あの夏の日の〜3〜

 

「じゃあ、君が僕の子供を産んでくれるなら手を貸そう。」
芝のプール前。あの時の情景がプレイバックされている。
僕は目の前にいるあの時の僕を止めたかった。そうじゃない、本当に言いたかったのはそんなことじゃない。やめろ、そんなことを言うな!黙れ!!
びくりと体が竦んだようになってはっと目が覚める。それが夢だと知り、深くため息をついた。うっすらと部屋の中が明るくなっているのは、もう夜明けなのだろう。朝か。呟きながら無意識に右手を額に当てるとひどい寝汗をかいている。気持ち悪い。着替えようかと上体を布団の上に起こすが、そこで気力が萎えてしまって、再び重いため息をついて、まだ回らない頭を両手で抱えて先ほどの夢のことをぼんやりと考える。
本当は、龍麻の側にいたかった。玄武と黄龍も関係ない。ただ、君が好きだった。4月に、最初に店に来たときから、一目見たときから好きだった。僕の天女だと、そう思った。だから側にいて、何者からも守りたかった。それを、僕は自分のくだらないプライドを守るために、あんなことを言ったから…。
飛水流よりも、何よりも龍麻が大事だったのに。最初から素直に『側にいたい』と言えばよかったのだ。そうしたら、もっと違う関係になれたかもしれなかったのに。
今更、そんなことを言っても遅いけれど。
僕はいつまで龍麻を待っているのだろう。あの、最後の会話に気付いてからもう半年が経った。その間に龍麻からの連絡は誰のところにも入っていない。本当に戻ってくるのだろうか。それさえも危うい。ただの言葉尻を捕らえた都合のいい解釈なのかも知れない。途端に自信がなくなってくる。
地球上に何十億という人間がいるのに、たったひとり、龍麻がいないだけでこんなに寂しい。父がいなくなっても、祖父がいなくなってもこんな思いはしなかった。龍麻がいない、それだけで、自分の半身をもがれ、血を流しながら生きている心地がする。満たされない心を抱えたままで、あとどれぐらい僕は生きていけばいいのだろう。すっかり倦みきった心を抱えたまま、それでも僕は生きていかなければならないのだろうか。こんな思いに、終わりは来るのだろうか。
ぼんやりとした頭を振って、睡眠不足でだるい体を引きずってシャワーを浴びる。
最悪の目覚めに、早朝とは言えどもすっかり覚醒してしまい、もう一度布団に戻る気も起きなかった。勝手口から新聞を取って居間に戻ってくる。ばさりと広げてそこでようやく気付いたのだった。あんな夢を見たわけを。
今日は、2年前、芝のプールで龍麻と会った日。そして、去年、龍麻と別れた日であった。
あれからもう1年が経ったのか。
長い1年だった。これからもこんな1年を過ごしていくのだろう。朝から何度目かの絶望のため息をついた。
すっかり日が昇った頃に僕はようやく仕事を始める気になった。上得意であるご隠居から大きめの天目茶碗を探して欲しいと依頼されていた。急がなくてもいいといわれていたが、これ以上家にいても塞ぎ込むだけでいいことはない。支度をすると、まずは南青山の骨董通りを目指してみる。あの通りには祖父からの知り合いの店も多いし、茶碗類ならばあそこでかなりの品数が揃うからだ。ただ、少し大きめな茶碗を希望なので、それがあるかどうか。
最近の骨董ブームでそう言ったものの価値が急騰してしまい、あまり価値のわからない輩までが茶碗や皿といった類に手を出すようになってきた。掛け軸や絵などよりも実用的であるのがその原因かもしれない。
「そのくらいになると、なかなか出ないねぇ。」
「そうですね。」
「先月なら、割といいのがあったんだけどね。」
祖父の古くからの知り合いが蔵の中を捜しながら言った。
「やっぱり、手頃なのはないねぇ。」
「そうですか。すいません、お手数をかけて。」
