理由〜1〜

 

「如月さん。」
同じクラスの女子から呼び止められて、鞄に教科書をしまう手を止めて振り返る。
もっと早くに帰ろうと思っていたのに、この時期に転校(といっても実は転校じゃない)なんてしてきたものだから、進路相談やらなにやらで職員室に呼ばれていて遅くなった。
僕を呼んだ彼女は良く見ると一度帰ろうとしてたのか、普段はきちんと上履きを履いているのに今はつっかけているだけである。
「あのね、校門のところにお友達が待ってるよ。…白いセーラー服の美人とか。」
「美人…。」
言われて僕はそのオトモダチとやらが誰なのか、用件はなんなのかが容易に想像できてしまった。
「わかりました、すぐに行きます。…わざわざ知らせに戻ってきてくれて、ありがとう。」
頭を下げると彼女は一瞬驚いたような表情を見せ、ついで嬉しそうに顔を綻ばせる。
「ううん。…じゃあ、ばいばい。」
彼女はそう言って笑顔のまま僕に手を振って、また廊下に出て行った。
その後姿を見送ってから小さなため息をひとつ吐く。
しまいかけていた教科書を改めて鞄に入れると、教科書のぎっしり詰まったかばんと同じくらい重い気持ちのまま仕方なく玄関に向かう。
それは正月に僕が女性であることと、龍麻と付き合っていることを発表してから密かに危惧していた事態。もっと早くに起こることを予想していたけれど、休み中に学校の行事で僕が留守だったことや龍麻の引越しなどが重なったために、今日になってしまったのだろう。
きっと用件は龍麻のことについてに違いない。
仲間内の女の子のほとんどが龍麻のことを好きで、誰が彼女になるのか水面下で争奪戦を行っていたことはほぼ全員が知っている。特に美里くんと比良坂さんはその中でも最有力候補と噂され、1つしかない龍麻の彼女の座を狙って互いに反目しあっていて、彼の前ではそんな素振はみせなかったけれど、それが原因で二人の仲がかなり悪かったのは事実。
そこへいきなり僕が女でした、婚約しましたじゃあ彼女らだって収まりようがない。
文句は言われて当然。そう覚悟はしていた。
尤も、先に僕に何かいいに来るのは比良坂さんのほうだと予想していたのだが、美里くんが先だとは意外だった。どちらにせよあまり嬉しい話ではないのだがこれも仕方がない。
僕はもう一度ため息をつくと顔を上げて校門のほうに歩いていった。


「あら、ようやくお出ましね。」
僕の目に一番先に映ったのは藤咲くんだった。仲間内でも目に付き易い容貌をしているせいなのだろう。そのあと、その周囲に視線を移すと先ほど僕を呼びに来た彼女の言う通り、白いセーラー服の美里くんや桜井くん、それと高見沢くんの姿も見える。
僕はそのメンバーが、去年を通じて起こった事件の初期からの協力メンバーだったことを思い出し、用件はやはり僕の予想には違わないことを確信する。特に藤咲くんと高見沢くんに関しては仲間内の女子ではとりわけ龍麻と仲がいい人たちだったから。
「随分遅いじゃないか。」
そういったのは藤咲くん。
「進路のことで職員室に呼ばれていたんだ。…すまない、随分待たせてしまったかな。」
教室では疑われないようにするためにも極力女性らしく喋っているのだが、みんなが相手だとついつい昔の口調が出てしまい、そこに居並んだ者たちが皆複雑な表情をする。
「…なんかさ、如月クンが単に女装してるように見えてしょうがないよ。」
誰もが口にするのを憚ったことを桜井くんがいとも簡単に言い、周りは少し慌てたような、だけれど心中を代弁してもらってすっきりしたような表情を浮かべている。
「…ああ、そうだろうな。そのうちにきちんと口調も直すようにするよ。」
僕が別段怒った様子でもないことから安堵したようで、みんなかすかに微笑んで小さくうなづいた。
「で。お揃いでどうしたんだい?」
ひと段落着いたところで単刀直入に用件を尋ねると藤咲くんがふふっと面白そうに笑って、腕組みのまま顎で駅のほうを示す。
