からそのつもりだったのか、あるいは気が変わったのか。朝熊の体がゆっくりと崩れ落ちる。
「朝熊!」
と叫ぶ倭の声を遠くに聞きながら、朝熊の意識は奈落に落ち込んだ。
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