ご意見・ご感想はこちらからどうぞ。


 その甲斐あってか幼君の病はやがて快癒し、翌けて正月廿一日には無事江戸につく事が出来ました。彦右エ門の必死の運動が始まりました。毎日幼君を抱いて老中部屋に詰め、幼君を膝に柱にもたれて動こうとしません。時折衣服の下から幼君の足をつねります。泣き出す幼君を老中連がうるさいと叱れば「これはまた情ない御言葉でございます。跡目相続願うとも未だに御許なく、残念じゃ、無念じゃと此の通り若君には泣き続けておられます。君の御心中を思えば胸はりさける思いでございます」と誠忠を面にあらわして涙ながらに嘆願を続けるのでした。遂にその誠心は報いられて松千代君の相続が許されました。早速使者が大村へ飛びました。折しも重臣連は純頼公の墓前に本願成就の祈をこめておりましたが、此の吉報に接すると、期せずして萬歳の声がわき起り全山にどよもしました。家臣たちは改めて、山号を萬歳山とした先君喜前公の、お家萬歳と領民の平安萬歳を願った心の深さと、法華経の功徳に頭をたれたのであります。然し此の本願成就は彦右エ門にとっては我が娘亀千代を神明に捧げなければならない悲しい日の訪れでもあったのであります。然しこれによってそれ以後城主に子供があればたとえ嫡子でなくとも相続が許されるという事になった訳で、諸藩の大きな安堵となり、彦右エ門は天下の三大家老の一人と謳はれたのであります。純頼公の御墓は質素な五輪塔ですが、松千代君、成人して純信公の御墓は高さ六米余りに及び、その台石の上二段は重ね石ではなく一つの石を二段に切ったものでその石工技術は高く評価されて居ります。尚、その右前には純信公に殉死した近臣小佐々市右エ門の墓とその市右エ門の荼毘の火に飛び込んで後を追った忠犬の墓があります。

4/5