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 廿一代純信公治世にもキリシタンの山狩りが行われたり、島原の乱が起ったりしておりますが、廿二代純長公の時代には「郡崩」といわれる隠れキリシタン事件が持ち上がりました。明暦三年(1657年)十月から翌萬治元年七月まで糺明や断罪が続き、一時はどうなる事かと憂慮された程大村藩の浮沈にもかかわる大事件でした。その終息の翌年萬治二年に亡くなった純長公の七男次郎太君の墓前灯籠にはクルスらしい窓が彫られ、同じく息女於満志様の御墓は大切な悼石の上方角を別の石で繕ってあったり、大きな謎を秘めて居ります。純長公の御墓と高さを競うておりますが、純長公のそれよりも一段と整い、此れ亦台石の上二段は一つの石を二段に刻んだものであります。此の他墓碑群の内には精巧な彫刻を施した宝筺印塔や内部を格天井に刻んで金箔を押した豪華な大小の魂屋形式の御墓等があり何れも歴代藩主の偉徳をしのばせております。

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