「ちょっと付き合ってもらおうと思ってさ。時間、ある?」
「…ああ。」
「じゃあ、行くよ。」
そう言って藤咲くんが踵を返し駅に向かって歩くのに、残りの3人と僕は大人しくついていく。おそらく、ここで否と答えてもそれは結果的にほんの少しだけ時間を延ばすだけであり、その時間の積み重ねにたいした意味はないとわかっているから。
「一体、なんだい?」
心当たりはあるものの、確信を得ようと尋ねても藤咲くんはいつもの妖艶な微笑を浮かべるだけで返答はしない。だからといって他のものに尋ねても誰も返答をしなさそうなのを見て尋ねるのを諦めてしまった。
用事がすぐに済みそうにないことだけは予測できたので、龍麻に遅くなる旨の連絡だけは入れておこうとポケットから携帯を取り出す。歩きながら片手でごく短いメールを打っていると、ボタンを押すたびに小さく鳴る電子音で先を歩いていた藤咲くんが振り向いて笑った。
「龍麻かい?」
「ああ。連絡は一応入れておかないと。」
僕はこの時点ですでに今日の店の営業を諦めた。
先に延ばしてもいつかはこの事態になるのだったら早く済ませてしまったほうがいい。
そう思いながら4人に従って駅まで行くと、埼京線で新宿まで出ることになり、一緒によく知った街へと向かった。詰問されるのだろうと覚悟をしていたが、僕が連れて行かれたのは喫茶店やファーストフードの店のような話ができる場所ではなく、ブティックで、しかもそこは女の子らしい可愛らしい彩りやデザインの服がずらりと並んだ店だった。
「これは…?」
僕は戸惑いながらどうやら本日の主犯格であろうと目される藤咲くんに尋ねると彼女はしてやったりといったような得意げな笑顔で言う。
「アンタ、女物の服持ってないだろう?余計なお節介だけど、ま、婚約祝い代わりにと思ってさ。」
「如月君、ずぅっと男物の服ばかりだったもんねぇ。可愛い格好しなくっちゃぁ。」
高見沢くんもピンクのリップを塗った唇を可愛らしくすぼめて悪戯っぽく笑った。
「ここ、そんなに派手じゃないし、如月君にも似合うと思ってさ。ね?葵?」
桜井くんの言葉に美里くんがゆっくりとうなづく。
予想外の展開に彼女らの思惑が理解できないまま固まっている僕をそっちのけにして、彼女らはさっさと店の中に入って、きゃあきゃあといいながら可愛らしい服をいくつか手にとって選んでいた。
「これなんてどう?」
「あー、それは派手だよぉ。」
「そうかな?じゃあこっちは?」
「あ、いいじゃん?」
「あの…。」
ようやく我を取り戻して楽しそうに服を選んでいる彼女たちに声をかけると藤咲くんがこちらのほうに見向きもしないで返事をする。
「あ、サイズは龍麻から聞いてるから心配しないで。」
その言葉に僕は再び驚いた。
「た、龍麻も知ってるの!?」
「今日の午後、アンタを借りるわよって、ちゃんと連絡してあるから。」
驚く僕の顔を、もう一度してやったりの笑顔で藤咲くんが笑う。
「だから、つべこべ言わずに黙ってアタシたちの言うとおりにしてなさい。明日、龍麻と出かけるんだろう?似合うの選んであげるのからさ。」
そこまで言われてしまってそれ以上何も言葉は継げず、僕は藤咲くんの言うとおり黙ってみんなの行動を見守るしかなくなってしまった。
それにしても婚約祝いだなんて、みんなは僕と龍麻のことを怒っていないのだろうか。
去年、女性として一番龍麻の側にいた美里くんに視線を走らせる。桜井くんとボトムを見ているようだが、その顔から感情は推測できない。
なんともいえない居心地の悪さを感じながら僕はみんなが買い物を終えるのをじっと待つしかなかった。
やがていくつかの服を選んだあと、それを藤咲くんがまとめてレジに持っていって会計を済ませる。自分で払うという僕の意見はあっさりと却下され、プレゼントなんだからと藤咲くんに言われてしまえばそれ以上我を張ることはできなくなる。大人しく僕はそれを受け取って頭を下げた。


