麻績と越知が会ったのは、その日のことであった。麻績は今日は迎えにきた車で一人で帰り、朝霞は崇を待つために学生会室で本を読んでいるはずであった。本を読むのなら、溜まっている書類を片づけておいてくださいね、といちおう言ってはおいたが、それを朝霞が素直に実行してくれるのなら、自分の胃はもう少し穏やかにしているだろう、と麻績は思っていた。
 麻績は今日は稽古のない日だったのだが、璃寛が死んだことから襲名披露をしなければならなくなって、その準備に忙しかった。遅い夕食をすませて、やっと自分の部屋に戻ったのは、九時を回ったころであった。
 明日の準備をしておかなければ、と思った麻績は、空間がいきなり歪んだ気がした。何か、と思ったところに、青磁色の球体が出現する。その球体は麻績の前でふわふわと浮かんだまま、そして、中の人物はにこにこ笑ったまま、麻績は驚いていたが何も言わないまま、しばらくその状態が続いた。
「奈半利の越知」
 越知が名を名乗った。そのオレンジ色の髪と青い目を見つめて、
「不法浸入で警察に突き出しましょうか」
 とそっけなく麻績は言った。
「やーねー、麻績さんってば、冗談が好きなんやから……」
 越知は笑いを大きくして言った。
「同じ奈半利やないの」
 麻績が首を振る。
「私は戸隠の一族です。奈半利とは何の関係もない、あるとしても縁を切ります。檮原様にもそう言っているはずですが」
「そっちにはなくても、こっちにはあるっての。理不尽とは思うけどね、奈半利として生きてもらうか、それとも、死を選ぶ?」
 麻績が皮肉を混ぜて笑う。
「父と同じように、僕も殺すというわけですか。奈半利にあるのは、生か死かのどちらかというわけですね。そんなことでは奈半利は滅び去るだけでしょう。越知、と言いましたね、それを判りませんか」
 越知は黙りこくって、麻績を見つめた。越知にとって《力》はすべてであった。いや、越知にとってでなく、奈半利の一族すべてにとってである。《力》の有る者が正しいのであって、それ以外は必要ないのだ。《力》があれば支配出来ると考えていた。それが間違いだという考えは、越知には浮かばなかった。
「僕を殺したければ殺しなさい。それですべてが巧く行くと考えているのなら、どうぞ僕を殺したらいかがですか。僕には説得は効きませんよ」
 越知はその左手に紅赤の球体を作っていた。まだ殺すつもりはなかった。だが、少々痛い目を見せたほうが効果があるか、と思ったのだ。だが、その紅赤の球体は麻績を包みはしなかった。
「麻績さん」
 と入ってきたのは、柚木野遙であった。越知は一瞬躊躇してしまった。遙は青磁色の球体の中にいる越知を、目をパチクリとさせて見た。
「ごめんなさい、来客中でしたのね。表で誰もいらしていないと聞いていたものですから、つい入り込んでしまいましたわ。今日は失礼しますわね」
 遙がそう言って、出ていこうとした。それを止めたのは、越知であった。
「もう、帰るし」
 越知の言葉に遙が振り向いた時、すでに青磁色の球体ごと越知の姿はなかった。
「あの、お邪魔でした?」
 遙が麻績を見つめて言った。
「いいえ、話は終わっていましたから……。柚木野さん」
 遙が麻績に首を振った。
「二人の時は、遙と呼ぶ約束でしょう。別に、内緒にしておかなければならないわけではないでしょうけど……」
 麻績が笑って言った。
「遙、ありがとう」
「どういたしまして、麻績さん」
 遙はその礼の意味を知らないまま、笑いを返した。


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