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 本経寺は熊本本妙寺と同じ法性院日真上人を開山とし仰ぎ、大村藩中興の名君十九代喜前公の建立になるもので、世に言う清正公ゆかりの妙法蓮華経五ケ寺のひとつであります。
喜前公は有名なキリシタン大名純忠公の子で、天正十五年その後をつぎましたが、まもなく豊臣秀吉のキリシタン禁令が出され、早々に領民の信仰との間に立って苦しみをなめました。こうした中で親交のあった加藤清正公を通じて、その師法性院日真上人に知己を得、日真上人より聞く法華の教は喜前公多年の迷を晴らして行きました。しかし、その後徳川の天下となってキリシタン禁圧いよいよ厳しさを加うるも、領内のキリシタンはいささかもおとろえを見せず、遂にキリシタン容認のかどを以て告発をうける仕儀になりました。此は関ヶ原役の戦功と清正公の友情により事なきを得ましたが、喜前公は心中深く期する所あり、慶長七年清正公や日真上人等と議して本経寺建立を発願、慶長八年にはキリシタン宣教師を追放し、慶長十年(1605年)日真上人の高弟日恵上人を迎えて工を起こし、慶長十三年百聞四面一万坪の境内に間口九間奥行十二間の本堂を中心に七堂伽藍が完成、八月吉日身延山二一世日乾上人を迎えて開堂法要を営み、万歳山と号しました。爾来大村法華の中心として栄えて来ましたが、不幸にも安永七年(1778年)火災の為全焼し、現在の建物は天明七年(1787年)に再建されたものであります。

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