「ほんとはもっといろんなお店を回ったほうがいいんだけど、今日はとりあえずだからね。」
時間も4時を回った頃に一通りの買い物を終えた僕らは桜井くんおすすめのケーキショップの喫茶コーナーで落ち着いた。
いくつかのショップの紙袋を見ながら藤咲くんがそんなことを言う。
「も、勘弁。」
ぐったりとした僕がそう呟くとくすくすと高見沢くんが笑っている。
「それにしても、なんにも持ってないんだものねぇ。…これから揃え甲斐はあるけどぉ。」
「もうこれで充分だよ。」
「ばかねぇ、女の子は飾ってナンボでしょうが。」
うんざりとした僕の言葉に藤咲くんは呆れたように笑った。
「まぁ、それでもあの龍麻をオトしたんだから、アンタはそれでいいのかもね。」
苦笑する藤咲くんの言葉に、僕はすっかりと失念していたことを思い出し、一気に心臓が縮まっていく。素早く4人を見ると美里くんは相変わらず感情の読めない、スキのない表情で紅茶を飲んでいたし、桜井くんは興味深そうに僕を見つめながらもケーキを食べる手は止まっておらず、残りの二人は面白そうに笑いながら僕を見つめている。
「で、一体どうやってオトしたの?」
おそらくプレゼントは口実で、やはりこれが今日の本題だったのだろう、藤咲くんは僕の顔を覗きこんで尋ねる。
どうやって、って。
それは僕のほうが聞きたいくらいだった。
自慢じゃないけど僕は学校の誰にもばれないほど完璧な男装をしていたし、龍麻も当初は僕のことをずっと男だと思っていた。高見沢くんに見破られなければ僕はずっと男として龍麻の前に存在し続けていただろう。
なのに、龍麻は僕を好きになったと、ホモでなくって良かったと言ったのだ。
「僕だってわからないよ。」
誰に聞かせるでもなく呟いた言葉に藤咲くんが反応する。
「ふーん。じゃあさ、アンタが女だってこと、いつ龍麻は知ったわけ?」
「10月の半ば頃、だよねぇ。」
にこにこと高見沢くんが僕に同意を求める。
「そう…だったかな…。」
あんまり僕は時期を思い出せず、曖昧な返事をする。
面白そうに身を乗り出しているのはもっぱら藤咲くん、高見沢くん、桜井くんの3人だけで、美里くんは静かにケーキを食べたり紅茶を飲んでいるだけである。
「どっちがコクったの?アンタ?それとも龍麻?」
興味津々と言ったような藤咲くんの問いに一瞬だけあの時のことを思い返す。
あの時、熱を出していたらからよく覚えてはいないのだけど、先に言ったのは龍麻のほうだったと思う。だけど、そのことを言うべきではない。それはプライベートなことで、みんなに触れ回るようなことではないから。
答えたくないと、視線で藤咲くんに訴えると、それを察したのか彼女は肩を竦めて苦笑してみせる。
「じゃあ。龍麻はアンタのどういうところが好きだって?」
だけど、その質問もやっぱり僕がしたいぐらいだった。
コンプレックスばかりの僕の、どこがどう好きなのかわからない。龍麻はそういったことを一度も僕に言ってくれなかった。だから僕は自分でも未だに龍麻がどうして僕を選んだのかわからない。
からかわれているのかもしれないと、いつだって思ってしまう。誰か、他の人を好きになって、ぼくの前から去ってしまうかもしれないと、いつだって思ってしまう。
無論、龍麻の言葉を信じていないわけじゃない。
だけど僕は僕にずっとひきつけておけるほど自分に自信がない。ましてや、今、目の前に揃っている彼女たちだって同性の僕から見ても充分に魅力ある人たちだから、いつそうなったとしても可笑しくない。
「…わからない…。龍麻は何も言わない。」
僕の言葉に怪訝そうにみんながぼくを見つめる。
「僕が聞きたいくらいだよ。」
だから僕はいつも思う。
これが夢なんじゃないかと。この幸せが急になくなってしまうのかもしれないと。
そうそういい話なんてあるわけないじゃないか。龍麻みたいな誰にでも好かれる人がこんな僕を選ぶなんて。
