ご意見・ご感想はこちらからどうぞ。


 十九代喜前公は病気の為慶長十九年家督を純頼公にゆずりました。純頼公は元和三年にキリシタン取締について将軍秀忠の詰責をうけ、元和五年キリシタン宣教師を呵責して信徒のうらみを買うたりしておりましたが、元和五年十一月十三日突如として亡くなりました。時に廿八才。一子松千代君は僅に二才、生母を正室としての届出さえしてなかった程で、法度により大村家は断絶の危機に直面したのであります。家老大村彦右エ門は直ちに藩公病中の体にして跡目相続願いの為家臣を江戸に派し、自分も平戸の松浦、島原の松倉等の近藩と折衝して後顧の憂を絶った後、幼君を奉じて江戸に上る手筈を整えました。所が折悪しく幼君が大病にかかられたのです。幼い君の生命は実に大村藩の生命でした。彦右エ門は我が娘亀千代の命を以て幼君の命に代えんと神明に祈りました。

3/5