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魚梁瀬は満足して霧島家から遠去かっていた。麻績ならば、全く警戒をすることなく、布城崇を連れてくることが出来る。そのまま二人とも奈半利に連れて行き、必要とあれば麻績は始末すればよい。とりあえず、それをやりとげることが必要であった。崇を目覚めさせるのは、手に入れてからでも遅くはない。いや、手に入れた後のほうがいいのかもしれない。
その時、決して魚梁瀬は油断していたわけではなかった。いつもよりも神経が過敏になっていたはずであった。だが、その気配には全く気づかなかった。そう、罠に引っ掛かったと気づくまでは。
行く手に少女が現れる。陬生学園の制服を着て、ポニーテールを揺らしながら近づいてきた。青藍のリボンが夜目にもはっきりと見えた。近づく少女を、魚梁瀬は全く気にも止めなかった。もとより、殺気を放っていたわけでもなく、魚梁瀬は擦れ違う時にチラリと美少女だな、と思った程度であった。だから、
「奈半利の王、魚梁瀬」
と少女が呼んだ時は、構えるよりも驚きのほうが先に出た。
「伊勢の倭だ。以後お見知りおきを、と言ってもここで死んでしまうのだから、挨拶してもしかたないか」
嬉しそうに笑って少女は言った。魚梁瀬はその後ろに朝熊が現れたことに気づいた。
「この間、会ったな。確か、伊勢の朝熊」
魚梁瀬は二人を見つめて言った。倭は現れた朝熊にそっと寄り添った。
「倭、お前は外に出ていろ」
と朝熊が言うと、倭が反論する前に外に出した。そう、朝熊の結界の外に。いつの間にか魚梁瀬を囲んだ結界は、今、魚梁瀬と朝熊の二人以外を拒否しているのだ。倭は成す術もなく、外で結界が解かれるのを待つしかなかった。
「魚梁瀬、今日はこの間のようにはいかないぞ。覚悟するんだな」
朝熊が腕をだらりと垂らしたまま言った。
「麻績に頼まれたのか」
魚梁瀬の言葉に、朝熊はクスリと笑った。
「彼は誰にも何も言っていないさ。彼にとって柚木野さんは本当に大切な人だからな。その人を僅かでも危険な目に合わせることは、彼には出来ないさ。私がお前を殺るのは、お前が奈半利だからだ。他には何の意味もない」
魚梁瀬は左手にバーガンディの剣を作りだした。
「私を殺ると、柚木野遙の命はないぞ。それでもいいのか。それに私一人殺ったところで、奈半利はなくならぬ。この間、お前に話したことは事実だ。伊勢も内側から崩れるのだ」
朝熊の片頬に笑いが浮かんだ。蔑むような笑い、軽蔑であった。それに魚梁瀬はギョッとした。
「魚梁瀬、確かにお前の言ったことは真実だろう。目の前にその証拠があるのだから」
「お前が……」
魚梁瀬の顔が驚きで包まれる。
「私が安芸様によって奈半利との関わりを解かれた家のただ一人の後継者。そして、私は伊勢の朝熊」
そう言って、朝熊の右手が少し上がった。そして、ふと思いついたように、
「柚木野さんのことを何も知らないと思っているのか? 彼は知らないが、我らは知っている。そうだ、魚梁瀬、命乞いのついでだ。奈半利の場所を教える気はないか。それによってはお前の命、考えてもいいな」
と笑う。魚梁瀬は顔色を変える。それは屈辱以外の何物でもない。仮にも奈半利の王を名乗っている魚梁瀬であった。今までどれだけの長い間、奈半利の王国の場所を秘め続けたというのだろう。それを王自身によって他の一族にばらすなど、奈半利にとっても、魚梁瀬にとっても屈辱でしかない。
魚梁瀬のバーガンディの剣がひときわ輝きを増した。朝熊はフッと笑って、右手の二本の指を額の勾玉につけた。もとより、魚梁瀬から奈半利の王国の場所を探ろうとは思っていなかった朝熊であった。麻績のことがなかったとしても、魚梁瀬を倒すことは朝熊の意志であった。朝霞から麻績のことを聞いた時は、その理由はどうでもいいことであった。魚梁瀬が麻績のところに現れるのが確実であることを知ったことが、朝熊の行動を助けることになったのだ。麻績に遙のことを知らせないように、と朝霞に念を押しておいたのは、彼らを罠に引っ掛けるためであった。そして、どちらもそれにうまく引っ掛かったではないか。魚梁瀬がバーガンディの剣をまっすぐに天に向かって立てていた。その剣の先から流れるように《気》が朝熊のほうに向かう。朝熊は口を開いた。
「我らが母なる天照大神の使徒の一人として、この世の悪に光を与えん。皓、滅」
低い呟きが朝熊の口から流れ出る。紫紺の《気》が輝く光に変化して魚梁瀬を包んだ。その一瞬の光で彼の《気》ごと魚梁瀬を消し去ったのだ。朝熊は右手を下ろしながら、結界を解いた。倭がすぐに朝熊に近づく。
「済んだぞ」
朝熊が一言倭に言った。倭は頷いて、少しためらった後朝熊を見上げた。
「朝熊、何故私に《力》の使い方を教えてはくれない。《気》の見方とかは教えてくれたけど、肝心の使い方を教えてくれないのはどうしてだ」
朝熊は倭をジッと見つめて、そして笑った。
「教えてやるよ。必要になったら……。その時が来たら、必ず教えるさ、私が」
倭の頭を撫でて朝熊は言った。
「だから、それまで我慢しろ。判ったな、倭」
倭は素直に頷いた。
「よしよし」
と朝熊はまた倭の頭を撫でた。倭が、
「その子供扱いは止せ」
と言ったが、それほど嫌そうにではなかった。
これで魚梁瀬が消えた。その報はすぐに奈半利に届くだろう。それから奈半利がどんな手を打ってくるのか、それは行動に移してもらわなければ判らない。とりあえずは、奈半利の王が消えたのだ。また一人舞台から下りただけのことであった。
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