こんな大女、可愛くもない、頑迷なだけの僕。
だから、いつでも龍麻がいなくなる覚悟をしている。
「如月くぅん…。」
僕の強張った表情を見て高見沢くんが悲しそうな顔をする。
そうやって人の感情に素直に同調できる彼女が心底うらやましい。そんな可愛らしさのかけらでももっていれば僕はもっと自信が持てたのに。
僕は、どうしてこんなに…。
「あれ?」
俯きかけた僕は沈みかけた場の雰囲気に似合わない桜井くんの明るい声にはっと顔を上げる。
目の前でケーキを頬張っていた彼女は僕の後ろのほうに視線を固定して不思議そうに首をかしげたままでいる。
「あれ、壬生君だよね?」
桜井くんの声に僕たちは一斉に彼女の視線の先を見た。
店の入り口、ケーキショップのガラスケースの前に佇む、おおよそこんな場所とは不似合いな体躯の若い男性。特徴のある詰襟に、端正な横顔はまさによく見知っている顔で。
「壬生!?」
僕は思わず頓狂な声を上げてしまった。
「……?…如月さん…?」
僕の声がよっぽど大きかったのか、それとも壬生の耳がいいのか、ショーケース前で佇んで何かを考えていた壬生は僕らの方を見ると、すぐに滅多に見れない驚いた様子で僕の名前を呼び、こちらの方にやってきた。
僕だけではなく藤咲くんなどの同席している他の人にもいつものような短いそっけない挨拶をすると改めて僕に向かって尋ねる。
「…どうしたんですか、こんなところで。」
そういう壬生の顔は少し腫れぼったいような気がする。
「買い物帰りにみんなでお茶だよ。…壬生こそ、こんなところでどうしたんだ。…それにその顔…。」
と尋ねかけて、脳裏を嫌な予感が一瞬掠める。
壬生に怪我を負わせられる人間を二人しか知らない。その一人は壬生の師匠である拳武館の鳴瀧館長であるが、あの人が壬生をそんな目に合わせるとは到底考えられないから、必然的にもう一人がやったんではと予想がつく。
「まさか、龍麻!?」
「昼頃、組み手をやってて…相変わらず…やられてしまいましたが。」
苦笑する壬生に、ともかく龍麻が変なちょっかいをだしたんではないと知ってほっと胸をなでおろす。龍麻はどういうわけかよく壬生にちょっかいを出して迷惑をかけている。その姿はまるで仲良しの友達とじゃれている小学生のようで、最初のうちはあの龍麻にそんな子供っぽいところがあるなんてと意外に思っていたのだった。
だけど、それは龍麻なりの壬生に対する優しさなのだと理解するようになったのはつい最近。
壬生は小さい頃からお母上が病床についていて、そのために拳武館の裏の仕事をするようになっていた。だから、普通の小学生や中学生のように友達と他愛のないことでじゃれたり、喧嘩したりといった経験が皆無である。だからなのかわからないが壬生は他人に対して一歩引いているところがあり、蓬莱寺や霧島のように人に打ち解けることができないし、人と関わるのがすこぶる苦手のようでもある。
龍麻はそういう壬生の性格をわかっていて、わざと壬生につまらないことで喧嘩を売ったり、じゃれたりして壬生を困惑させている。
だけど当の壬生も自分でわかっているのかどうかは知らないが、龍麻のそういう態度に文句をいいつつも離れることなく一緒に過ごしてることが多いのも事実。
おそらく壬生も龍麻のことが気に入っているという証拠だろう。
「それは…たいへんだったね。」
「ええ。…それで組み手に負けた罰としてここでケーキを買ってくるように言われたんです。…なんでも桜井さんのオススメの店だからといって。」
その壬生の言葉に、桜井くんはにっこりと笑って頷いた。
「そうそう、ボクね、ひーちゃんに昨日教えてあげたんだ。ひーちゃん、結構甘いもの好きだもんね。」
なるほど。僕は納得してそれでもう一度壬生に視線を戻す。
「で、如月さんの分も買っていくかどうか悩んでいたところに、如月さんの声が聞こえたわけなんですが。」
といって僕らのテーブルを壬生はちらりと見る。
