そのまま僕はずっと龍麻のそばにいた。寝食も忘れてしまうほど、夢中だった。
いつ朝が来て、夜が更けたのかも分からない。
側に壬生がいたようだったが、ずっといたのかどうかさえもわからない。
ただ、僕は、握っている龍麻の手がぴくぴくと、痙攣のように動くのに気付いて顔を上げた。
「…龍麻…?」
「ん…。」
僅かにうめいて、ついで瞼も微かに痙攣する。
「目がさめそうだな。」
頭の上から壬生の声が振ってきて、ようやくそこに壬生がいたことを思い出した。
「僕、院長を呼んでくるっ!」
僕は方陣を踏まないようにして病室から出て、医局まで走っていった。
岩山院長に龍麻の容態の変化を伝えると、院長はその回復力に驚き、さすがに黄龍の器だけはあると笑って、高見沢君を連れて龍麻の病室に向かっていった。
二人の後姿を見送りながら、僕は自分のできることが全て終わったのを寂しい思いでかみ締めていた。
もう龍麻には僕は必要ない。
そうして僕は木枯らしの吹く街中へとぼとぼと一人で家路についた。
家に帰ってみると、新聞受けには新聞がたくさん詰め込まれていた。それを全部抜き取ると抱えて家の中に入る。それらの日付から、今日は23日であることがわかった。
ああ、もう年末まで少ししかない。店の掃除も、蔵の整理も何も終わっちゃいないのに。
はたきをかけた商品には、またうっすらと埃が積もっているだろう。庭の手入れもしなくては。得意先への年賀状も書いていない。
やらなくてはいけないことが山のようになっているのに、僕はなんだか酷く疲れて何もする気が起きなかった。
新聞も居間に放りっぱなしにして、片付ける気もおきないまま自分の部屋に入る。後手に襖を閉め、一気に徹夜の疲れが出て力が全部抜けたようになって、その場に座りこんだ。
「は…は、は…。」
口からは笑いが漏れているはずなのに、僕の目にはじわりと涙が浮かび、下瞼に湛え切れなくなった涙がぼろぼろと毀れ始める。
『で。…使命好きなおまえのことだから、どんな手を使ってでもオレを護ろうとした、ってわけだな?』
『面白かったか?何も知らないで、オマエの計略にはまる俺が、そんなに面白かったのかよっ!?』
龍麻の叫びが頭の中でこだまする。
僕は耳を塞いで首を振るけど、それは何度も何度もそこだけリフレインがかかって僕を苛んだ。
違う。そうじゃない。
僕は、僕は本当に龍麻が好きだったんだ。
本当に龍麻を愛していたから、どんなことからも龍麻を護りたかったんだ。僕にはそんなことしかできなくって。龍麻を護れるほど強くはないけど、でも自分のできる限り、どんなことでも力になって、護りたかった。
だけど龍麻はもう僕を許さないだろう。
最後に見た龍麻の顔を思い出す。
泣き出しそうにくしゃくしゃに顔を歪めてた。
あの強気な龍麻がそんな顔をしたのはよっぽど怒っていたのだろう。
きっと、もう二度と僕に援護要請もしないだろう。薬も地下で拾ったものが沢山あるし、装備品はほぼ最強のものが揃っているし、きっと店にもこなくなるに違いない。
病室に蝋人形のような生気のない顔で横たわっていた龍麻。あれが僕の見た最後の龍麻になるだろう。
そう思うと無性に寂しくなるがこれも仕方がない。
もっと早く素直な自分の気持ちをちゃんと伝えていればよかったのだ。恥ずかしいからといって先延ばしにしないで、『愛してる』って言えばいいだけだったのに。
いや。でも、言った所で、やっぱり騙してたと思われただろう。
だって、僕は一度龍麻を騙していたから。…女なのに、男だって言った。
だから僕を信じられなくても当然なんだ。信じて欲しくて、龍麻には正直に接するようにしてきたけれど、所詮、前科があれば全て無駄なこと。
…どうせ、最初からうまくいくはずなんてなかったんだ。
そんなこと、わかってたはずじゃなかったか?
