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にちりん29号は延岡駅にゆっくりと滑り込んだ。僅かに遅れたのは、途中で信号の事故があったためであった。ホームに下りた倭は大きく伸びをした。伊勢を出てから6時間以上もほとんど座りっぱなしである。だが、倭は疲れた様子を見せなかった。いよいよ奈半利に近づいたのである。
「朝熊、無事に高千穂に着けるかな」
倭がベンチに座りながら言った。高千穂行きの電車はまだ入線していなかった。
「まあ、邪魔が入らないほうがおかしいだろう」
朝熊が倭の隣に座った。早めの夕食を特急の中で済ませた二人であった。一度座った朝熊であるが、すぐに立ち上がった。
「倭、何か飲むか」
電車の中で食べた弁当が辛めだったため、喉が乾いていた。
「そうだな。緑茶かなければ、ほうじ茶の熱いの。それがなければ、朝熊と一緒でいいよ」
倭が笑いながら言った。朝熊は頷いて去っていった。倭は朝熊を見送っていた。いつもと変わらない朝熊であった。奈半利にもうすぐ入り込むというのに、何も気負ったところがない。それが倭にとって嬉しかった。いや、そうではなく、朝熊を誇りに思っていた。倭が信頼し続けた人として、朝熊は存在し続けるのだ。それを倭は確信していた。
「はい、倭」
朝熊が差し出す缶を倭は左手で受け取った。
「朝熊」
倭が隣に座った朝熊を見上げる。
「私は朝熊が一緒で心強いよ。他に何もなくても、朝熊さえ側にいれば、私はいいんだ。私は朝熊を信じているから」
「倭」
朝熊は倭を見つめていた。その瞳が微妙に揺れている。そして、その心はもっと揺れていた。もしかしたら、自分は倭を裏切ることになるかもしれない。可能性がないことを朝熊は信じていたが、それを確信しているとは言えなかった。その時に倭は……。それは自分の罪だ。倭に何も教えようとしなかった、自分の罪だ。倭だけを蚊帳の外にだして、それで倭を守ろうとしていたのだ。それが永久に続くと信じていたのは、朝熊の都合のいい思い込みであり、エゴであった。
そんな朝熊の心の中を知らずに、倭は笑ってほうじ茶を飲んだ。朝熊もプルトップを開けて飲む。表面上は恐ろしいぐらいに普段通りの朝熊であった。自分でも不思議なくらいであった。嵐が来るのが嘘だと信じたかった。
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