「どうしますか?もうひとつ夕食後のデザートに、買いますか?」
その言葉に僕は慌てて時計を見る。
時間はもう5時近い。
「いけないっ!夕食の支度!」
「ああ、大丈夫ですよ。龍麻が支度してくれるそうです。」
壬生の言葉に立ち上がりかけた体がとまる。
「でも…。」
「今日は特製のちゃんこ鍋、だそうですよ。」
「あ、おいしそー。」
ちゃんこ鍋、という言葉に反応してそう呟いたのは桜井くんで、壬生は苦笑しながら頷いた。
「よかったら、一緒にどうですか?龍麻、3人だけじゃ具材が少なくておいしくならないって文句を言ってたから。」
「え。ほんと?いいの?」
壬生は頷いてから携帯電話を胸ポケットから取り出して電話をかける。龍麻とのやり取りのあと、他に誰か行くかと尋ね、結局のところ全員が行くことになって僕らはそれで店を出た。
「ダーリン、料理するのぉ?」
歩きながら不思議そうに、可愛らしく小首を傾げて甘い声で高見沢くんが壬生に尋ねる。
「ああ。彼も去年は一人暮らしだったしね。…料理は割りと好き、だそうだよ。もっとも僕は食べたことがないけれど。」
壬生は午後をかけて僕らが買った荷物を一人で全部背負っている。それはさすがに悪いからひとつでも持とうとしたのだが、壬生にあっさりと却下されてしまった。
そんなんで家に帰ったら龍麻にどやされるから、というのがその理由。
駅につくと僕らは夕方のラッシュにもまれながら埼京線に乗り込んだ。壬生が他の乗客よりも頭一つ高い分、目印にできるからはぐれずにすむ。
1月初旬では5時を過ぎるともう真っ暗で、明かりの灯った家々の間を縫うように近道を歩き、店のほうではなく、家の玄関のガラス戸をがらりと開けると、そこまで鍋のいい匂いが漂ってきていた。
「おかえり。」
龍麻が玄関先にエプロン姿で出迎えてくれる。普段見慣れないその姿に、みんな驚いて笑ったり、目を丸くしていたが、そんなのは気にも留めない様子で来客用のスリッパを揃えてくれる。
「遅くなってごめん。…夕食の支度、僕、変わるから。」
「いいって、気にするな。たまには休めよ。…壬生、居間にテーブル出して。」
「ああ。」
みんなを居間に案内して、すぐに食器やテーブルに出すカセットコンロの支度に取り掛かる。壬生はテーブルを出して、その上を綺麗に拭いてくれたのですぐに食卓の準備ができた。
「わー、すごーい。」
龍麻が出してきた鍋は家の土鍋のなかで一番大きいもので、本来ならば10人くらい用のものである。その中にぎっしりと入っている具は海老やら魚やら貝やら、野菜やら肉やら、豆腐やら巾着やら、もういろんな種類の具がぐつぐつと煮えていた。
「おいしそう…。」
桜井くんの目が嬉しそうに輝いているのは無理もなく、おいしそうに海老にかぶりついていた。僕も鍋からつくねと白菜を引き上げて、さましながら白菜を口にする。
いろんな具から出たダシがしみこんだ白菜はとてもおいしい。龍麻の意外な料理の腕に僕は感心してしまう。
「おいしい。」
「だろ?俺んち秘伝のちゃんこ鍋なんだ。うちの母さん、骨接ぎの手伝いとかで忙しかったから、冬場になるとしょっちゅう鍋やってたんだ。」
なるほど。僕は思わず納得してしまう。
「そういえば、龍麻の実家ってどこ?」
思い出したような藤咲くんの質問に龍麻が餅の入った巾着を飲み込んでから答える。
「俺?板橋。こっからチャリで10分ぐらい。」
「えええー!?初耳ー。ひーちゃん、こっちのほうなの?…最初にこの店に来たときに何にも言ってなかったじゃない。」
桜井くんが尋ねると龍麻はあっさりと頷いてみせる。
「ここは北区だからな。うち板橋区だし。」
「でもそんな近くなんて知らなかったー。如月君、知ってた?」
桜井くんの質問に僕はゆっくりと首を振る。
「僕だって、正月に始めて知ったよ。…びっくりした。」
「そうだよねぇ…。じゃあ、もしかして、ひーちゃんて如月君知ってた?」
