あの夏の日の〜4〜

 

「はぁっ、はぁっ、はぁっ。」
木立の奥の道から出ると、丁度龍麻が息を切らせているところだった。びくりと、その肩が震えるのがわかる。
「龍麻…。」
顔を上げて、僕を見ると、彼女は観念したようにがっくりと肩を落とした。もう逃げる気はなくなったらしい。側に寄って、腰をかがめて彼女と視線を合わせる。
「少しだけ、話をしてもいいかな?」
こくりと彼女はうなづいた。
逃げるほどに僕を嫌いなら、もう追い詰めるようなことはすまい。ただ、どうしても、少しだけでも話をしたかっただけなのだ。
「今、どうしてる?」
「昨日、東京に戻ってきた。」
「それまで、どこに?」
「ずっと山ごもり。鳴瀧さんの別荘。」
「しばらく、東京にいれるの?」
「…わかんない。」
彼女は俯いたままだった。
「…みんな、心配しているよ。葵くんにでも連絡をいれるといい。」
「うん。」
それきり沈黙が訪れる。僕とはあまり話をしたくないのかもしれない。小さく、丸まるようにうずくまる龍麻の姿が痛々しくって、これ以上、僕がいたら彼女が辛いのだろう。ずっと希望を捨てずに龍麻を待っていたけれど、この姿を見れば、それが自分の思い上がりであったことを痛感する。自分の都合のいいように龍麻の言葉を理解して、勝手に待っていただけだったのだ。
彼女の負担になる前に、本当にもう諦めなければ。
「すまなかったね。その…驚かすつもりは全くなかったんだ。僕は…。」
君に会いたかった。会えて嬉しかった。その言葉が言えずに飲み込んだ。今更、そんなことを言われても龍麻が困るだけだから。すぐ側に、焦がれつづけた人がいるのに、触れられない辛さ。唇をかみ締めて僕は立ち上がった。胸が痛くて、辛くて、このままここで自分がばらばらに壊れてしまいそうだった。いや、僕なんかこのまま壊れてしまえばいい。最後に龍麻に会えたから、もう壊れてもよかった。
「じゃあ、元気で。」
それでも壊れることは叶わなかった。目が潤むの必死でこらえながら言うと、気が遠くなりそうなほどの失望感が体中を支配していく。目の前でうずくまる彼女からの返事はなかった。
やっぱり、嫌われている。その現実が辛くって。じりじりと少し後ずさりをするように下がった。体がうまく動かないでいる。とにかく、この場を早く離れてしまわなければ。
「ありがとう。…その…すまなかった。」
辛い思いをさせてすまなかった。そう心の中で呟きながら、その場を離れようとしたときだった。ようやく動かせた足が何かにひっかかる。見ると、足元で、俯いたままの龍麻が僕のジーンズのすそを握り締めていた。
「龍麻…。」
「怒って…ないの?」
龍麻が俯いたまま小さな声で聞いた。
「何を?」
「黙って、いなくなったこと。」
いなくなったこと自体には腹をたてているわけではなかった。ただ、悲しかっただけで。
「ああ。」
「どう…して?」
「怒るより、寂しかったよ。」
僕は笑ったつもりだった。でも、実際にはさっきから我慢している涙が今にも溢れそうだった。
「ずぅっと、君が戻ってくるのを待ってた。」
でも逃げ出してしまうほど嫌われているとは知らなくって。
その言葉に龍麻が顔を上げた。上げた顔は、泣き顔だった。
「待ってた?」
「諦めが悪いと、自分でも思う。」
龍麻は涙を手の甲で拭いながらやっと立ち上がる。
「翡翠のトコ、戻ってもいいの?」
可愛らしい声で、おずおずと自信なさげに尋ねた言葉に、僕は一瞬で舞い上がった。戻ってくれる?ホントに?夢ではないだろうか。夢なら覚めないうちにと慌てて僕はうなづいた。
「もちろん。」
「つっぱねたのに?」
「いいよ。僕は、ずっと龍麻のことが好きだから。」
龍麻の瞳からぼろぼろと大粒の涙が零れ落ちる。
「ひ…すいっ…翡翠!」
そして、ようやく僕の胸に飛び込んでくれた。ぎゅうっと彼女の体を抱きしめる。夢じゃない。実体がある。柔らかで、暖かな存在感が腕の中にある。
「会いたかった…!!」
龍麻に会ったら、いいたいことがたくさんあった。それなのに、やはり出てきたのはこれだけである。普段はもっと言葉がたくさん出てくるのに、龍麻相手に気持ちを伝えようとすると昔からどうしても言葉がでなくなり、頭が真っ白になってしまう。
「ごめんなさいっ…ごめんなさいっ…。」
龍麻は腕の中で何回も謝った。
「ああ、いいよ。大丈夫。」
ぽんぽんと、龍麻の背中を叩いてやる。
契約をしていたときのような、妖艶な魅力はすっかりと消えうせて、腕の中にいるのは、僕の好きな、可愛い普通の女の子だった。
「もう…とっくに…嫌われたと…思った…。」
しゃくりあげながら龍麻が言う。
「まさか。」
嫌いになれたならこんな辛い思いはしなくとも済んだけど。もっと楽だったのに。どうしても嫌いになんかなれなくって、考えれば考えるほど、どんどん好きが募っていった。
「振られたのに、嫌いになんかなれなかったよ。…ずっと、好きで、諦められなくって、バカみたいに待ってた。いつかは戻ってくるかもしれないって。」
ひくひくとしゃくりあげる龍麻に、僕は落ち着かせようと、側にあるベンチに座らせた。もう逃げないと思うけれど、それでも少しだけ心配で龍麻の手に指を絡めて手を握る。昔よりもほっそりとしてしまった手。
落ち着きを取り戻した龍麻は恥ずかしそうに俯いていた。
「龍麻、東京に戻っておいで。それで、僕と一緒に暮らそう。」
僕の言葉に目を丸くする。
「ずっと、思ってたんだ。…ほんとは、あのとき、あんな契約なんて結ぶべきじゃなかったって。素直に、龍麻に側にいたいって言えばよかったって。」
あの夏の間違いを取り戻すのに2年もかかってしまった。それでも、まだやり直せるなら。2年くらいはどうにでもなる。
「もういちど、ちゃんとやり直したかった。飛水流も、プライドも何も関係ない。僕は龍麻の側にいたい。龍麻が好きだから、側にいたい。」
「翡翠…。」
「その…ダメかな?うちは、どうせ僕しかいないし、部屋はいっぱいあるし、その、えーと、店を手伝ってくれるとなおさら嬉しい。」
ああ、ダメだ。また悪い癖が出ている。正直に言うべきだ。それで2年も苦しんだのに、僕はちっとも進歩していない。首を振って、正しい言葉に置き換える。
「違う…もう、離れるのは嫌なだけなんだ。」
あんな思いをするのは、もうゴメンだった。
「でも…。」
「頼む!」
なりふりなんかかまっていられない。僕は必死に頭を下げた。
「ひ、翡翠ってば。」
龍麻が急に頭を下げた僕に驚いている。それでも、僕はイエスの返事を貰うまでは引くつもりはなかった。やがて、龍麻がそっとかがんで、僕の頬にキスをした。
「ホントに、いいの?」
「来てくれるかい?」
「うん。」
真っ赤になった龍麻が恥ずかしそうにこくりとうなづいた。
長い夏の一日が終わる。落ちかけた夕日が、斜めに僕らに照り付けて僕の顔の赤いのをごまかしてくれていた。



END

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