「いや、かまわないよ。そういや、如月の若旦那、あんたに相談があったんだ。」
祖父と仲が良かった焼き物が専門の店主が、思い出したように事務所の引き出しから何やら写真を取り出した。
「知り合いからこれの鑑定依頼があったんだけどね。」
そう言って見せられたのは鷲ノ巣甲の写真であった。手甲はそう出回っている品物ではない。まさか?もしかして彼女が?確かに、彼女の手元には以前使っていた鷲ノ巣甲があったはずだ。それを売りに出しているのか?
「これは?」
「とある家に伝わっているらしいんだが、通常の篭手とも違うようだし困っていたんだよ。」
品物の出所が龍麻ではないかと疑ったが、そうではなかった。内心、がっかりとしてしまう。考えてみれば、いくらなんでも、手甲を売りに出すなんて、そんなことをするはずがないのだ。しかも、真の価値を知る人間は少ないとわかってるはずなのだから。
「これは鷲ノ巣甲ですね。」
「おお、知ってるのか!?で、これはどういう?」
「武具の一つですよ。手甲、いわゆる手にはめる攻撃と防御をかねた武具なんです。」
「なるほど。」
店主は興味深そうに写真を覗き込んだ。
「特殊な武具を扱わせたらおたくが一番だからねぇ。」
店主は答えが見つかって嬉しそうにうなづいた。
それから少し話をして店を出る。骨董通り沿いの店をあらかた探して、結局見つからなくって、広尾や三田や増上寺の方まで足を伸ばしてみる。やはり、どこの店も昨今の骨董ブームで茶碗が品薄になっていて、目当てのものは見つけることができなかった。
「ふぅ…やっぱりないか。」
最後の店を出てため息をつく。こういう日は何をやってもうまくいかないものだ。諦めて家路を辿ろうと地下鉄の駅に向かって足を進める。最寄は芝公園。
どうしても、思い出すのは龍麻のこと。芝公園は僕たちの終わりへの始まり。僕が一番好きで、そして辛い場所。それでも、どうしても足を向けずにはいられなかった。
傾きかけた太陽に木々の葉が照らされて輝いている。僕はプールから出てくる人とすれ違いながら出会ったあの場所へと歩いていた。少し、僕は感傷的になっていたのだろう。それは今朝方に見た夢のせいかもしれない。たとえ夢でも、龍麻にあえたことが嬉しかった。今日くらいは少しだけ思い出に浸ってもいいだろう?自分自身に言い訳するように、あのプールへと急ぐ。だんだんと人が多くなってきた。屋外のプールのため夕方近くの今ごろは、帰る人がほとんどである。若い女性や、子供連れ。種種雑多な人ごみの中で、不意に、懐かしい気が僕に触れた。
「え…?」
覚えのある、あの懐かしい気が触れる。まさか、まさか。
僕は慌てて周囲を見回した。すると、前方のベンチから立ち上がってこちらを見ている女性がいた。漆黒の髪は背中の中ほどまで伸びたが、ジーンズとシャツだけの相変わらずシンプルな服装のままだった。驚いたような顔をして、その場に立ち尽くしている。間違いない。
僕は一瞬立ち尽くしたが、すぐに正気に戻って彼女の側に走り寄ろうとした。すると、龍麻もすぐに気付き、僕がいるのと反対側の方に全力で走り出した。
逃げた…?一瞬、呆然とした。僕を見て、逃げるほど会いたくなかったということか?呆然としただけではなく、かなりショックで、その場に崩れてしまいそうになったけれど、とにかく少しでも話がしたい。その一心でなんとか踏みとどまり、僕は龍麻の後を追いかけた。
龍麻の足は速い。高校の時に体育祭で大活躍だったと聞いたことがある。けれども、足の速さなら僕だって負けはしない。そして、この辺りの地理には詳しい。僕は遥か前方を走っていく龍麻の先に回るべく、道を途中で曲がった。

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