一度うまく行きかけたから、もしかして本当に幸せになれるかもしれないなんて浅はかなことを考えたのが愚かだったんだ。
…愚かだって分かってたけど、幸せになりたかった。
何もいらない。龍麻だけいてくれればよかったのに。嫌われたって分かっててもまだ愛している。
だけど、この思いはもう永遠に報われることもない。
僕はのろのろと立ち上がって布団を敷き、どさりと倒れるようにして横になった。
母さん、やっぱりだめだった。
ちらりとそんな言葉を頭に浮かべながら、僕は深い眠りに引きずり込まれていった。
よっぽど疲れていたのか、翌日、目が覚めて見たらもう昼なんてとっくにすぎていた。ぼんやりと起き出して、龍麻の看病でしばらく病院にいたためにお風呂に長いこと入っていないことを思い出し、慌てて僕は風呂に入る。
風呂場の鏡で顔を写すとげっそりとした、人相の悪い女がいた。
ああ、そういえば食事もしていなかったんだ。
お風呂から上がって、冷蔵庫の中身を整理しながら軽く食事をする。食事をしたら、少しだけ体に力も戻ってきたからそのまま夕食の買い物に出かけた。なにしろ、数日間家を空けてしまったために冷蔵庫の中の食べ物が佃煮のような保存食以外ほとんど全滅だったから。スーパーまでの道のりを歩いていて、街中がネオンで彩られ、しゃんしゃんという鈴の音や鐘の音があちこちから聞こえてくる。ようやくそれで今日はクリスマスイブだったということを思い出す。
今年も相変わらずのクリスマス。まあ、しかたあるまい。僕はもともとキリスト教徒でもないのだから。そんな言い訳をしながら豪勢に、とまでは行かないが、それなりのおかずを作れる買い物をする。
ちゃんと食べないと悲観的になったり、いらいらしたりして精神的にもよくないから、しっかりと食事をして元気になって、それでまたがんばらなくちゃ。
重い荷物を抱えながら家に戻って、溜まった洗濯物をしてから夕食の支度にかかる。
居間のテレビをつけて、わざと音量を大きくして、寂しくないように、くだらない番組の音でもいい、家の中が静かになって一人であることが身にしみないように。数年間、一人でいることに何も思わなかったのに、たった半年足らずで一人でいることが辛く寂しい。まだ一人でいることに慣れなくて、せめて自分の考えが暗い方に行かないように、わざと上機嫌な振りをして、鳥の竜田揚げを作る。七面鳥も、フライドチキンもあまり好きじゃないけど、これだったら少しはクリスマスらしいだろう。ジングルベルを鼻歌で歌いながら揚げていて、ふと気付くと一人では食べきれないほどの量を作っていた。
「…〜っ!」
僕は油の火を落としてしゃがみこむ。
なんてバカなんだろう。一人でこんなに食べきれるはずなんかないのに。ため息をついて山のように作ってしまった竜田揚げを見る。
龍麻はこれが大好きで、いっつも一杯作ってって強請っていた。だから、つい作ってしまったんだ。
体育祭の時だって、どうしてもこれが食べたいって、絶対これだけは外さないでねって何度も言って、僕が持っていったときに蓬莱寺にさえ分けずに一人で食べていた。
じわりと浮かんだ涙を拭きながら、もう一度、心に刻み込むようにして呟いた。
もう龍麻はいないんだ。
もう一度涙を拭いて立ち上がり、片付けに入る。とりあえず、サラダもあるし、ほかのものを作るのも段々めんどくさくなってきたからこれで夕食にしちゃおう。
あまったら、なくなるまで食べつづければいい。そしたら、嫌になって、もう二度とこんなバカなミスをしなくなるはずだから。
情けないキモチで食事の前に使い終わった汚れ物を片付けていたら、ふと強い気が近づいてくるのを感じる。
「まさか…?」
手を止めて、じぃっと気配をうかがう。段々と店に近づくそれは、間違えようもない、紛れもなく龍麻の気。前よりも格段に強くなっている気は、龍麻がすっかりと回復したことを物語っていた。