何気ない桜井くんの質問に僕は今更ながらその可能性のあることを思い出して龍麻の顔を見た。無論、僕だけでなく、壬生も藤咲くんも高見沢くんも、そして何よりも美里くんがとても複雑な顔をして龍麻がなんと答えるかを凝視していた。
「…区が違うとさ、学校は全然別だし、幼稚園は違うしさ。距離にして近いけど、実際はひどく疎遠なんだよな。」
龍麻は鍋から自分の器にねぎやら豆腐やらを取りながら言う。
「俺自身はここで始めて翡翠に会った。」
「なぁんだ。」
何を期待していたのだか、残念そうに桜井くんが肩を竦める。
「じゃあ、龍麻が如月に惚れたのは、まさに去年ってことなんだね?」
藤咲くんがにやりと笑って龍麻に尋ねる。
「ああ、そうだな。」
龍麻が頷くと藤咲くんがさらに身を乗り出して尋ねる。
「さっき、如月に聞いたけど答えてくれなくって。…あんた、如月のどこに惚れたの?」
にやにやと笑いながら先ほどの話題を蒸し返し、僕は慌ててむせそうになってしまった。隣では壬生も驚いたようで食べかけていた巾着を一瞬、ぐ、とつまらせたがなんとか飲み下す。
だけど、彼女たちも、龍麻も平然として食事を続けている。
「そうだな。…全部って言うのは?」
「もちろん却下。」
僕の顔が真っ赤になりそうなことを龍麻はさらりと言ってのけ、それを却下した藤咲くんも笑顔を崩さずに龍麻を見つめている。
「あとは…強いて言えば…宿星。」
龍麻はおどけたように笑っていう。その口調はあの龍山先生の真似をしていて、隣で壬生がひっそりと苦笑していた。
「如月が玄武で、龍麻が黄龍だろう?…それが?」
「だから、四神は黄龍を守護するもので、玄武はその四神の長。黄龍は、玄武を従えるもの。」
龍麻が薄い笑いを浮かべながら説明をするのを聞いて僕は少しだけちくりと胸が痛んだ。
僕は、玄武だけど、ただそれだけで龍麻を好きになったんじゃない。それは、わかってもらっていたと思っていたのだけど。
龍麻にとってはそうじゃなかったようで、僕は少しだけ悲しくなった。
それでも、龍麻が僕のそばにいてくれるのならそれでもいい。
「それだけ?」
「あとはどんな答えが希望なんだよ?」
龍麻はちろりと藤咲くんを見て、それから口の中に放り込んだつくねを嚥下する。
「たとえば、如月君が可愛いからとか。」
「んなの、みりゃわかるだろ?」
龍麻はそういったきり、また鍋をつつく。
「つまんないねぇ…。この年で婚約を決意したんだ、もっと情熱的っていうか、決定的な何か、あってもよさそうなもんじゃないか。」
「他人のそんなこと聞いて何が楽しい?」
「後学のために。」
藤咲くんと龍麻のやりとりを高見沢くんや桜井くんはまるでテニスの烈しいラリーを見るように、首を左右に振りながら聞いている。
「人、それぞれだろ?俺の例がそのまま亜里沙に適用されるとは思えないね。」
にぃっと笑う龍麻に藤咲くんは観念したらしく、肩を竦めて見せる。
「俺にとっては婚約なんて大したことじゃない。もっと他に大事なことは一杯あるからな。」
その言葉にさらにずきんと胸は痛んで。僕はそれ以上、いたたまれなくなってしまった。
「…僕、お茶を入れてくるよ。」
そう言って台所に入った。
そう、龍麻にとっては僕との婚約なんて本当はどうでもいいことなのかもしれない。わかってはいたことだけど、少しだけ傷ついて。それでも一緒にいられるからと自分に言い聞かせる。
藤咲くんのどこが好きだという問いに答えられないほど、魅力のない人間なのだから仕方ない。
龍麻が一緒にいてくれることを幸運だと思わなければならないことをすっかり失念していた。
僕はいつの間にか思い上がっていたのかもしれない。
龍麻が優しいから。甘やかしてくれるから。
だけど、この幸せを手放して生きていく自信はもうなかった。

 

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