嬉しいと思う反面、どうしてと疑問に思い、頭の中をその疑問に関してのいろんな回答が明滅する。うちに大事な忘れ物をしたんじゃないかとか、本を借りにきただけとか、もしくはアイテムの鑑定依頼とか、村雨たちの装備品を買いにきたとか。でも一番当たりに近いと思われるのは、僕に怒っている最中に斬られたからその続きを言いに来たんじゃないかということだった。
それも仕方のないこと。龍麻の気が済むまで怒られよう、元はといえば僕が悪かったのだから。覚悟を決めて廊下に出て行くと、店が開いていないと知った龍麻は裏口に移動しかけていた。
ああ、随分と急いでいる。かなり怒っているに違いない。
怒ってても、僕はもう一度元気な龍麻が見れることが嬉しくて、廊下を玄関に向かい、外の電気をつけ、引き戸を開ける。目の前にはびっくりした龍麻が突っ立っていた。
「いらっしゃい。」
僕が笑って言うと、龍麻は困ったようにうなづいた。
改めて龍麻の姿を見るとなんだか沢山の荷物を持っている。
「退院したんだね。…おめでとう。」
龍麻はまだ困った顔でもう一度うなづいた。
「こんなところで立ち話もなんだから上がるといい。」
僕は家に上がるように促して、龍麻にスリッパを出してやろうと玄関に戻りかけた。
「…如月…。」
震える声が僕を呼ぶ。
振り返ると、僕よりも大きな背を心持ち丸めて、悲しそうに僕を見つめる龍麻がいた。その目はまるで犬か何かのようで。普段の、あの王様発言を連発している彼からは到底想像できないような瞳だった。
「どうしたんだい?」
「…怒ってないのか…?」
震える声で尋ねられて、怒られるとばかり思っていたのに、正反対の態度の龍麻に僕はかえってびっくりしてしまった。いつも自信家で、何一つ恐れない龍麻が不安そうな顔を見せている。
「龍麻こそ、もう怒ってないの?」
もともと怒っていたのは僕じゃなくって、龍麻のほうだったのに。
「俺は…。」
何かを言いかけて、龍麻が俯く。
「ああ、とりあえず中に入ろう。日が傾いてきたから随分冷えてきたよ。」
思いのほか早く冷え込みが厳しくなって、傷にさわるだろうと龍麻を家に押し込み、居間に待たせて僕はお茶を淹れた。龍麻専用の湯飲みはしばらくぶりに龍麻の前に置かれる。
「…あのさ…この前…中央公園で…。」
僕が座るのを見計らって龍麻はぼそぼそと、普段の彼らしくない僕に聞こえるかどうかの小さな声で話し始める。
「…俺、如月が…玄武だから…義務感で付き合ってるのかなって思ったら、すごく悲しくて。…いままでのこと、全部…そうだったかなって…。」
龍麻はそこで声を詰まらせる。
「俺一人で、勝手に盛り上がってたかなって思ったら…悲しくなって。…すごい不安になった。」
細身だけど、背の高い上半身を僅かにまた丸める。
「…ごめん。…何言っても、やっぱ言い訳だな…。」
龍麻は小さく自嘲するように笑うと泣き出しそうな顔で微笑んだ。
「それに、村雨や御門が、オマエのこと良く知っててさ。…オレ、全然知らなくって。…なんで話してくれないかなーって…思ったら、なんだかすっげー悔しくって。」
龍麻はいいながら段々と俯きかけた顔を再びあげる。
「もう嫌いなら二度と顔を出さないからさ。…でも、これだけは信じて。…俺ね、すげー如月のこと好きなんだ。…如月が側にいるだけで嬉しくって、笑っただけでも嬉しくって。…如月がオレになんかしてくれるたびに、子供みたいに嬉しくって、バカだなって自分で思うほど嬉しくってさ。」
龍麻の言葉に僕の胸はとくん、と大きく、優しく波打った。
「ほんとにごめん。…俺ね、ほんとは如月がどう思ってても、俺の側にいてくれればそれでよかったはずなんだけどさ。一回手に入れた、と思ったら全部欲しくなっちゃったんだ。…ほら、俺って欲張りだし。」
龍麻は苦笑いしながら頭をぽりぽりと掻く。
「あんなこと言っておいて今更許してくれって、さすがのオレでもあつかましくって言えないし。…怒ってても、嫌われててもいいから、も一回だけ顔が見たかったんだ。」
そう言って龍麻が恥ずかしそうに笑った。目には今にも毀れそうな涙が溜まっている。僕はほっとして、そして次にはなんだかおかしくなってしまった。
だって、僕らは互いに同じことを考えていた。
「え…とね。…怒ってなんかいないんだ。」
僕の言葉に龍麻が驚き、顔が明るくなる。
「僕が…ちゃんと言わなかったから…。」
それが全ての原因。世の中には言わない方がいいこともあるけど、これは絶対に言うべきこと。僕はばくばくする心臓を懸命に押さえ込みながら上ずった声でゆっくりと龍麻に言った。
「玄武云々じゃなくって…僕は龍麻が好きだよ。」
龍麻が息を飲む。
「僕、最初っから普通の女の子として出会いたかったよ。街中をね、龍麻と一緒に普通のカップルみたいにして歩きたかった。手をつないでね、他愛もないことを喋りながら、歩きたかったんだ。」
似合わないけど、甘えてみたりもしたかった。普通の高校生の、どこにでもいるようなカップルになりたかった。どうして僕はそうなれなかったのだろう。
いまいましい玄武という星が僕のささやかな願いを邪魔する。だけど、その星なくしては龍麻にあえなかった。
「玄武じゃなければいいと思った。…でもね、同時に玄武でよかったとも思ったんだ。…玄武だからこそ、君の側にいることができるだろう?」
玄武である自分が忌まわしくて、同時に嬉しくて。その力も役目も、僕は好きで嫌いで。全部、黄龍が龍麻だったから思うこと。
「…もっと、早くに言うべきだったんだけど…。」
それこそ、言い訳にしかならなくって。
僕はもう二度と後悔したくない。もう二度と龍麻を悲しませたくない。
だから、恥ずかしくって顔から火が出そうだけど、大事なことを伝えることにした。ゆっくりと、大きく息を吸って、それからちゃんと龍麻の目を見て。
「僕は、龍麻を愛してるよ。」
きっと、僕の顔は真っ赤だったと思う。
だって耳まで熱くて、もう頭なんか真っ白に焼ききれていたから。
龍麻といえば、一瞬固まって、それから本当に吃驚した顔で、それが段々に崩れて、とうとう溜めていた涙をぼろりと零して、とても綺麗に笑った。
「良かった。」
ちょっと涙声で嬉しそうに言って、それから僕の側まで膝で歩いてきてぎゅうっと力いっぱい抱きしめてきた。あったかい龍麻の胸。とくんとくんと力強く優しく打つ龍麻の鼓動。生きてる。ちゃんと生きてる。僕はようやくそこで龍麻が無事だったことを実感し、安堵した。
「…如月…。」
「うん?」
「…翡翠って呼んでいい?」
改めて聞かれると少し照れるけど。
「うん。」
「…翡翠。」
「なに?」
「…翡翠、翡翠、翡翠。」
何度も何度も、龍麻はその呼び方に馴染むまで僕の名前を呼びつづける。
「翡翠。」
耳元で囁く龍麻の声をうっとりと聞いていると、どこからかぎゅるるるというお腹の音が聞こえてくる。
「あ、やばい。」
龍麻が笑いながら頭を掻いた。どうやらかなりお腹がすいているらしい。
「夕食、食べていくだろう?」
「え?あるの?」
「…つい癖で沢山作ってしまったんだ。…食べていってくれると助かる。」
「食べるっ!」
即答の龍麻に僕は笑いながら台所に入っていった。山のようになった『からあげ』もこれで無駄にしないですむ。
バットに入れて油をきった『からあげ』をお皿に移しながら、嬉々として頬張る龍麻の顔を予想して僕は自然と微笑んでいた。
END
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